吾々大本信者に取りて表の神諭は、一日も拝読を怠ってはならぬことほど最も尊重すべき神言であることは、今さら申すまでもありませぬ。即ち一々万々確固不易の経言でありまして、ドコまでも大御神業の骨子となるものであります。しかし霊界物語第十二巻(霊主体従亥の巻)の序文に説示してある如く、御筆先は「一言一句といへどもその言語の出所と時と位置とを霊眼を開いて洞観せなくてはその真相は判るものではありませぬ」と教えてありますから、神様の御真意は緯糸によりて織り上げられたる上でなくては、覚らせていただくことは至難であります。聖師様を御筆先の説明者と神定されてある所以もココにあるのであります。
舎身活躍亥の巻(四十八巻)聖言の章下に
「……しかしてこれらの言葉は大神より直接に出で来れる聖言なるを以て、一々万々確乎不易にして、神格にて充たされてゐるものである。しかしてその聖言の裡には何れもみな内義なるものを含んでゐる。しかして天界に在る天人はこの内義を知悉するには霊的及び天的意義を以てするが故に直にその神意を了解し得れども、人間は何事も自然的科学的意義に従つて、その聖言を解釈せんとするが故に、懐疑心を増すばかりで到底満足な解決は付け得ないのである。ここにおいてか大神は、天界と世界即ち現幽一致の目的を達成し、神人和合の境に立到らしめんとして、瑞霊を世に降し、直接の予言者が伝達したる聖言を詳細に解説せしめ、現界人を教へ導かんとなし玉うたのである。……中略……前巻にもいつた通り、天人は現界人の数百言を費やさねばその意味を通ずることの出来ない言葉をも、僅かに一二言にてその意味を通達し得るものである。故に教祖即ち予言者によつて示されたる聖言は、天人には直にその意味が通ずるものなれども、中有に迷へる現界人の暗き知識や、うとき眼や、半ば塞がれる耳には容易に通じ得ない。それ故にその聖言を細かく説いて世人に諭す伝達者として、瑞の御霊の大神の神格に充たされたる精霊が相応の理によつて、変性女子の肉体に来り、その手を通じその口を通じて、一二言の言葉を数千言に砕き、一頁の文章を数百頁に微細に分割して、世人の耳目を通じて、その内分に流入せしめんがために、地上の天人として、神業に参加せしめられたのである。故に教祖の『神諭』をそのまま真解し得らるる者はすでに天人の団体に籍をおける精霊であり、また中有界に迷へる精霊は、瑞の御霊の詳細なる説明によつて、間接諒解を得なくてはならんのである。しかしてこの詳細なる説明さへも首肯し得ず、疑念を差挟み研究的態度に出でんとする者は、いはゆる暗愚無智の徒にして学で知慧の出来た途中の鼻高、似而非学者の徒である。云々」
と説示してあります。
従って聖師様によりて開示されたる霊界物語、裏の神諭、王仁文庫、玉の柱等は表の神諭の真解釈となるのであります。殊に霊界物語は経と緯との御筆先を、活用されたる三五教の神示でありまして、霊界物語第十二巻(霊主体従、亥)の序文中にも
「しかし霊界物語は歴史でもあり、教訓でもあり、教祖の筆先の解説書であり、予言書であり、大神劇の脚本であります。この物語によらなければ、教祖の筆先の断片的(台詞書)のみにては、到底神界の御経綸と御意志は判るものでは無いのであります」
と諭されてある如く、吾々にとっては、かくべからざる宝典でありますから、左に霊界物語の大体についてお取次致します。