大本教手入れの前後
──右翼革命の資金ルート遮断──
唐沢俊樹
手入れは宗教弾圧ではなかつた
後世何かの参考になるだろうから、閑を見て資料を整理し、書きとめておこうとは、時々考えるのだが、さてとなるとその閑がないまま、今日に及んでしまつた、信濃往来に需められるまま、筆を執つてはみたものの、いま郷里にある身の、身辺になに一つ参考資料があるわけでなし、すでに年を経て記憶も朧ろげでたどたどしく、この文章を記録としてとどめるにはいささか心許ない感がないでもない。横浜の住宅には相当の資料も蓄えているつもりだが、それをとりよせて検討するいとまもないまま、多少の不備や思い違いのあることを予め念頭において読み過ごして頂ければ幸いである。
出口直という五十七歳になるお婆さんが、突如として神憑り状態になつて自動手記をなし、それがわが身に憑いている艮の金神の神告だと信じた。これが大本教神典御筆先の端緒であり、直の末女純子と婚した出口王仁三郎が大本教の枢機を掌握して鎮魂帰神法その他の術を編み出し、又教義説明についての言霊学を提唱して、一般庶民をひきつけたばかりでなく、広く知識階級にまで食入つて信者を糾合し、全国を通じてその数は手入れの当時十万を下らぬものとみられていた。
その後、ひとのみち教を始めとして幾つかの所謂新興宗教が弾圧を食つたので、大本教の手入れは宗教弾圧の皮切りをなすものであると信じこんでいるものが多いようだが、大本教の場合は決して宗教弾圧のためになされた手入れではなかつたのである。当時私は警保局長として、当面の責任の地位にあり、直接采配を振つていたので、その間の事情には最も精通してきているわけであるが、新興宗教たる大本教そのものを弾圧しようなどという考えは毛頭なかつたことを明言するものである。
二・二六事件勃発の前夜とも云うべき時代的背景のなかで、京都綾部の大本教本部というよりも、出口王仁三郎が右翼と気脈を通じて果たした役割は蓋し想像を絶するものがあつた。澎湃たる右翼革命の蠢動が露骨化しどうにも手におえぬ情勢になつており、大本教を通じて広く全国の信者からすくいあげた浄財の巨額が出口の手から右翼に流れ、これが軍資金になつて、右翼の勢力は燎原の火のように延びて、やがて手のつけようがなくなることはわかりきつている。そこで右翼弾圧のために大本教手入れを断行することになつたのである。
右翼軍人と結んだ王仁三郎
大本教の教理のなかには皇室の尊厳を冒涜する事項が数多く盛りこまれていた。出口王仁三郎が著したり霊界物語にを読むとすぐ誰にでもそれが判るのであるが、たとえば、出口家は素戔嗚命の直系と自称し、いまの皇室は天照大神系であつて、国土をユダヤ方面から侵入して来た所謂天孫族に纂奪された素戔嗚命の出雲族は逼塞せざるを得なかつた。然しいまや時節到来して世直しの時代を迎えんとし、纂奪者の手から皇位と国土を奪還して、本来の統率者がその位置に戻るべき秋に際会しようとしている。という意味が強調せられ、王仁三郎の日常生活は天皇の生活をそつくり模していたばかりでなく、内閣組織を有し、それぞれの閣僚まで定められて、閣議に相当する神庭会議を開催してさまざまの重大事項を王仁三郎親裁の下に決定していた。
これらの事実は、大本教本部にあつては殆ど公知のことだつたので、われわれの手許へはさかんに投書の形で通報されて来た。皇室抹殺の野望が発展しつつあるのに何故手をつかねて顧みぬのか、といつたような激越な文字をつらねたものも少くなかつた。
上の句をいま思い出せないが「大内山にかかる黒雲」といつた風な、皇室誹謗の王仁三郎の歌がいくつとなく流布され、そのどの一つをとりあげても当時の刑法にひつかける位のことはいと易かつたのであるが、児戯に類する宮廷生活模倣の域に留まるものであつたとしたら、なにも大掛りな手入れなどしなくてすんだかもしれぬ。
統帥権の陰にかくれてわれ等の手の及ばぬ所で勝手気儘に振舞い武力革命を呼号する右翼軍人と王仁三郎とが結びついて、大本教の豊かな資金が右翼に流れ、その陽動暗躍が重大事態を予想させるに充分なものかあつたので、ついに意を決して起たざるを得なかつたわけである。
大陸進出を策した出口の野望
当時満洲には紅卍字教という一種の新興宗教が勢力を占めていた。この信仰に入つているものは、たとえ殺されても忽ち甦えると言われていたので、軍閥がこのところを逆用して抗日気勢を煽り、紅卍字教徒を先登に立てて日本軍に立向つたことは支那事変の頃よく知られた事実である。日本軍の弾に中つて一時生命を失つても、やがて生き更えるとの信念に徹しているのだから勇敢に体当りを食わして来たのが紅卍字教徒であつた。
その紅卍字教と連絡をつけて、満洲進出を策したのが出口王仁三郎であつた。国内では右翼並びに軍人と手を握つて国家革命の機を醸しつ大陸進出の野望を燃やして徐々に布石を固めていることが手にとるように私にはわかつていた。
王仁三郎は、自ら統監となつて右翼思想中心の昭和神聖会を組織し、当時泣く子を黙らせるほどに羽振りをきかせていた黒龍会首領内田良平と王仁三郎の伜を副統監に据え、九段の軍人会館で拳げたその発会式には多数の現役軍人も列席して盛大を極めたものだつた。
王仁三郎の説に従えば、ユダヤ民族は十二の分派をなして夫々の方面に拡がつたのであるが、うち十一分派の行方は明瞭であるにも拘らず、残る一派は杳として消息が絶えていた。ところがいずくんぞ図らん、これが印度を通り、支那を経て日本にわたり、天孫民族の名において君臨し、現在に及んでいるのがいまの皇室に外ならぬ、というのである。
ユダヤ─印度─支那─日本の過程を経る間に龍顔という言葉を拾いとつて天皇に用いることになつた、言わば龍顔は支那で拾つた尊称であるからとの理由をくつつけて、龍顔以外の皇室用語はすべて王仁三郎への尊称に用いさせていながら、龍顔だけは排斥していた。
いまにして思えば、その稚気、むしろ笑うにたえぬものさえあるような気がせぬでもないが、彼にしてみれば大真面目であつたのである。天皇が白馬に召しているというので、王仁三郎亦つねに白馬に跨がり、現役の憲兵が絶えず護衛格でつきまとうというていたらくであつた。
宮殿からの出入りはすべて皇室のそれと同様、鹵簿により第一公式鹵簿、第二公式鹵簿の区別までつけて、いささかも忽せにするを許さぬといつた調子であつたし、五十音の組合せに尤もらしい理屈をつけて「スの玉」理論なるもりをでつちあげ、天下を掌握するものが大本教でなければならぬと強調するかと思えば、ノアの洪水と教祖直(ナオ)を結びつけて煙にまき、更に王仁三郎自らキリストの再来化身だとして、その左の掌中に十字を刻んでいることを誇称し、四六時中を通じて決して左の掌を開かぬ仰々しさであつた。こんなことが往々にして人心の機微に食い込み駆つて盲信に追込むのだから不思議と云えば不思議なものである。
大本教本部に大弾圧下る
具さに大本教と教主出口王仁三郎の動向を探り、右翼や軍部との接触情況を調査するにつれて、もはや一刻も放置出来ぬことが判つて来た。それというのも軍人右翼の動きは刻一刻尖鋭の度を増し、いつ重大事が突発を見るかわからぬまでに機の熟しきつたことがよくわかるからである。
事を企てる場合に先立つものは軍資金である。統帥権に立籠る現役軍人の行動については、いかに目に余るものがあるにしても、系統に属する上部が手を下さぬ限り文官たる我等は一指も染めるわけには行かぬが、軍資金の迸出口をつきとめたからには、この面から軍人の暴挙を制約することは可能であるし、世論の反撃や、軍部の思惑などを気にしているべきときでないとの結論に達して、菊花紋章入りの褥の上から出口王仁三郎以下の教団幹部を検挙するとともに、綾部の本部を初め枢要な関係筋一般にわたつて手入れを断行しおびただしい証拠物件を押収した。
治安維持法と刑法に抵触するものとしてこの挙に出たものであることは云うまでもあるまい。
後に私は手入れの跡を親しく視察し、王仁三郎等の夢を想つて感慨に打たれたことを今なおまざまざと想起するのである。
こうして、大本教団からする右翼革命の軍資金ルートは一応遮断したのであるが、そのこと一つや軍人右翼の旺盛な革命意欲を抑圧することなど思いもよらぬほど、既に事態は急迫していた。
さきに私はこの誌上で、私の警保局長在任時代、右翼蹶起の必然性を察知し、手段の限りを傾けてそれの防遏に腐心した事情を述べたことがあるから、ここで再びそれをくりかえす煩を避けるが、とにかく私の微力を以てしてよく抗し得る時勢ではなかつたのである。
果然二・二六事件の突発
大本教の手入れも大体一段落ついたので、忘れもしない昭和十一年二月二十五日、大本教本部のある京都に全国の警察部長会議を招集し、私は大本教事件の全貌を説明するとともに、単なる不敬事件や宗教弾圧でない点を強調して、国家革命につながる重大事犯であることを示唆し、一般の誤解を解くよう善処すべき旨を訓示して翌日帰京したわけだが、すでにこの時は二・二六事件が勃発していたのである。
恰も警保局長の不在に乗じて事を起したような形になつたので、私をめぐつてさまざまのデマがとんだものだ。反乱軍幹部は京都における全国警察部長会議に唐沢が出席することを探知して特に二月二十六日未明を蹶起の日と定めたものであるという説、更にうがつたものになると、唐沢はいち早く二月二十六日に重大事態に突入することを承知し、事前に唐沢の手で防止することの不可能なるを察知して警察部長会議に藉口して避退を企てたという説などがそれであるが、いずれも結果から類推して、でつちあげた単なるデマであることはいうまでもあるまい。
実は私が京都行きを決行するまでには警保局で会議を開き、情況の分析をして、一日たりとも私が東京をあけることはまずいのではなかろうかと諮つた所、今日明日というほど切迫しているものでもなし、一日位出張しても差支えあるまいから、大事な会議でもあり旁々是非出席するがよかろうとの意見にまとまつて、あわただしい旅に出たまでのことであつた。