一、音読
吾々においては神書は音読に限るのであります。その理由は黙読の条下に譲りまして、さて音読をすればまず第一に自分自身の内流となるのは無論でありますが、その他左の如く種々の利益があるのであります。
一つは神々様が御聴きになるのであります。この度の大御経綸については神様でも枝の神々様には御存じないことであると神示されてあって、このため大本では当初から今日まで御神諭、霊界物語を朗読することが日々の行事となっておるのであります。
一つは祖霊が聴かれるのであります。吾々が因縁の身魂であると共に吾々の祖霊もまた因縁の身魂であって、しかも霊界におられるだけに吾々よりもさきに神界の訓示を受けられ、産土様の御手伝いとして、責任上主として自分の子孫に対し内流的に警告しておられたのであるから、吾々は内分的には、入信前すでに大本を知っていたのであります。それが時節と共にちょっとした動機、たとえば新聞の記事とか大本の講演とかが交流の動機となり、内外両分の一致はここに入信することとなったのであります。従って祖霊は吾々以上に御神諭、霊界物語を希望しておられるのであるから、神書の音読はこの上もなき供物であります。また吾々子孫として祖霊を復祭することは前述の理由により当然せねばならぬ緊要事でありますが、しかし「現在においては高価なる御帳台に御祭りしても、祖霊は神様に対してお鎮まりにならぬから、かえって祖霊を苦しめることになる」との聖師様の御訓示がますます会得されてくるのであります。
一つは音読すれば家族、殊に小児が御陰を頂くのであります。小児は肉体霊魂共に発育の途中であるから外流的には判るはずはないが、霊魂は大人より純潔であるだけそれだけ内流が容易であります。二、三才まではただ肉の風呂敷を以て霊魂が包まれているだけであります。故に小児は遊んでおろうが、唱歌をうたっておろうが、哺乳児であろうが、神言を耳にひびかしてやることは必要であります。聖師様は「信仰に入った家庭ほど幸福のものはない。乳を飲んでいるうちから御神徳に浴しているのである」と仰せになっておられます。老人と小児に神様のことが早く判る理由は霊界物語真善美愛子の巻(四十九巻)第一章にも説示してあります。哺乳時代における神格の内流について左の実例をお話し致します。それは聖師様についてであります。
聖師様と言霊、この言霊学の一事においても聖師様は古今独歩であります。そもそも言霊なるものがいかに天地神明と大関係があるか、いかに世の清濁と密接であるか、また必要に応じて風雨雷霆を叱咤し鬼神を駆使するを得ることなど、その梗概はすでにお互い教示を受け、また実地的にその型を見せられているのでありまして、イザという大活躍時代が想像されるのでありますが、さて聖師様はいつこの言霊学を学修されたか、惟神的に自得されたかと言えば、あたかも極貧の家に生まれ種々の現実的修業を積まれたと同様、哺乳時代において言霊を学修されたのであります。即ち聖師様のお祖母さん(うの子刀自)が教えられたのであります。うの子刀自はかの有名な国学者であり、かつ言霊学中興の偉人たる中村孝道氏の妹さんであります。中村氏は苦辛研究の結果自得したる言霊学を沢山の弟子のうちに受け継いでくれるもののないのに心淋しく思うておられたのであるが、自分の妹があまり学問に熱中しその当時のことであるから人目を忍んで勉強さるるのを見て、全部言霊学を教授されたのであります。やがて上田家に嫁がれ、後来、初孫である聖師様のお守り役として、一つは暇つぶしのため、一つは興味の上から、また一つは復習のため、絶えず言霊学を繰り返しておられたので、聖師様の精霊は内流的に覚え込まれたのであります。従って幼児より里人から八ツ耳とか神童とか持てはやされるる底の特色が発揮されて来たのも一つはこのためであります。
かく内流なるものの真諦が判って来て、初めて胎内教育の必要も実施の方法も会得さるるのであります。
一、黙読
黙読は主として自分一人の外流となり、内流は困難であります。即ち文字という符牒が眼を通して頭脳に入るのであるから、不了解の点は素通りして頭脳に残らぬのが普通であるが、音読すればこの文字が言霊に活き代わって来るから、内流して霊魂内に貯蔵さるるのであります。霊魂即ち内分に貯蔵されておれば、やがて頭脳なる役所において外分へ交流され、また最初霊魂に判らぬことでも、霊魂の向上につれ霊相応に理解して行くことは前申し述べたところであります。学者の言う潜在意識なるものは、主として、外分的記憶についていうのであって、内分的記憶ということが判らぬから、潜在意識の学説はマダ不完全であります。
しかし身と魂が向上すればするほどこの交流が容易となり、いわゆる水晶身魂という情態になれば、内分と外分とが一致していわゆる霊肉一致、神人合一状態になるから、外流は直ちに内流して内外流の隔てが除れ音読黙読ドチラでもよいこととなるのでありますが、吾々においては音読に限ることを忘れてはなりませぬ。普通一般の書籍は心理学にせよ、哲学にせよ、その他みな現界のことを基礎(体主霊従または体主体従)として書いたものであるから、音読黙読何れでもよいのであります。
神書の拝読に際し最も注意すべきことは、常に敬虔と歓喜の心を以てせねばならないことであります。もし小説や講談に対するような心また批評的、軽侮的、疑いの態度にある場合には神格の内流は減却または杜絶するから、いつまでも御神意を覚ることが出来ないのであります。しかし終日執務のため疲労はなはだしき際には、お断りをして横臥しながら拝読しても差し支えありませぬ。昨大正十四年の春季大祭に際し、亀岡大道場にて左の如く聖師様より御訓示がありましたから申し添えておきます。
「神諭に対しては決して研究的態度を取らず、あたかも経文を読誦するようにただ素直に拝読しておればよい。また霊界物語は神諭を釈明したものであるから、各自相応の研究なり思索なりは勝手である」
と承りましたが、しかし私どもの体験では霊界物語もヤハリ素直に反復読誦している方が、一番よいと思います。
一、霊魂の糧
人はその相対的であるところの肉体には、毎日二度か三度の食餌を供給しておりますが、一方霊魂にも同様、毎日糧を与えなくてはなりませぬ。このことは極めて必要事であるに拘わらず、世上ほとんど全く忘れ去られていたのであります。霊魂は霊界に属しているから、その糧は霊界のものに限り、肉体の食餌は物質に限ることは天地惟神の規則であります。
神格の内流、これが霊魂に対し唯一の食糧であり、この上なき滋養食であるから、吾々は大神人によって説示されたる神言を摂受(間接内流)しておらねばならぬのであります。そして少しずつでもよいから毎日読んでいることが極めて必要であると同時に、毒になる書物や悪言悪詞を内流さしてはなりませぬ。この点において吾々が絶対的神書を供給され好餌美食を無尽蔵に頂いているということは、実にこの点だけでも至幸至福と言わねばなりませぬ。吾々が朝夕祝詞を奏上している一事についても、それが毎日神言の内流となりて身魂に力がつき、知らぬ間にいろいろの方面に亘りて御神徳を頂いているのであります(舎身活躍戌の巻、四十七巻第十六章その他索引参照のこと)
聖師様よりの御訓示に
一、本部を始め各分所支部においては毎夜信者を集めて霊界物語を読むべし
一、まず御筆先に、裏の御神諭、王仁文庫を通読すべし
一、読書百遍意自ずから通ずべし
とありますが、現在において打ち揃うてこれを実行することは困難な場所もありましょうが、その代わり各家庭においてはこれを励行することが、御経綸に対する大事な奉仕の一つであります。
王仁文庫について一言しておきたいのは、表の神諭は経の経綸であって身魂相応に解釈し得るから、時として飛んだ誤解を生ずるおそれあるに反し、聖師様の説示即ち裏の神諭は緯の経綸で、縞柄がはっきり現れていて誤解の患いが少ないから、身魂研きにはもちろん宣伝用にも最も結構であります。
また教祖様御昇天後の裏の神諭(神霊界所載)は殊に必要であるから、よく拝読しておかねばなりませぬ。
現在大本では毎日、朝拝の後では御神諭、また夕拝後には玉の柱と霊界物語の拝読が行われております。
私はココに何故に霊界物語が御神諭の釈明書であるに拘らず判らぬ部分が多いかについて、その理由の一つを述べておきます。神様の方ではすでに霊界の諸精霊(霊魂)の善悪正邪の立て別けが完了(大正七年教祖様ご昇天までに)しているのであるが、仁慈無限の大御心よりして最後までその処置を延ばし、もって改心の余地を与えられているのであるから、邪神悪霊はマダ沢山あるわけであります。しかしこれら不正精霊は神界では最早一本すらさすことが出来ないが、その代わり現界に向かっては各相応の人々を道具として(いわゆる副守護神)勝手気ままに行動することが出来るのであるから、今誰にでも外流的にその全部が判るようでは、その人を通じてまず副守護神に判り次第に不正精霊界に波及し、或いは目的を立てて大本に来るもの、或いは外部より間接に妨害を試むるもの等現れ来たり神業の発展に支障をきたすこととなるから、そこで神心の身魂にのみ内流するよう示されてあるのであります。要するに御神諭も霊界物語も実はよく判るように説示してあるのであるが、自己の神格的内分、即ち智慧証覚が足らないのであります。
だいたい大本は、惟神の大道に復帰する至誠の聖場、教団であるから、秘密は無いのであるが、かかる理由の下にある程度ある時期まで秘密を要することもあるのであります。