が、過去現在の大本教が何であらうとも、霊的体験を、ふんだんに供給してくれたことにかけては、私はどんなに感謝しても、感謝し切れなく、考へて居るのであります。信仰を求めて、大本に集つた人達から云へば、あそこが立派な修行場でありませうが、私から云へば、あそこは一の実験場で、信者は悉く私の研究材料であります。大正六年頃は、集まつてくる人数が、それほどでもありませんなんだが、七年八年となると、イヤ実験材料が集まる集まる、一日平均二三百人にも上るのですから、私に取りては、誠に以て有難い仕合せで、腕によりをかけて、片ツ端から神懸りの実験を試みました。何も知らない世人は、鎮魂などといふと、世界で特殊の神秘的な霊術でもあるかの如く思はれるかも知れませんが、実はある一二の形式をのぞけば、単なる一の精神統一法に過ぎないので、催眠術と云つたところが、座禅と称したところが、観法と呼んだところが、その根本の趣旨──即ち人間の霊肉一致の常態を打破し、心霊作用の発動を講ずる点に於ては、何等相遑点はないのであります。私はむろん成るべく日本在来の形式を守りて、鎮魂の実修をすすめましたが、お蔭様で、大ざツぱではあるが、心霊学上の重大なる諸問題──例へば死後人間の幽体、並に霊魂が実在すること、それ等の霊魂は、生きてゐる人間の体に憑依すること、千里眼、透視、自動書記等といふ現象は、決して詐術の所産でなくして事実であること、現界、幽界、霊界等の間には、なかなか密接なる関係があることなどが、曲りなりにも、実地体験の上から、ドウやらはつきりと会得することが能きました。甚だ口幅ツたい申分ですが、動物霊、其他の憑依現象を、世に発表したのは、私の方が西洋の心霊学者よりも、些と早かつたやうです。それも偏に私が大本教の内部に居て、実験の便宜を有したからで、私が烱眼な為めでも何でもありません。これにつけても、完全なる心霊研究所の設置は、目下の急務であると痛感されます。大ざツぱな、荒ごなしの実験時代は、モウ夙うに過ぎました。今更幼稚きはまる、大本流の鎮魂帰神法の修行でもありますまい。もツともツと着実精緻なる、純科学的の研究を、ドシドシ遂行するのでなければ、うつかりすると、欧米の学界の後塵を拝して、指をくはへて居らねばなりますまい。綾部を去るに臨みて、この感は、一層私の胸に痛切に湧き出るのを覚えます。
六
イヤ書いてる中に、私の綾部を去るの辞は、甚だ殺風景きはまるものに成つて了ひました。善男善女をよろこばすに足るやうな、つつましやかな懺悔話もなければ、青年子女をうれしがらせるやうな、詩趣情味津々たる感想の流露もなく、おもちや箱をひつくりかへしたやうに、何も彼も打ちまけての、ハツ当り式なぐり書き──こんなものを読むべく強ひらる方々には、誠にお気の毒の至りであります。その埋め合せといふ訳でもないですが、これから少々私の胸に深く刻まれてゐる、綾部の自然界の印象でも書いて見ませう。
綾部が山陰の一名勝として、押しも押されもせぬのは、何と言つても、和知川の清流を控へてゐる、並松一帯の一地域があるからです。東西南北の折り重なつた山脈が、この辺へ来て、ちよつと遠慮して、背後の方へ引込んでくれてるばかりに、山水のゆとりが出来、其間に亭々たる巨松が、程よく配置されて、なかなかに棄て難い風致を作つて居ります。深山幽谷ならば知らぬこと、都会の附近に、これほどの勝地はめつたにありません。私が十年佗び住居を構へたところは、丁度並松の真中に位して居ました。若し綾部に、この並松と和知川とがなかつたなら、私が果して綾部に引込む気になつたかドウかは、いささか疑問であります。
綾部に引越す匆々、私は一艘の小船を新調し、暇さへあれば、ギチギチそれを漕ぎまはりました。近頃でこそ、山陰の小都会にも、表日本のケバケバしい、運動かぶれのした風潮が侵入して来て、ペンキ塗りのボートなどが、しきりに漕ぎまはされてゐますが、十年前、私が並松に移つて来た時分には、用事もないのに、船を弄ぶキマグレ者などは、ただの一人もありませんでした。従つて和知川全体は、殆んど私一人で占領してゐるやうなもので、私は得意の鼻をうごめかしながら、来訪者に向つて、よくこんなことを誇りました。──
『どうです私の邸宅も、可なり宏大なものでせう。これが私の庭の池で……。』
私の住居の上手の所には、急流があり、又綾部大橋のすぐ下には、堰が設けられて居りますので、その中間六七丁の河面は、完全な一のプールを為し、川と言ふよりか、むしろ排水の完全な大きな池の観があるのです。
愉快なのは、一と骨折つて船を急流の上まで引張り上げて置いて、それを突き放すことです。船はひとり手に流れに随ひてくだり、やがて急流にさしかかると見るや否や、急転直下、さながら矢のやうに、生い茂れる篠藪を掠め、突起せる巨岩の間を縫つて、殆んどものすごいばかりの勢を以て奔馳します。それからだんだん流れがゆるやかになり、ところによりては、クルクル渦を巻きます。私はノンキな顔をして、艫の一端に腰をかけ、船を投げ出して、莨でも吸ひながら、船をすつかり水の流れに任せきりにします。暑い時なら、両足を舷外に投げ出して、冷たい水に洗はせ、若しくは裸体になつて、ザンブとばかり水中にとび込んだりします。そんなことをして、三四十分も過ぎたと思ふ頃には、船はいつしか自分の家の門前に近づいてゐるのです。
『和知川の舟遊び丈は実にいい。全く以て天下一品だ。一生涯に、あの真似ばかりは、二度と再び能きないかも知れない……。』
私は今筆を走らせながらも、そんなことを考へて居ります。
斯んな山間の清流ですから、勿論鮎が沢山捕れます。しかし鮎といふ魚は、莫迦に敏捷なので、私のやうなヘツポコ漁夫の手には負へません。他人の捕つたのを買ひ求めて、ときどき舌鼓を打つ位のところです。が、幸ひ和知川には、鮠が棲んで居ります。六月頃水中深く潜り込んで、眼を開けて側面を見透すと、大小の銀鱗の游いでゐるのが、宛然水族館にでも入つたやうに、はツきり見えます。こいつ私どものやうなヘタな釣手には、まことに誂へ向きの魚で、飯粒又はサナギを餌にして、綸を垂れると、調子がいい時には、しばらくの間に二三十尾は容易に釣れます。それを焼いたり、煮たり、又は油で揚げたりして、一盞を傾ける時の愉快さ。何にしろ釣る楽みの外に、又口腹の欲望を満足させるのですから、申分はありません。
七
夏の川遊びに比して、殆んど遜色なきは、秋の丹波の山遊びであります。名にし負ふ丹波栗の本場、殆んど小児の拳大にも達する大粒のが熾んに出る。それから山国だけのことがあつて、柿が多量に産出する。私の邸に元から生えてゐる三本の柿樹に生るだけでも、なかなか食ひきれません。
が、丹波の山幸は、何んと言つても、茸狩りにとどめをさします。綾部の南嶺北丘、到る所、殆んど松茸の産地ならざるはなしです。魚釣りのヘタな私は、茸狩りにも亦人並すぐれてヘタですが、それでも丹波の茸狩なら、私見たいなものにも、甚だ与しやすい。ズーツと見渡すと、人の採り残した、笠の開き切つた大物が、ニヨキニヨキ聳立して居ることがある。そんなのは、いやしくも盲人でない限りは、誰にも採れます。さうでなくとも、試みに枯枝か何かで落葉を掻いて見ると、間の良い時には、むくむくと、七八本見事な奴が、突如として頭を出してゐることも少くない。兎に角山へ行つて、手ぶらですごく戻るやうな、気のきかない場面には、めつたにぶつつかつた例がありません。
しかし私には、松茸狩よりは、寧ろ初茸狩りの方が一層愉快でした。綾部から約一里の地点に、位田の野があります。波のやうに起伏する広袤一里ばかりの小松原──其所が初茸の産地なのです。雨上りの日でも選んで、そこへ出掛けて見ると、イヤ有る!有る! 五歩に一本、十歩に五本、見事な奴が、あの薄赤がかつた高尚な頭を、芝生の上に突き出してゐる! 携帯せる籠に採つては入れ採つては入れしてゐる中に、いつしか其籠がイヤに重たくなる。
『残念ながら、今日はこれ丈でおやめにしませう。そんなに欲を深くしたところが、とても持つては帰れない……。』
『次回に来る時は、貨物自動車でも傭つて来ることですナ。』
口々に斯んなことを言ひはやし乍ら、よき程に切り上げる事ほど左様に、あの初茸が沢山あるのです。きけば丹波の住民は、初茸などはてんで眼中になく、あんなものを採つて食ふほど、茸類に餓ゑてはゐないのださうです。尚位田の野には、初茸の外にも、芝かつぎと称する、ねばねばした茸だの、めちやめちやに密生する、あのシメジだのも沢山あります。
秋の茸狩りを語つた上は、一応春の蕨狩りも数へねばなりますまい。須知山の谷間、稲山の裾、あちこちぶらつきながら、あの優美な曲線をボキと手折る。……蕨は食べてもなかなか美味いが、しかしその興味の大部分は、手折り心地のいかにもいい点にあると存じます。
これは丹波の名産でも何でもありませんが、是非ともここに書きとめて、後の記念に残さねばならんのは、私の邸のあちこちに植ゑてある、五本の白無花果の樹です。十年前綾部に引越す時に、私は小指ほどの苗木を、横須賀から携へて行つて植ゑつけて置いたのですが、それが年と共に繁茂し行き、今では二三間四面に生え茂り、熾んに実をつけます。両三年前から、その季節には、毎日平均百顆位づつ採収されませう。兎に角私の家の無花果は、綾部附近の評判となつてゐる位で、通行の人々はよく足をとどめて、
『何んとまア見事なもんやなア!』
などと歓声を発します。今年は時候の加減か、特別の豊産で、大小さまざまの青い果実が、何の枝にも何の枝にも、すずなりに生つてゐます。
『せめて無花果の熟するまで、綾部に居ませうよ……。』
子供達は、しきりにさう言つて私に迫ります。私とて、あの甘漿の滴たる、もぎ立ての大きなやつを、家族と共に味はひたいのは山々ですが、周囲の事情はそれを許さず、今年はただ青い果実を、残り惜しげに眺めただけで、引越すべく余儀なくされました。鶴見へ来てからも、時々あの無花果の噂が持ち出されます。
八
善い点だけ拾ひ出せば、綾部の自然界も甚だ結構ですが、むろんイヤな点も沢山ある……。事によると、後者の方が余計かも知れません。
困りものは丹波の冬、十二月の声をきくと、モウきれいに晴れた日とては、めつたにありません。一寸蒼空が見えたかと思ふと、日本海の方から、底冷えのする雨雲が、颯とばかりに襲ひ来て、山を掠め、谷を埋め、たちまちにして冷たい雨が、ビシヨビシヨ降り出す。雨の時はまだいいが、やがてそれが雪となり、翌年の三月の末までには、何百回雪が降るかも知れません。
近年は不思議に、雪の分量がよほど減りましたが、私が最初綾部に引越した大正五年の暮から、翌年の春にかけての寒さなどは格別で、一尺余の雪が、年中絶間なく山野を埋め、道路を塞ぎ、散歩や遠足などは、思ひも寄りませんでした。殆んと霜さへ降らぬ三浦半島と、雪ばかりの丹波の綾部との対照は、相当痛烈に骨身にこたへたことは、今でもよく記憶に残つてゐます。
それなら綾部の夏は涼しいかといふに、そいつは全然正反対で、水蒸気の多い無風の窪地に直射する太陽の熱度は、又格別、七月頃から、日中は大てい九十度以上に上り、何やらモーツとして、妙に睡気を誘ひます。土地の人々が、日中は大抵昼寝と相場をきめてゐるのも、穴勝無理はないやうです。綾部でいつも涼しいのは、綾部橋の上と、舟の上だけであります。
予定の紙数が尽きかけましたから、私は一と先づここへらで筆を擱きます。綾部の大本教がよかれ悪しかれ、又丹波の山川風物が気に入らうが入るまいが、何もかも皆過去十年の夢となりました。東の空に舞ひ戻つての今後の浮沈消長、機会があつたら、又十年後に振り返つて見ることに致しませう。
(大正十四、七、十九、鶴見にて)