君は天保十三年壬寅三月廿五日、大阪島ノ内大宝寺町中の町に生る。本姓は速水、父を清兵衛と称し、君は其二男にして、祖父某は元院附北面の武士なり。父少壮の時、故ありて大阪に移住す。君の幼なるや、祖父母の鍾愛殊に深く、常に誨ゆるに尊王の義を以てす。君が後年に至り尽忠報公の念に篤く、終始一貫躬ら任して渝らざりしは、其素養を幼児に得たるもの多しと云ふ。君稟性孝順にして頴悟。嘉永二年(九歳)君が孝順の行、顕著なるを以て町奉行より青銅三貫文を賞与せられ、嘉永五年(十一歳)祖母の訓誨によりて、徳島藩士津山数馬の門に入り剣術を学び、又伊達藩士中村弥兵衛に従ひ柔道を修め芸業大に進み十五歳にして両技共に免状を受けたり。
安政年間外艦我辺彊を窺ひ、各藩其警備に急なり。土州藩の摂津住吉に出陣し砲台を築くや、君が年少気鋭の勢、加ふるに天稟の才能を以て空しく坐視する能はず、自ら起ちて同藩に出入し尽す所あり。依て松平土佐守に謁見を許され、木杯一個其他の数品を賞与せらる。爾来日を逐ひ月を累し、勤王攘夷の論諍紛々たるに当り、長州藩力士隊を組織す。君は其隊伍に加はり朝日形と称し、隊長の命を奉じて京師に出張し大に奔走す。蓋し君が公務に服するの端緒にして、亦力士の名を冠したるの起首とす。
文久二年(廿一歳)大原左衛門督、大内守衛となるや、同年十二月君同志を糾合し、力士隊を組織し、宮中守衛の一部に任せんことを出願し、翌年正月勅許を蒙り、君は其総指揮となり、日夜宮中に奉仕し、同年八幡行幸の供奉を命ぜらる。当時幕府の威勢、猶熾なるに蹶然進で宮中守衛の一部に任ず。其趨向宜しきを得、義を見て勇むものと謂ふべし。
元治元年(廿三歳)七月十九日払暁長藩の脱兵、福原越後等、闕下を犯し堺町、下立売、蛤の各御門に発砲して兵を進め会津桑名の諸藩防戦す。此時君は薩兵に加り各所に連戦し、又其際特に宮中に召され錦旗を守衛し傍ら玉坐の守備を命ぜらる。長藩の兵益猛進し、砲丸は飛で意外の辺に散す。変不測に在り。或は云ふ。至尊は将さに加茂に行幸あらせられんとすと。此の一刹那御前に於て、中山権大納言、正親町三条(嵯峨と改む)権大納言、大原三位の執奏を以て天盃、御旗、御守護符、其他の数品を内賜せらる。事平ぐの後、御紋章の木杯、羽二重白縮緬各壹疋並に金員を下賜せられ尋て大典侍局を以て御製の国歌を下賜せらる。
御製
照る影をひら手にうけし旭形
千代にかゝやくいさをなりけり
噫君は当時無位無官の一力士のみ。而して此栄賜あり。天恩の優渥なる。君が終生感泣措かざるもの亦故ある哉。
其後錦旗は一平民の手にあるべからずとなし、奉還の事を宮内省に出願し許可を得、特に御手許金壹百円を賜はる。元治、慶応の交(廿三歳より廿五六歳に至る)勤王佐幕の論議国内に喧しく物情恟々の際、雄藩の志士、小松帯刀、桂小五郎、西郷吉之助、横井平四郎、広沢兵助、大村益次郎、大久保市蔵、山田市之丞、阪本龍馬等は諸公卿との間に於て大に密議を凝らさんと欲すれども幕府の注目、厳なるを以て互に相往来するを得ず。毎に君を密使として斡旋の労を取らしめたるの効は、君の生涯に特筆すべきの事蹟とす。顧ふに是れ君が力士旭形の名を冠したるを以て容易に諸第に出入し得て敢て世の疑を受けざりしに因ると雖も然れども亦君が天稟の敏慧に由らずんば安の能く此の如くならんや。
慶応三年(廿六歳)伏見鳥羽の変には薩藩伊知地正治に従ひ本営詰として砲隊に加り、又征東将軍仁和寺宮殿下に従ひて錦旗を護衛し、御親征として大阪行幸に際しては鳳輦の供奉となり、海軍総督の横須賀へ出軍には従軍して大総督府附となり、其効によりて島津久光公より慶長大判、紋服、仙台平袴地等を山内容堂侯より黄金作の短刀並に金員を岩倉右兵衛督及び弾正台より褒賞を得。
明治二年(廿八歳)四月従六位に叙せられ、永世禄六石、三人扶持を給はる。然れども君感ずる所あり同月之れを返上し同年九月より普通力士の伍に入れり。されども時には岩倉右府の内命を含み某県に出張し県官の密事を偵察したること等ありと云ふ。
明治十年(三十六歳)西南の役には大久保内務卿の紹介を得て参謀本部の軍属となり長崎に出張し公私の間に奔走せり。
同年十一月大阪に帰り戦死者祈念碑建設に際し、陸軍偕行社より世話掛を嘱託せられて尽す所あり。
明治十八年(四十四歳)大阪大洪水には壮丁百五十人を寄附して網島切れ口を防禦し、又同年大阪慈恵病院設立の発起人となり、明治廿五年(五十一歳)日本赤十字社の事業を賛け、金員を寄附し社員の募集に尽力し、翌廿六年特別社員となり、大阪支部幹事となる。
明治廿七年三月大婚満廿五年御祝典に際し、清酒白鶴を献納し、明治廿八年大阪麦酒会社の総代となり、旭ビールを献納して宮内大臣より褒詞を賜はり、明治廿七八年征清役には広島へ出張し大本営、宮内省、陸軍省、海軍省の御用を命ぜらる。明治廿九年(五十五歳)英照皇太后御大葬の際、霊柩に従ひたる従五位、位牌斑の牛を金貳百円と共に特に君へ下付せらる。同年三月、先帝永世御供料として金五百円を又英照皇太后永世御供料として金壹百円を泉涌寺へ寄附す。如上二十年間君が従事する所の方面は、必ずや報公、報公にあらざれば、慈善、慈善にあらざれば、尽忠にして、行住坐臥一に之れを以て己が任となし、毎事褒賞讃辞を受けたること数ふるに暇あらず。然れども尚ほ君は他に期する所あり。明治廿八年九月より尾州武豊町に全戸を移し独力を以て先帝の霊を祀り、自ら安ずる所あらんと欲し拮据経営殆んど五年の星霜を積み、明治三十二年十一月廿八日を以て玉鉾神社建設の認可を得、先帝より拝領したる所の御守護符(五鈷杵と云ふ)並に宝剣を以て神社号とす。君は其経営奔走の余暇を以て国学を修め明治三十三年一月五十九歳玉鉾神社の神職に補せられ日夕社殿に奉仕し維新前の当時を追懐しては感泣に堪へざるもの屢々なりきと云ふ。
明治三十四年三月十一日特旨を以て正八位に叙せられ同日病で家に卒す。享年六十一、吁君は其系統に於て士流の末裔なりと雖も然れども亦纔に一力士の名を冒したるに過ぎざるの体を以て、正邪混濁の渦中に奔走し、克く機宜を誤らず、進みては、皇室に忠誠を謁し退きては公共慈善の事に服す。実に稀世の偉材にあらずや。惜い哉功大にして未だ多く世に知られざるを。五郎嘗て聊君と相識るの故を以て茲に為めに小伝を編す。
君が経歴、逸事、勲功の如きは皇族を始め華族陸海軍将校並に紳士の熟知せらるる所にして本編に付する印刷物に徴するも明瞭なれども其事蹟の多く史に上をすして世に知られりるものあるべきを思ひ只其一班を略記すること此の如し観者幸に諒せよ。
明治三十五年秋季皇霊祭日
京都 吉田五郎識