[01] 系譜
遠祖は日臣斎主命、大伴氏の後裔なり。世々天朝に仕へて歴々たる世職たりしが、大友皇子の乱に殉ひ、亡びて以来隠者となり、日臣大伴を蔽して世々望月を姓とし、伊賀近江等の間に転住す。其間の系譜を詳にせず。
[02] 出生
先生の出生せられしは伊賀国上野の中央にして、天保三壬辰年十一月なり。父は望月登、母は川村文といふ。
[03] 父祖の家業
父登氏は医を以て家業となし、傍ら多賀神社の神札を諸国に配付するの任に当られしと伝ふ。祖父に幸智氏あり、中村孝道氏に仕へて言霊学の蘊奥を究め、之を諸国に宣伝せらる。蓋し先生の言霊学は其の源を茲に発するなり。
[04] 青少年時代
先生幼名を望月春雄といひ、後元服して大輔廣矛と改む。父及び伯父叔父に就きて医を学ぶ。業大に進む。されど自ら医を以て生涯を終ふるの意なし。
[05] 足代弘訓翁に入門
先生笈を負ひて足代弘訓の門に入り国学を専攻せんとす。翁の曰く「時代は今や決して国学を以てのみ満足すべきの時に非ず。大に西洋の諸学を攻究すべきなり。子等努めよ」と。先生之を聴いて憤然として曰く「洋夷の学に媚ぶるが如き者曷ぞ我が師と為すに足らん」と。止まること歳に満たずして蹶然として去る。
[06] 壮志勃発
時に米艦始めて浦賀に来る(嘉永六年、先生年二十二歳)。国内の人心漸く騒乱に赴き、幕府の失政益々其度を繁す。先生腕を撫して曰く「幕府の無能已に斯の如くにして国内の騒擾予め其辺際する所を知らず。如何にしてか外夷の強襲を払はむ。人知の為す所は如何に巧謀を尽すと雖も、其量知るべきのみ。爾かず其克く外国に勝つ者は独り弘安の如き神風なるべきのみ。我国は神国也、いかでか神の擁護のなかるべき。今は神知に俟つの外なし。いでや神風を促す如き大神人を求めばや。此の人にして今日本に一人も無からんには我が社稷をいかんせん」と。
[07] 諸国に大神人捜索
爰に於て産を破りて家をなさず、妻子を携へて四方に馳せ廻り、只管大神人を尋ね廻らる。熱誠真に感ずべきものあり。時に播州竜野にて脇坂内蔵真成氏に会す。此人皇国語学の真奥を得たりと雖も、通力自在の神力なし、故に以て師と為すに足らずと為し、猶ほ走りて頻に諸国に尋ね廻れる程に、道路の風説に美濃国不破郡宮代村なる玉祖神の系統にして世々山伏を職とせる当主山本秀道師は真に神通大自在にして大至道の極を領掌、一世の大神人として当に国家鎮護の聖師なる由を聞き、茲に其膝下に趨かむとするの志を懐けりと。
[08] 大和巡遊(一)
先生は大志を懐き、家を棄てて諸国を巡遊し普く大神人を求むるに際し、事の成否を判ぜんと欲し、馳せて生駒山に登り、吉祥天に祈つて御籤を採る。初めに出づる者は凶なり。再籤して出づる者は乃ち吉。爰に於て先生の決意は定まり、大望に向つて歩武を起したりと。
[09] 大和巡遊(二)
先生葛城山に登り一言主神の縛せらるる木像を見て、之を慰めて曰く「神よ安かれ。汝が命はヨゴト(吉言)も一言、マガコト(凶言)も一言にて判別して他言を費さず故に一言主神と申す。かかる権威を持たる神の何すれぞ縛せられては在はするぞ。人の言は解きながらも我身の縛は解き得られざるか。されどこも詮なし。時期は未だ真人の出づるを許さず。世若し定まり、日本言霊学の真人が出でて、其の学を弘むる時に至りなば、その時は必ず手づから其身の縛を解かむ。それ迄は世は暗黒なり。暫く辛棒あるべし。神よ安かれ、時運は刻々に進み行くべし。暫く待ち玉はれよ」と約を結びて立ち去られしとぞ。神像今尚黙然として其縛を解かず。噫。
[10] 国学院に蘊蓄披瀝
文久三癸亥年十二月言論の道を開かんが為めに学習院に学者を会せり。先生時到れりと雀躍して乃ち上京し、其係員たる非蔵人鴨脚加賀鴨脚和泉に対し、皇国の至宝たる塩満玉塩涸玉献上の儀を奏請されむことを以てす。鴨脚両氏不明にして先生の真意を解する能はず。逡巡して為す所を知らず。先生熾に皇学の蘊蓄を披瀝するも聾盲にして通ずる所なし。荏苒として日を経過す。時に先生年齢三十二。
[11] 天誅組を訪問
この時に当り京師の騒乱は其極に達し、諸国の志士乱れ入りて殺気巷に満ち殆ど血を見ざる日なし。就中血気の志士を糾合して激越の論を激吼し昼尚白刃を閃かすを天誅組と称す。先生一日飄然として天誅組の巨魁等が屯する某屋に到り、而して例の熱舌を奮つて皇国の至道を説く。巨魁等相見て言葉なし。傍に一人の少年あり、前髪姿にて見台に向ひ何か書物を熱心に黙読す。先生少年の書を窺き見て曰く「御勉強ですなあ」と流石の豪傑等も先生のこの毫末恐怖の挙動なきを見て舌を巻いて曰く「彼は狂か果た大偉人か」と。
[12] 天満宮に促されて帰国
先生京師に止まるの間、常に北野に参詣して天満宮に祈る。一夜天満神現に臥床に来つて曰く「速に去れ生命危し」と。先生曰く「生命は已に皇国に授く、何の惜しき所かあらん。所用未だ終らず、帰るの要を見ず」と天満神曰く「時期尚早し、速に去れ、速に去れ」と無暗に促して止まず。先生終に即夜其の旅館を去りて帰国の途に就く。其夜正に明けなむとするの際、京師に大捕獲あり。志士の害せられし者数を知らず。先生の旅館たりし某屋にも大騒擾ありきと。
[13] 再度上京
慶応三丁卯年(先生三十六歳)幕府大政を返上す。流言蜚語盛に伝はる。先生乃ち事の容易ならざるを知り、上京して北小路新大蔵に会ひ、二条摂政関白殿へ献言す。趣意とする所は此際干戈を動かさずして世を至平に導くの大道を示し、神理の奥儀を以てする也。摂政関白熟慮を廻らすの間遂に十二月九日に到り、断然維新を宣告せらる。此に於て兵の止むべからざる事を察して京を退く。
[14] 山本秀道師に師事
先生の初めて山本家を訪問せられしは慶応末年の事たるべきか。年齢正に三十六歳。元気旺盛にして眼中に人なし、秀道師の令名を聴き単身師の門を敲く。秀道師出で迎へて坐に就かしめて来意を問ふ。先生述ぶるに国家危急存亡の現状を縷述し、其救済の策を以てす。師先生の語る所を聴きつつ曰く「余大に疲れたり、故に暫く我横臥せむ。子願くば我が両脚を按摩しつつ其主張を語れ」と先生心に其の不礼を憤れども顔色に出さず、請はるるが儘に師の脚を揉みつつ熱烈に其主張を訴へ意気殆ど天に冲す。然るに秀道師は心地よけに眠りつつ其談を聞くが如く又聴かざるが如くに安臥し、遂には鼾声を発して熟睡に入れる者の如し。先生驚いて師を醒して我が談を聴かるべきを訴ふ。師この時やおら身を起して徐に問ふて曰く「未だ語り居りしや」と。先生憤然として「余が国家存亡の大事を熱説するに聞かざるは何故ぞや」と。師容を正して曰く「危急存亡の大事を語るに徒に対者をして疲労を感ぜしめ、遂には対者をして睡眠に陥らしむる如きは如何。爾の説く所の者は未だ以て人を動かすに足らざるのみ。未だ爾の説く所の徹せざるや。しかず止まりて我家に於て層一層修養を積み大に天下を動かすの基を蓄へよ」と。先生感激措く所を知らず、己が未熟を恥ぢて之より秀道師に師事す。
[15] 山本家に寄寓研鑽
爰に於て先生山本家に寄寓の身となり、縁類を排する為めに令閨を離縁し河村姓を継がしめ、之より専心殆ど従僕の業を執り、山本師に師事し神道の蘊奥を窺ふ。秀道師は元と学者に非ず。神道に達して自在の妙諦を獲たり。修験道を祖述し、疾病を治し、狂魔を除き、其の名遠近に聞ゆ。奇行逸話頗る多し。先生の師に教を受けしといふも、別に書籍に習ひ講演を聴くに非ず。師先づ神前に拝跪して至誠に祈願して曰く「願くば神の大真道を大輔廣矛に伝へしめ給へ」と。先生また神前に拝跪し至誠に念ずらく「願くば神の大真道を得せしめ給へ」と。斯くして古典を誦し、国学を研鑽するに其深奥の義味自ら脳中に湧出し神典の奥義日に明かなり。
[16] 笠松の囚獄
明治三年冬先生(齢三十九)は当時山本秀道師の門下にして寄寓せる木村一助氏と図り、濃州各務郡に赴きて熾に神官等の間に「有名無実の神道を廃せよ。真神道を吹聴し大に世界の迷妄を晴らせ」と説き、論調激越にして殆ど当るべからず。臆病なる神官等の狼敗態喩へんにものなし。「速に至真大道に参じて将来宜敷流布の用意せよ」と。神官等驚きの余り流言して曰く「彼等は耶蘇の徒なり」と。笠松警察は、人民を騒擾せしめ不穏の挙動ありて治安を害するものと為し、先生等を捕へて獄に投ず。宗教改革の急先鋒として立ちし両氏は爰に不幸にも忽ち囚獄の身となれり。
[17] 大石凝と改姓
疑ひ解けて郷に帰り、入獄の汚名を捨てて、明治六年九月大祖の姓に復り、大石凝真素美と改名し、山本家に再び寄寓して専ら神道の闡明に尽くせり。木村氏亦姓名を改めて太玉太観と名乗れり。
[18] 誓火霊験の失敗
明治八年秋(先生四十四歳)太玉太観と契りて東上し、即ち山岡鉄太郎氏を訪れて神徳の極意を陳述し、誓火の霊験を実験す。然るに此の時太観密に婬逸に奔りて検束なし。心霊鈍りて意の如くならず。九年四月廿一日乃ち誓火の実験を為すに当りて、太観は見事に失敗せり。其の片手は焦爛して亡失し、誓火の霊験は現はるるに至らず。然りと雖も太観の心魂は動ずる所なく、山岡氏をして感ぜしむる所寡からず。先生悄然として帰途に就き、近江国甲賀郡毛枚村の寓居に退きて深く謹慎する所あり。
[19] 大和再遊(一)
大和三山を訪ひし先生は拝跪して其の霊域を仰ぎ見ること能はず。行人見て恠みて曰く「彼は狂せるか」と。大和三山に関する先生の解説は載せて「古事記神秘之正説」に精し。知らざるものは愚者と称し視ざる等は盲者と称す。三山鼎立の霊域は先生に執つては天国よりも尊し、拝跪仰ぎ見ざる者故なしとせす。愚者に嗤はれずんば真の知者たらず。
[20] 大和再遊(二)
先生は再び大和に遊び、吉野山に登りては、地球の金輪際よりこの山の内部に無量の金鉱を運び居るの古典の神証を思ひ出で、この黄金を採掘して日本国の窮状を救はまほしの感慨は胸に湧きて禁じ難く、遙に役の行者を促しては吉野の宝蔵の発掘を強ひ、巴滝に下りては密に坑道の源を探り、終日各所を彷徨して感慨多量たり。其間常に口づさみて曰く
よき人が吉野かく見てよしといひし
吉野よく見よよき人よく見つ(天武帝御製)
[21] 水茎の岡山望見
先生は大和巡遊の帰路近江国野洲の親戚を訪づれ、海路より蒲生郡八幡に到らむとして、沖の島の南面を過ぐる時水面に大波紋を画けるものあり。先生悩みて之を凝視すれば十数分を経て形を変化するが如きも船の上にては其の全面を見る能はず。先生其の発生せる由来を同舟の人に問へども絶えて知るものなし。先生ここに其真相を慥かめむと欲し八幡に上陸し直ちに陸路湖辺を西行して沖の島の南面に到るや、連綿たる小山脈あり、其の西端の小丘に登りて湖を見渡せば、大波紋を一望の中に収め得たり。先生之を熟視して驚嘆して曰く「是ある哉、是れ我が修養せる言霊学の音韻文字なり。然り而して其の変化する所悉く其の形に非ざるはない。誠にこれ天与の発見なり」と。欣喜雀躍して丘を下り付近の農家に就き其の地名を問へば、是は岡山村と称し、其の丘上には古昔領主佐々木某の屋形あり。又其の丘の下に水神を祭れるは、佐々木某戦敗没落せし時家族の入水せるが故に其の霊を祀りしなりと。先生又古今集の古歌を想到して忽ち手をうちて曰く「奇なる哉、亦一大発見を得たり」と、其は古今集に「水茎ぶり」と題し
水茎の岡のやかたにいもとあれと
ねてのあしたの雪のふりはも
とある古歌の由来を解するを得たり。今に於て水面に奇なる水茎文字を浮き出しつつあれば、この造化の奇蹟は一見して其の真なるを知るを得べきなり。かく古典神証の趣深きに感泣せらる。
[22] 皇祖発祥の霊域
先生は古典の研究的推理上我が皇祖天之忍穂耳命を初め五男子は、近江国に生れ出で給へる事を堅く信じ、其の宝跡を探検奉拝せむとの志を懐かれたり。其は近江国犬上郡に多賀神社あり。こは伊耶那岐命の鎮座し給へる皇国第一の古跡たり。又蒲生郡に玉緒村あり。蒲生は醸生の変化あり。伊香は厳嫡の義に通じ、彦根は天津彦根命の御名に因縁あり、其他古典に関する地名を存せるが故なり。殊に先生が当時参拝の目的とせられしは、昔の蒲生郡にして今の神崎郡なる八日市の付近にある阿賀山なりき。今の阿賀神社を祀れる所は満山一つの岩石なり。其の岩上は直立に左右に割れ、その割れ目に土砂入りて今は世人の通路となり居れり。是即ち古典の所謂「佐賀美邇迦美而伊吹之狭霧云云」の義により、造化作用を以て茲に皇祖正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は発生し給ひて、世界人類の原始と顕はれ給へるものなり。即ち吾勝を阿賀と今に言葉に残れるなり。また同郡佐目村に同上の形式にて天津彦根命の生れ給ひ「本名彦根の産屋」即ち吾勝山は八幡より東北約五里なりと先生はこの二大霊域を拝して弥々古典垂示の確信を得て益々献身努力の念を堅くせられたり。
[23] 日本言霊、天津金木の研鑽
明治十一二年の際更に美濃の山代村に到り山本師の宅に寄寓し、孜々屹々日本古典の奥義を究むるに努め得る所頗る多し。天津金木並に日本言霊に関する先生専門の大業はこの際に成就したるなり。
其の全く成就して著述の体裁を成すに至りしは明治三十六年(先生此時七十二歳)なりしかども研鑽砥励に対しては実に数十年間を要したりと謂ふべし。
[24] 日本言霊並天津金木の大成
日本言霊は先生独特の大研鑽にして、其の基く所の原本等は多少これありしなるべけれど、七十五声の排列、其の神機の妙用等は慥に先人未発の大発見にして、皇国の言霊学中実に一頭地を抜き古今独歩の感あり著述の序文に付して歌ふらく。
天津日の光にまさる言霊の
むすびのゐきをつぎうけて見よ
と。其の見識の卓越せる以て見るべし。
天津金木は天地火水の四大を現示する四分角二寸の所謂神寄木(神算木)を以て皇典古事記を機械的、計算的に真読するの神法にして、開闢以来曾て未だ世に知られざるの極法なり。極典記三巻は即ち古事記上巻を天津金木を以て算読したるものにして実に天下の奇宝といふべし。
[25] 飯福田の参籠
世に伊勢山上と称する伊勢国松坂を西に去る約五里に有る飯福田なる真に幽邃の地あり。行者来つて参籠する者多し。先生嘗てこの霊場に参籠し得る所少なからず。就中高御産巣日神、神産巣日神の回転力は三倍輪を以て昇るの理を発見せらる。先生常にこのことを語り出でて、其の大発見なることを述べられたり。
[26] 伊勢神宮炎上の予言
明治二十三年伊勢神宮に種々の改革行はる。其の改革の中に在りて見逃すべからざる重大事件交れり。そは二十年毎に御新築の宮殿に渡御の儀あるは古来の如くなるも、新殿建築と同時に旧殿を毀つこととなせるはこの時に起れり。従来神宮には秘事として「お見比べ」の大事あり。お子良と称する未通女数人を置きて、旧殿と新殿との宝物を仔細に見比べて毫末も相違なからむことを期せられたり。これ崇神天皇よりの重要なる秘事として、至重の儀に属せしに、今や新殿の御建築と共に旧殿を毀つの制となりければ、この至重なる「お見比べ」の儀廃絶して、神殿の尊厳を害ふこと言を待たず。先生の驚は一方ならず。神威を冒瀆するの罪は必ず至るべきと為し。予言して曰く「神宮の正殿は炎上せむ」と当時先生の居は伊勢国鈴鹿郡神辺村字木下に在りき。
[27] 伊勢神宮の炎上
先生の予言は事実として現はれ、明治三十一年御炎上の事あり。実に恐懼に堪えざるなり。これより先き二十四年の十月十七日の夜宮中に大変事起り、且つまた帝国議会の会堂焼亡せり。先生は大神宮の炎上に次で、議会会堂焼亡の予言を為し一面に世人を驚かしめたりと雖も、一面に於ては其筋の注意人物と為り、神宮炎上も或は彼が所為に非らざるかと、警察をして専ら其行動に綿密なる注意を為さしむるに至れり。
[28] 警察の注意厳密
明治三十一年七月十八日先生(年六十七歳)近江の吾勝山に詣で、忍穂耳命の御胞石を拝観し、山上の茶屋に休憩せられしに、巡査二名来りて先生を逮捕せんとす。「何故ぞ」と問へば「垂井警察分署よりの電報に接し、汝は詐偽取財者なりとの訴により、同行を請ふ為なり」と。先生曰く「何者の訴へなるか」。巡査は兎も角も同行を請ひたしと促す。先生は動ぜずして曰く「予は何等の覚えなし。宮代村の村長平井三弥氏をして証明せしむれば足る。直に其手続を為さるべし」と。査公も強いて同行を促さず、然らば事の結着するまでは此の家を去るべからずと申し渡して去れり。
[29] 二十四日間の禁足
七月十八日より八月十日に至るの間、先生はこの山上の家に禁足されて止まれり。宮代村山本秀道師の令息一治氏急を知つて大暑を衝きて馳せて朝日野村に至り、弁明するところあり。万事ここに於て全く解決し、山本氏と同行して讒を雪ぎて発足することを得たり。先生山上に禁足中は悠々無事に苦しみ、自著の書を写して其の主人に餞別とされたり。歌を添へて曰く
日にさはるむら雪さへも幸ひと
成りてうつれる書ぞをかしき
この自著後日大成して「天地茁貫の極典」といふ。この終末に極典博士大石凝真素美。明治三十三年十一月後世の大智識へ。
本とらで末のみ摘むは世の人の
心なりけり紅の花
とあり。
[30] 各所遍歴
明治三十一年八月十日近江国蒲生郡桜谷村沢村勝次郎氏に到り、沢村氏と共に神崎郡佐目村の山奥なる御金の塔に至る。此の御金の塔は本名を彦根の産屋といふ。天津彦根命の御誕生の御胞石也。次に土山の立岡幸太郎氏に至り伊勢の木下に帰り、更に河芸郡神戸に至り、汲河原村の安田菊松氏に至り、井尻村桜井平左衛門氏を訪れ、亀山より参宮鉄道にて伊勢神宮を拝し、宇治の角甚に宿り、帰路津市立町山内庫之丞氏方に遊ばれ、復た木下に帰り、更に京都に至り、帰りて宮代に至りて、十一月廿五日汽車にて上京小石川区目白台な釈雲照を叩き、四月まで松村徳充氏に止宿、三月廿二日より四谷区塩町一丁目一番地太田常助氏方に寄宿。七月に至り急用ありて木下に帰らる。
此間警察の眼は常に先生の上に注がれ、寸時も怠るの時なかりき。先生嘆じて曰く「当時の世の中は朝令暮改、昨是今非、変詐譎詭、猟財官猟職の国賊斗りが猖獗して居る。故に延喜天暦の菅原道真公よりも尚ほあはれなる事なり。千年の後に見る人は見るべし」と。
[31] 予言の適中を喜ぶ
先生伊勢神宮の火上を予言して適中し、其筋の監視を受くる身と成りしと雖も、心中密に我が研究の誤りなき所信を確固にし、其の難の身に加はるに随ひて、益々強く其主張を強説せり。今手記中より当時の先生の胸中を知るべき一二を摘記せむに
後聞くに此警視の見張を起したる元は、宮内大臣土方久元が大神宮炎上の事を予に毒して、予の挙動を窺ふ事を致したる也。依つて警視は本人には少しも知らざる様に昼夜見張り、日々本部に具状すべし、若し一日見失ふ時は其巡査は免職也といふ厳命也。然るに神は正明也。土方久元の一子久明が其の七月十七日に自ら銃殺の刑を演じて自尽したる天罰妙々、恐るべし、信ずべし。(原文の儘)
三十一年御炎上大乱逆を極めたり。尋いて御雨漏、三十九年十月十八日に冷泉宮司が馬に踏み殺されたり、早く崇神天皇御定めの儀式に復し玉はざる時は、如何なる方面に向ひて如何なる大変が顕はれつるか計り知り難し。中々宮中に於て御昇天、或は宮司が馬に踏み殺される等は物の数にあらず、二十三年の御遷宮以来神宮係一切の者末々に至るまで御吟味ある時は、皆々応分の祟りをうけて居る事が相分り可申候也。(原文の儘)
伊藤公が北端に出て横死を遂げたるも日本国の大瑕瑾也。該人は伊勢神宮は変動しても憲法さへ有ればよしと思ひ居る故に其罰が以来続々該家に集るべし。(原文の儘)
[32] 仏典の研鑽
先生は皇典の奥義を研究せらるる傍らまた仏典をも研修せられ、明治二十三年七月(先生齢五十九)弥勒出現成就経の著成る。
この書は弥勒菩薩の世に出現して至治安楽の世を現すべきを保証するために、日本神典と仏典とを共力せしめて記述したるものにして、其の寓意は先生自らを以て弥勒に比せられたるは論なし。
鉛漿に托して印刷出版せられたる著述は前後この書あるのみなり。先生仏典にも通じ、種々仏説に対して述べられたるもの少からず。就中法華経に対して熱血を傾注せられたり。先生の晩年名古屋に来られしは全く法華経の因縁なり。
[33] 先生の来名
先生が「真仮名付法華経序書」を携へて名古屋市七曲町に唯一仏教団清水梁山師を訪はれしは実に明治四十年の秋、先生の年齢七十六歳の時なりき。
清水師は法華経の学者として天下に名ある人なり。願くば古事記法華経の密合を成就せむと。先生はこの希望を抱きて唯一仏教団員服部政之助氏を介して清水師の門を叩かれき。
先生が清水師と面識せられしは明治廿五年彼の後藤象次郎伯が大同団結を組織して各地を遊説するに際し、名古屋に至り秋琴楼に泊せし事あり。この時先生は後藤伯を宿所に訪ひ、例の塩満玉塩涸玉の一条につき力説する所あり。坐に梁山師あり。頻りに先生の説を讃して「君の説妙々」と呼ばる。この時初めて先生は梁山師を知られたり。
先生は仏教団に止まる事十余日再来を約して一先づ帰郷せらる。
[34] 再度の来名
唯一仏教団に法華経研鑽の為め寄寓し居たる天爵堂水谷清氏は明治四十一年六月初旬、法華経の結経たる観普賢経を実際に験するの目的を以て、三七日を尾張国知多郡篠島なる西方寺の浄室に参籠の目的にて出発し、深く普賢の出現を祈念せり。或る夜、夢の如く大石凝先生の許に赴くべしとの告を受け、忽ち伊勢海を航して神社港に上陸し、神辺村木下を訪れて先生に面会し、天津金木の運用を授けられて、数日滞在の後帰国す。
先生の再び唯一仏教団を訪はれしは、明治四十一年十月なり。これより仏教団に寄寓せられしが、清水師の衷心より先生の志望に対する誠意なきを知り、去つて水野満年の宅に寄寓し、之より専ら水野氏の寓居に起臥して、古典の研鑽並に著述に従事されたり。
[35] 東京青山に飯野氏訪問
明治四十二年七月水野氏の好意により、上京して青山隠田に飯野吉三郎氏を訪はる。飯野氏嘗て名古屋に来れる際に先生の上京を促がしたるに依る。
先生の手記に当時の事を記して次の如く謂はれたり。
名古屋の秋琴楼に於て面会の時に飯野吉三郎が上京し玉へ、書生衆も三五連れて来り玉へ、宿は取らず青山隠田の拙邸に向け、押しかけ来り玉へと申すにつき、土産として無上の極宝書を呈与致したり。(中略)かかる尊き極典の宝書を貰ひ置きて、予に誤衛刑視が二人付き居るを忌みて、一夜をも宿せず、旅館に出して顧ざる飯野吉三郎は実に言語道断也。
是其宝は誤衛刑視の大妨害也。太田術実輩は、此畜生吉三郎に尊き極典を与へ置く謂はれなし、取り返すべしと既に内願したり。四谷署より赤坂署に達して、飯野を赤坂署に喚び出したる様子也。実に誤衛の大妨害はかくの如く甚だしき也。是皆亀山署長西村弥五郎の役人根生より起りたる者也。(中略)警視庁は必ず糺して野に遺賢無き仁風を起すべし。
目今の警察は賊を捕へるに長じて野に在る遺賢は圧踏し居る也。予の如き極仁を旨とする忠実一点の極典学者を見ては狂視して、大神宮炎上を予が放火したる也と誤認し嫌疑して国努を費して殺人同様の大妨害を行ひ居る也。大岡越前守は無い歟。云云。
[36] 飯福田に再参籠
先生東京に出で失敗して帰りて後は、人情の浮薄にして真人物の世に皆無なるを慨し、大神宮の神力に俟つに非ざるよりは、到底国の救ふべからざるを察し、再び伊勢国飯福田に参籠し、刃を抜いて地に突き立てて励声叱咤して曰く
「大神宮は眠れるか。日本国の壊乱を如何し玉ふぞ」
と。先生の飯福田参籠ありて以来、幸徳事件起りて愕然として世上の風潮大に変じ、敬神崇祖を唱導する者漸く多く、古典の研究、神社の研究、新宗教の起るべき機運等恰も厳冬過ぎて春の生気の根深く動く感あらしむ。
[37] 専ら著述に従事
飯福田参籠後は名古屋市水野満年氏方にて専ら著述に従事し、時に或は種々なる会合に出席してか講筵せられたり。今先生の著書の重なるものを挙ぐれば
弥勒出現成就経 (明治廿三年七月出版五九歳)
天地茁貫の極典 (明治三十三年十一月脱稿六九歳)
言霊之巻 (明治三十六年弥生脱稿七二歳)
天津金木極典記 (同)
大日本国国語の極元説 (明治三十八年脱稿七四歳)
真仮名付法華経 (明治四十年脱稿七六歳)
古事記神秘之正説 (明治四十二年六月脱稿七八歳)
真訓古事記 (明治四十四年十二月末脱稿八〇歳)
[38] 世界大戦乱の予言
先生世界的大戦乱のあるべきを予言し、明治四十二年頃より盛に之を唱導せらる。先生の曰く
「世界最後の大戦乱にして大切狂言の大々的狂言である」
と常に云はれたり。予言の根く所は法華経の勧持品の偈に在りと。而して曰く
「娑婆地獄切り上げの大狂言の大々的狂言の予言は現今の童謡を聞いても知らるるに非ずや。聴け、マツクロケノケ マツクロケノケ マツクロケノケと云ふに非ずや。世は暗黒なり。金属線を絃として弾ずる楽器の音を聞け。ジャンジャンジャン。シャンシャン。アアこれ火事の早鐘の声なり。騒乱大騒乱─世界大々的戦乱は近付けり」
と。
[39] 病を得て帰郷
先生は水野満年氏方に寄寓して、時々郷里に往復せられて、常に壮健たりしが、明治四十四年末(齢八〇歳)より微恙あり、常に加養を怠らざりしも遂に翌明治四十五年二月廿六日人を派して先生を郷里に送る。先生静に老後を養はれしこと歳余、流石に壮健たりし身体も二豎の為に勝つこと能はざりき。真に遺憾の極み也。
[40] 終焉
先生の神魂遙に天に登りて幽界に帰せられしは、実に大正二年四月十一日なりき。桃李は芳香を送つて満地の菜花は黄金浄土の相を現ぜり。
[41] 霊墓
先生享年正に八十二歳。霊墓は伊勢国鈴鹿郡神辺村木の下に在り。
嗚呼先生壮にして大望を抱き、天下国家を至楽の境に移さむが為めに、出でて諸国に大神人を求め、刻苦惨憺一日も其身の安きを知らず。幸に秀道山本大人に師事するを得て、日本古典の蘊奥極意茲に詳なりと雖も、時運は尚ほ先生を容るるの機に達せず、却つて之を狂人視して迫害具さに加はるものあり。然りと雖も神典の大義は堅く持して之を放たず、東奔西走、其席の温まるに遑あること無く、強説熱弁其舌の疲るるに意を止むるを知らず。
子を棄て妻を離別して毫も顧る所なく、奴僕の労に甘むじ、食客の苦に安じ、至宝を抱いて至宝買ふ人なく、極典を陳べて極典見る人なく、時に憤然として時勢を慨するも、傍人之を見て情を寄するなく、或は憮然として運命を悲しむも世間之を以て理に合すとせず。縲紲の厄に遭ひ、監視の辱を忍び、孜々又屹々、終日筆を執つて漸く著作に煩を医し、終夜神に祈つて会々世潮の運に慰め、焦慮苦悩終に其の勢力を消耗して空し空し世を去るに至る。
悲哉。先生性狷介にして人を容るるの量に乏しく、言語する所条理多岐に渉りて解し難き点ありしと雖も、居常謹直にして朴素、敬すべく、親しむべく、言辞強烈なるも奥底豊富にして咳唾珠を為すものあるを覚えしむ。
先生一生を費して得るところのもの、之を物質的に見る時は全く獲る所なかりしと雖も、其精神上に於ける産物に至りては、古今を通じて多く獲難きの至宝を発掘し、後世を益すること蓋し言辞を以て達し難きものあるべし。
日本言霊、特に天津金木の如き先生を俟つて創めて其の霊鉱を世に見たるもの其功決して没すべきに非ず。先生世に容れられず、終生を焦慮辛惨の中に終りしと雖も、神は必ず其の功労をして微少だも之を棄てず、其勲功を確実に認めて貽す所なかるべき也。
先生幸に瞑せよ。先生の霊は日本言霊、天津金木として永遠に滅せざるべし。先生の生命は其功績と共に永久不滅に伝るべき也。英霊長へに日本国の為めに冥護を垂れ玉へ。
[42] 付記
大石凝真素美先生の奥城は、三重県鈴鹿郡神辺村大字木下にあり。
大石凝真素美先生伝 終