霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(四)内流と外流(内外面、内外分)

インフォメーション
題名:(四)内流と外流(内外面、内外分) 著者:井上留五郎
ページ:48 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B116500c024
 人がこの世に生まれ来たり次第に物事を見聞してこれを記憶し、種々の観念とし意識として役立つまでには、この内流と外流との二通りの機能によるのであります。それについてはまず一通り人体の構造を知らねばなりませぬ。
 すでに御承知の通り、人は霊魂(精霊)と肉体との相対的のものが、相和合して出来ているのであります。この和合の始まりが妊孕(にんよう)であって、和合が破れて二つのものが分離した時が死であります(死について前人未説の詳細が舎身活躍戌の巻即ち四十七巻第十一章に説示しあり)しかし霊魂は肉眼では見えず、また科学も物質の方面にのみ進んでいたために直接人体を取り扱うところの医学でさえも全く霊魂の実在を認むることが出来なかったのであります。科学によって物質上のことは一通り闡明され、一方誠に結構ではありますが、悲しいかな物質界以外に霊界のあることが判らないため、肝腎の一厘のところで一切万事ことごとく行き詰まり、彼らの理想は全部失敗に帰しつつあります。従って医学においても、その肉体方面、殊に屍骸については驚嘆に値するほど、また医学に迷信せねばならぬほどその究極までも検知されているのでありますが、それも活きた肉体になるとなお未解決の点が多々あるのであります。否、霊魂の実在が判らぬため、煎じ詰むれば判らぬことだらけであります。実は霊魂の宿りておる肉体と、霊魂の去りた後の肉体とには大差があるのでありまして、一例を挙ぐれば彼のエッキス光線エックス光線のことが発明され、それがダンダン精巧になるにつれ、ついに人間の内臓が見ゆるようになってきた結果、肢体本位の医学がここに生体医学に目覚めつつあるのは、誠に結構であります。私が入信の当初即ち大正七年の夏、聖師様より医学について説示され、各種伝染病及び主なる慢性病の原因(霊的即ち真の原因)療法、その歳の暮れに起こりし大流行感冒の予告、また生体の胃はほとんど垂直に立っていることや、盲腸は固定的ではなく消化器官においてある程度までイロイロと位置を変えること等、数時間に亘り説破されたのには、実を言うと全く煙に巻かれたような感じがしたのであります。それが時節と共に、かく他方面からもダンダン証明されつつあるのであります。
 お互いは霊魂の実在については詳しく教えられており、また鎮魂の神法によって実験体得もし、中には霊眼霊耳によりこれを認めた方も沢山ありますから、一点の疑惑も無いのでありますが、近来科学が霊的方面に着目してより、泰西にては霊魂研究が盛んになり、霊媒を通じてこれを確認したるのみならず、デシャニンなる新薬が発明され、これによりて霊魂を視ることが可能となりましたので写真に撮ることも出来、また以前より問題となりていた人体より一種の光(大本で言うところの霊衣)が放射するということも判明し、しかのみならず動植物の生体もまたそれぞれの霊衣を有することまで知られて来たのでありまして、ここにいよいよ客観的にもようやく霊の存在が認められたのであります。これに対する学説として、固液気の三体に対し第四体として左の如く論じております。

吾人は今日まで固液気の三体説を以て万物一切を処理してきたが、今これと全然別物であるところの第四体なるものを発見した。さらに研究を進めたならば、第五、六、七体乃至それ以上のものを発見するかも知れぬ。実に宇宙の幽玄秘奥極まりなきには驚くのほかはない。

 東京帝大理科においても、大正十一年頃よりこの研究に着手されていると聞いております。
 霊衣については霊界物語に説示してある如く、その光沢、密度、形状及び大きさが各人各様でありまして、病気もこれを変化せしめ、殊に死亡前には頭上において尖り三角形となります。また霊肉の洗練向上はますますこれを美しく大きくするから、従っていわゆる人物(人格)の大小と霊衣とは大関係があるのであります。聖師様の霊衣がいかに美にして大なるかは想像に余りありであります。そして神の慈愛に浴し得る人々であれば、人種や親疎の隔てなく身魂の清濁に拘らず、聖師様の霊衣に包まれながら対談が出来るのでありますが、敵意のある者または済度し難き人が来れば、霊衣は自然とこれを避け、その人の座だけ欠けていると承っております。これも神界御経綸の上よりある時期まで二大神人はその神相を隠し、いわゆる化けて天下救済のために尽くさるるのでありますが、まれにその閃きを見ることがありまして、その霊光に打たれて卒倒したる一例が、真善美愛丑の巻(五十巻)第二章に掲げてあります。
 そもそもこの霊衣なるものは、神様はもちろん人または動植物の本体たる精霊即ち霊魂より発する光明であります。霊界物語に左の如く説示してあります(索引霊衣の部参照)。

「総て人間各自の生命に属する所の霊的円相なるものがあつて、この円相は一切の天人や一切の精霊より発し来り、人間各自の身体を囲繞してゐるものである。各人の情動的生涯従つて、思索的生涯の中より溢れ出づるものである。情動的生涯とは愛的生涯の事であり、思索的生涯とは信仰的生涯の事である。総て天人なるものは愛によつてその生命を保つが故に、愛そのものは天人の全体であり、かつ天人は善徳の全部であると云つてもいいのである。愛の善と信の真との権化たるべき初稚姫は、その霊的円相は益々円満具足して、智慧証覚の目より見る時は、その全身の周囲より五色の霊光が常住不断に放射しつつあるのである。これに反して、高姫はすべて虚偽と世間愛的悪に居るを以て、霊的円相即ち霊衣は殆ど絶滅し、灰色の雲の如き三角形の霊衣が僅かにその肉身を囲繞してゐるに過ぎない。これを神界にては霊的死者と名付けてゐる。霊的円相の具足せる神人には、いかなる兇霊も罪悪も近寄ることは出来ない。もし強ひて接近せむとすれば、その光に打たれ眼眩み、四肢五体戦慄し殆ど瀕死の状態に陥るものである。云々」(第五十二巻、真善美愛卯の巻第一章)

 また

「さて、現界に生きてゐる人間の精霊を見ると、現人と同形の幽体を持つてゐるが、亡者の精霊に比べると、一見して、生者と、亡者の精霊の区別が判然とついてくるものである。生者の幽体(精霊)は、円い霊衣を身体一面に被つてゐるが、亡者の幽体は頭部は山形に尖り、三角形の霊衣を纒うてをる。それも腰から上のみ霊衣を着し、腰以下には霊衣はない。幽霊には足がないと俗間にいふのも、この理に基づくものである。また徳高きものの精霊は、その霊衣極めて厚く、大きく、光沢強くして人を射る如く、且つ能く人を統御する能力を持つてゐる。現代は斯くの如き霊衣の立派な人間がすくないので、大人物と云はるるものが出来ない。現代の人間は追々と霊衣が薄くなり、光沢は放射することなく、あたかも邪神界の精霊の着てゐる霊衣の如く、少しの権威も無い様に、霊眼で見るとなつて了つて居るのである。大病人などを見ると、その霊衣は最も薄くなり、頭部の霊衣はやや山形になりかけて居るのも、今まで沢山に見たことがある。いつも大病人を見舞ふ度に、その霊衣の厚薄と、円角の程度によつて判断を下すのであるが、百発百中である。何程名医が匙を投げた大病人でも、その霊衣を見て厚く、且つ光が存して居ればその病人は必ず全快するのである。之に反して天下の名医や、博士が、生命は大丈夫だと断定した病人でも、その霊衣がやや三角形を呈したり、紙の如く薄くなつて居たら、その病人は必ず死んで了ふものである。
 故に神徳ある人が鎮魂を拝授し、大神に帰依し天津祝詞の言霊を円満清朗に奏上したならば、忽ちその霊衣は厚さを増し、三角形は円形に立直り、死亡を免れ得るものである。かくして救はれたる人は、神の大恩を忘れた時に於て、忽ち霊衣を自然的に剥ぎとられ、直ちに幽界に落ち往くものである。自分は数多の人に接してより、第一に此の霊衣の厚薄を調べて見たが、信仰の徳によつて漸次にその厚みを加へ、身体ますます強壮になつた人もあり、また神に反対したり、人の妨害をしたりなどして天授の霊衣を薄くし、中には円い形を、やや山形に変化しつつある人も沢山実見した。自分はさういふ人に向つて、色々と親切に信仰の道を説いた。されどそんな人に限つて神の道を疑ひ、却つて親切に思つて忠告すると心をひがまし、逆にとつて大反対をするのが多いものである。之を思へばどうしても霊魂の因縁性来と云ふものは、如何ともする事が出来ないものとつくづく思ふのである」(第二巻、霊主体従丑の巻総説)

 人体よりする放射光線即ち霊衣に対して、動物電磁気のためと云為している学者に一日も早くこの真相が判って欲しいものであります。
 霊魂の個性的実在を証認するには、霊肉分離即ち死亡の際が便利でありまして、霊眼の開けた人には何の雑作もありませぬが、客観的には前述せるデシャニンによるのが今では一番よいようであります。泰西では一々これを写真に撮りて公表しております。一例として英京ロンドンの心霊大学教授マッケンジー博士の実験を紹介します。その報告によると、最初下脚より霊が分離し始め、漸次全身に及ぼし、その極点に達した時には、肉体の上に大なる模糊たる霊雰(れいふん)が堆積し、やがて次第に凝縮してついには本人と同様の人が出来上がり肉体の上に重なりておるのでありまして、そして繋索(魂の緒)によりて二者が連繋されております。この魂の緒のある間は全く死んだようであっても実は仮死でありまして、分離せる霊身はまだ何の意志もありませぬ。その魂の緒が切れると霊身は覚醒して起き上がり動作を始めるのであります。そして不思議そうに自分の屍体を視ているので、霊媒を通じてその感想を語らしめております。聖師様の説示によると
「この魂の緒は肉体の臍から繋がりていて臍の緒と同様のものであるから、死と出生時とは酷似せるものである。即ち人間より見れば死であるが、霊界より言えば生まれて来たのでいわゆる復活したのである。そして魂の緒が切れると間もなく屍体に分解即ち腐敗作用が始まるから、魂返しの鎮魂を行う場合にはなるべくは死後二時間以内にせねばならぬ。肉体が腐敗すると折角霊魂が返って来ても、容器(いれもの)が役に立たなくては仕方がない」
と教えられました。また
「霊眼で見ていると、死亡時には最初に本霊が肉体の頭の方から分離するものである」
と説示されております。かく外国の実験と相違せる点について、左の如き面白いことが判るのであります。即ちデシャニンでは、ヤット物質に最も近似せる低級の霊(学者のいわゆる第四体)を視得るのみであって、第四体以上の上級の霊に対しては無力であるから、たとえ混濁はしていても本守護神たる本霊は、大神様の御分霊であるから視えないのであると想像して憚らないことであります。あたかも霊眼といえども普通の霊眼では、神霊は無論のこと、向上浄化せる霊魂すら視ることの出来ないのと同様であります。(神界より許された場合は別であります)ただし泰西の研究においても霊眼即ち透感者(とうかんしゃ)による場合には、左記の如く
「幾多の透感者の叙述を見るに、死に際しては魂即ち心霊は頭脳から肉体と分離するものであるらしく思える。この分離に次いでたちまち頭上には模糊たる霊を認め、その雲は人間の形状となって、次第次第に凝結しつつ、いよいよ故人に類似してくると、彼ら透感者は陳述している。この流動的形体は、形成後も死者の肉体とわずかに心臓及び脳髄の間の一つの流動的コードによって連結されつつ、しばらくは死屍(しかばね)の傍らに(とど)まっている」
とまず頭部より分離し始むることを報告しております。
 また霊界物語には、死後直ちに天国に上るものは自分の屍体を見るものではなく、神界ではその人の復活を歓迎され天人を派遣して、魂の緒の切るるや否や屍体を見させぬ手段を取られ天国へ連れて行かれるから、当人は一定の期間即ち天国の生活に慣るるまでは自分の死を知らないのである、と説示してありますから、外国の実験に比較して面白い点が多々見出されるのであります。
 霊魂の実在についてはこのくらいに止めておきまして内外流の本問題に移ります。
 天地万有一切のものはみな相対的の和合により出来ていることは、今さら説明の要はありませぬ。今日科学の証明し得たる究極の電子に至るまで、みな陰陽の相対的であります。しかして前述の如くこの世も相対的であって、現界以外に霊界があることが科学の方面からもヤット判りかけて来たのであります。大本の出現二大神人の説示は、これら一切の関係を根本的に解決し、一方には霊界と現界が相対的に実在すると同時に、さらに一方には霊界と現界は一如不二であるという真諦も、徹底的に闡明されたのであります。即ち無機物とか有機物とか、また生物とかいうのも要するに比較的の名称であって、万有ことごとく生命を有せぬものはないのであります。現に物質の究極たる電子は、生活体であって意志と運動とを有するものなることが、科学者にも判って来たのであります。霊界物語第四巻神示の宇宙(その五)に

「宇宙間には神霊原子といふものがある。また単に霊素と言つてもよい、一名火素とも云ふ。火素は万物一切の中に包含されてあり、空中にも沢山に充実して居る。また体素といふものがあつて単に水素とも云ふ。火素水素相抱擁帰一して、精気なるもの宇宙に発生する、火素水素の最も完全に活用を始めて発生したものである。この精気より電子が生れ、電子は発達して宇宙間に電気を発生し、一切の万物活動の原動力となるのである。
 そして此の霊素を神界にては、高皇産霊神と云ひ、体素を神皇産霊神と云ふのである。この霊体二素の神霊より、遂に今日の学者のいはゆる電気が発生し、宇宙に動、静、解、凝、引、弛、合、分の八力完成し、遂に大宇宙小宇宙が形成されたのである。ニユートンとやらの地球引力説では、到底宇宙の真理は判明しないでありませう。云々」

と説示してありまして、この真諦は明らかに、宇宙は一大生活体であって太元神の大御精霊体であることが会得され、森羅万象ことごとくこの大御精霊体内の各臓器、各細胞、各機能たる真相が、今や人類に理解されんとする時機が到来したのであります。この真相が会得されて始めて真の平和、真の共存共栄の楽土が完成し、神人合一の理想世界が実現するのであって、この大経綸のために大本が出現したのであることは今さら申し上ぐるまでもありませぬ。しかして人類は神の生宮として時代時代の経綸に奉仕すべく生まれて来たものであるから、霊界に対する機能と現界に対する機能とを最も完全に具備しているのであります。大本教旨の
「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり。神人合一して茲に無限の権力を発揮す」
とは、神と人との本義を説示されたる絶対的神示であります。さて内流とは、霊魂本来の受持ち区域たる霊界に対して、その交渉連絡に任ずる機能を言うのであります。かの交感神経と称する霊妙なる神経装置は、主としてこのための機関であって、いわゆる霊眼、霊耳、天言等の霊的五官はこれによりて営まれ、その働きの中枢は臍下丹田であります。交感神経が腹部に一番多く(くさむら)をなしておるのも、一つはこのためであります。霊魂はこの内流によりて愛善の徳と信真の光を享受し、霊界の事象を知得し、智慧証覚なる霊能が涵養されて行くのであります。霊界物語にはこの霊魂の方面を内面、その霊能を内分と示してあります。御神諭中の神心、本心または生まれ赤子の心とは、本来の霊魂即ち本守護神の働きでありますから、神様と感合し天国と交通するにはこの神心に限るのであります。神格者とか人格者とかはこの神心の持ち主に限るのであって、そして常に神様の内流を享受するのほか人格を向上せしむることは出来ないのであります。かの良心とか覚識とか称するものはこの神心を指したものであって、霊界物語には天的または内的精神とも言うてあります。
 この内流について心得ておらねばならぬことは神諭にも「天地の先祖は変性男子、変性女子のほかには(うつ)らぬ」と明示されている通り、大神様よりの直接内流は今のところただ大神人に限ることであります。従って吾々に取りては、この二大神人の口と手とによりこれを説示さるるのであるから間接内流となるのであります。今一つ注意すべきことは、内流とは神格を拝受することであるから、幽界即ち中有界や地獄との和合は真の内流では無いという点であります。中有界や地獄はみな怨み、妬み、怒り、争い、虚偽(いつわり)利己主義(われよし)等の諸罪悪の想念界であって次に述ぶるところの人間の外分たる肉体欲とは常に好んで和合するも、人の内分とは全然相応しないのであります。故にかかる人の霊魂は次第に無力無能となり、はなはだしきは霊的死者と称せらるる痴呆軟弱極まる状態となるのであります。

 外流とは、肉体の受持ち区域たる現界に対して、その一切の交渉連絡に任ずる機能を言うのであります。この機能は交感神経と相対的であるところの脳脊髄神経によって営まれ、生理学のいわゆる五官機能であってその中枢は脳であります。かく現界に対する方面が人の外面であり、その内容を外分と言うのでありまして、御神諭中の人間心、肉体心とは即ちこれであります。かの感識だとか、知識、常識とか称するものは、主としてこの方面に属する心理現象を言うのであって、霊界物語には地的または外的精神とも言うてあります。
 しかし霊魂と肉体とは生体においては和合一体であるから、人の心性はこの内外分の相応按配されたものであることは、言うまでもありませぬ。即ち交流作用なる関係の下に、頭脳において内分と外分とが互いに相応按配さるるのであって、頭脳は実に人体の中央政庁であり心の製造所であります。この交流作用は情動または行為に伴うて促進され旺盛となるのであります。御神諭に「筆先を読みつづけて居れ。実地の行ひをせよ」と教えてあるのはこのためであります。かく人体の霊妙なる構造、不可思議なる機能が闡明されただけでなく、宇宙間にも交感神経系統に相応する霊線があって、日月地星が相連絡しているという貴重のことが、霊界物語第四巻に説示してあります。
 御神諭や霊界物語等の神書は実に神界、幽界、現界の三界を通じて説示してあるのですが、御承知の通り現界の一切の事象はみな霊界(神界、幽界)の移写顕現であるから、神書内容の大部分はこの根本たる霊界に関する天啓、神示に充たされているのであります。従って霊的知識即ち智慧証覚によらねば判らないのであって、神書の習得は人の内面に属するのであります。故に常に怠りなく読みつづけておればドシドシ内流(間接内流)し、霊魂はその階級即ち(みたま)相応にこれを理解記憶して行くのであります。聖師様が「しかし常に読みさえおれば判って来る」と仰せになるのはこの理由からであって、「自分の心覚えに書き取らしたものであるから、判らぬ箇所の多いのは当然である」とは、外分即ち頭脳だけでは判らぬということであります。
 さて吾人は神書によって常に神格の内流を受けておれば、外面即ち肉体に交流し、殊にこれを実行することによって交流はますます盛んとなり、身と(たま)は相伴うてますます向上してくるのでありますから、御神諭霊界物語等の了解範囲がますます拡大され「同じ御筆先がまるで変わったように判りてくる」という状態になるのであります。さらに左の事実を会得したならば、大歓喜の下に勇んで神書を読まねばならぬようになるのであります。
 人間平時の状態は、常に肉体が主動者となって(即ち常識によって)働いているのであるが、真心こめて神様に祈願する時とか、迷うたり困ったりした時とか、一生懸命になった時とか、一大事変に遭遇した時とかには、悲喜善悪何れにもせよ常識が減却し、あるいは全く圧倒され、代わって霊魂が主動者となり肉体を使役するものであります。夢中になった、空になったと称せらるる状態が即ちその一例であります。この場合においてその人が神格の内流を享けている正しき霊魂の持ち主であったならば、夢中でやったことがことごとくみな道義に叶うのでありますが、もし反対に邪悪なる霊と交渉している人であったならば、不正霊魂が思うままに肉体を使うのであるから、種々の恐るべき罪悪をやることとなるのであります。世上の悪徳者、犯罪者はみなこの関係によるのであるから、真の教育即ち神格の内流による霊魂教育にあらずんば、これを救済し世を清むることは絶対に不可能であります。この霊肉関係について誰にでも首肯さるる好実例がある。それは酒に酔うた場合であります。
 酒に酔うということは、アルコールのために神経が麻痺し、その能力が減弱したる状態を言うのでありますが、前述せる二系統の神経が同程度に酔うかというと、そうではなく常に現界係たる脳脊髄神経の方が先に酔います。これはこの神経の方が酒に対して弱いので下戸であり、交感神経(霊界係)の方ははるかに強いからであります。この関係は肉体に取っても非常に貴重であって、交感神経は主として貴要機関たる各内臓及び血管を支配しているから、脳脊髄神経の如く酒に弱かったならば酩酊の都度、瀕死の危険病状あるいは死に陥るのであります。故に酩酊は普通脳力方面に限られ思考、判断、反省等の常識が減弱するから、ココに霊魂が主動者となり、いわゆる生酔い本性を現すこととなるのであります。
 細かく内外流の真理が判りし上は、御神諭や霊界物語は怠りなく拝読してさえおればよいのでありますから、誠に楽になります。また取り違いも起こらないのであります。


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