霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第一章 国教樹立論

インフォメーション
題名:第1章 国教樹立論 著者:出口王仁三郎
ページ:99
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-03-05 04:52:56 OBC :B121801c21
   (一)
 皇道(すなわ)ち大本教は、天地初発(しよはつ)の時より大日本国に因縁(いんねん)し、肇国(ちようこく)の本来より先天的に密合して離るる事の出来ない、根本の大教義であります。(しか)るに我神国日本の歴史的事実が、「帝国憲法」の明文に示されたるが如く、信教の自由たらしめられたのは何故であろうか。(これ)を簡単に()うならば、我神国は天壌無窮(てんじようむきゆう)に皇運の弥栄(いやさか)えに栄えます御国柄でありますから、二千年や三千年間の歴史的事実を見て、以て確固不変の論拠と()すのは、(だい)なる誤謬(ごびゆう)()ろうと思うので在ります。天壌無窮(てんじようむきゆう)(もう)す事は、将来の無窮を言うのは勿論(もちろん)であるが、無終は無始に対応して起るべき事実であって、無始の因無(いんな)くては無終の果ては無いのであります。我神国は無始無終の大基礎の上に建国の本義を樹立する国体であって、(わずか)に二千(ざい)や三千(ざい)の短かき歴史を以って論断すべき国柄では無いのであります。夏の虫は雪を知らずに、世の中は永遠無窮に熱いものと思って()るのと同じ()うに、『日本書紀』に「天祖降跡(あまくだり)たまいて()以逮(このかた)(いま)()一百七十九万二千四百七十余歳(よさい)()たり」と載せて()る事すら、現今の学者は説明に窮して、半ば(かい)疑的(ぎてき)(まなこ)を以て見て居るという有様である。こんな事で到底、日本神国の宏遠なる意義を語る事は最も不可能であると()わねば成らぬ。日本神国の真実義を()かんとするものは、天壌無窮(てんじようむきゆう)の立脚地に立つ()けの資格の有る者で無ければ成らない。皇宗崇神(こうそうすじん)天皇以後二千(ざい)の寛容的和光同塵(わこうどうじん)の時代は、日本国教の寛容時代であって、国家本来の偉大なる包容性を示された、事実的立証と成る(まで)の事であります。
 この寛容時代は、太古(たいこ)国祖国常立尊(こくそくにとこたちのみこと)(うしとら)へ退隠遊ばされたる時に(はじ)まる所であって、世界未製品時代の趨勢(すうせい)として、万止むを得ざる次第で在ったのであります。降而(くだつて)人皇(じんのう)十代、崇神(すじん)天皇の御宇(ぎよう)に至って、(いよいよ)々「三種の神器(しんき)」の大権威を深く韜蔵(とうぞう)遊ばされ、広く世界の文物に自由自在の発展を()さしめ、幾多の文明を変遷せしめて、漸次(ぜんじ)に極東日本の神州に(その)文明の一切を輸入せしめられたので有りますが、従来、幾多の文明も一として最後の平和を樹立するの(よし)無く、自由発展の結末が(かえつ)て惨劇を世上に(しげ)からしめ、不安劇烈の大修羅場(だいしゆらじよう)を現出し、弱肉強食の堕落にまで到達して、人間(ことごと)く痛苦を()む現代に当って、退隠遊ばされし国祖を出現せしめ(たま)い、()つ二千(ざい)の間、深く韜蔵(とうぞう)せられたる「三種神器」の発動を(うなが)し給い、天地神明の稜威八紘(りよういはつこう)に充ちて、(たちま)ち松の世の春光の凞々乎(ききこ)として(きた)るの感あらしめん、皇祖の御聖慮に出でさせ(たも)うたのであります。
   (二)
 ()く謂えば、何故に斯様(かよう)な御神慮に(いで)させ給うたかを疑う者もあるで()ろうが、是全く天運循環(てんうんじゆんかん)の自然の神律に(したが)い給うたもので、開祖の『御神諭』の御明文の如く、「時節には神も(かな)わんから、神は時節を待って、世の立替立直しを致すぞよ。もう何彼の時節が参りたから、昔の元の先祖の経綸通りに致して、天下泰平に世を治めて、昔の神代に()じ直し、松の代、ミロクの代と致すぞよ。今迄(いままで)(わざ)とに暗雲(やみくも)の世に致して、万古末代(まんごまつだい)経綸(しぐみ)を致して在りたぞよ、云々(うんぬん)」。
 右の『御神諭』を(うかが)(たてまつ)るも、永遠に転回し往く必然の順運を察し給いての、深甚なる御神慮に(いで)させ給いし、難有(ありがた)き御聖慮であったので、(その)絶大なる御経綸は、人心小智の窺知(きち)し得ざる、幽玄なる真理の存する所であります。『古事記』の明文に(いわ)く、
此天皇之(このすめらみことの)御世に()病多(やみさわ)に起りて人民死(おおみたからう)()きなんとす。爾天皇愁歎而(ここにすめらみことうれいたまいて)神床(かみとこ)()すの()大物主大神(おおものぬしのおおかみ)御夢(みゆめ)(あらわ)れて(のりたまわ)く、『是者我之御心(こはあがみこころ)なり。()意富多多泥古(おほたたねこ)()て、我御前(あがみまえ)を祭ら()めたまわば、(かみ)気起(けおこ)らず、国安(くにやす)(たいら)ぎなん』」
 と。(これ)ぞ、世界大救済(きゆうさい)の神策を獲給(えたも)うの御垂示(ごすいじ)であります。こは(やや)神秘的の(よう)()れども、此意義は、今に明白に分る日が来る事と確信するのであります。「天に風雲の(さわ)りあり。地に変動の(さまた)げあり。人に疾病(しっぺい)(わずら)いあり」と()う事が古人の言に在るが、現今の人々は皆(ことごと)く霊肉共に重患に(かか)って居るのであります。肝腎の精神に本来の真光が()せて(しま)って、思想が悉く病的である。身体も霊魂も共に重病に犯されて居るのが、現代の世界一般の人々の有様であります。一時も早く、片時(へんじ)も速かに『大本神諭(おほたたねこ)』を喚起(かんき)して、速に神宮を金輪際(したついわね)遷座(せんざ)し、神祇を祭祀して、天下の疫気(えきき)を悉く終息せしめ、国家安平の実を()ぐる神事に努力せなければ成らぬ時運が、迫って来たのである。
   (三)
 皇道の大本(たいほん)は、長年月の和光同塵(わこうどうじん)時代を直過(ちよくか)して、「帝国憲法」までが信教の自由を標榜(ひようぼう)する(まで)(いた)ったけれども、(これ)を広義に見れば毫末(ごうまつ)も其領域を()かされたのでは無い。通俗的に考えて見ても、儒、仏、耶の伝来等の大なる思想、並に形式の伝来があったけれ共、日本の根本思想が比較的之に浸潤せず、極めて円滑に是等(これら)を消化し、日本化して(しま)った所の、(その)消化力の偉大なる事、(しか)して(その)本来の精神の、渾然(こんぜん)として何物にも(おか)されず、常に他を化して自家の薬籠中(やくろうちゆう)のものたらしめたるは、全く国祖の隠護されたる結果にして、日本固有の大精神が金剛の威力を有し、神聖不可犯の権威と、而して大寛容性の(うち)にも他に同化せられずして、(ことごと)く他を類化し、()って(きた)るものをして、(あたか)も本来の在所(ありか)に帰着せしめたるが如き感()らしむるは、実に大したものでは無いか。思想の大宗家(だいそうけ)として、乃至(ないし)は一切万有の本家、本元として、何物にも本来の居据(いすわ)り良い心持を与え、主君や親の膝下(しつか)に到来するの情を起さしむるは、誰が考えても一種の驚歎を感ぜずには居られない。()う言う一般史実的方面からだけ見ても、日本の根本教義を(さぐ)って見たい感を、何人にも与える次第である。日本の国体を論ずるものの説は、此点の詮鑿(せんさく)根基(こんき)となって、古記録の研鑚(けんさん)を積み、(しか)して成立したものであるが、吾人の要求は、もう一段と深い所まで研究を()(もら)いたいのである。
   (四)
 既に一言せし通り、帝国憲法第二十八条に、「日本国民は安寧秩序を(さまた)げず、及び臣民たるの義務に(そむ)かざる限りに(おい)て、信教の自由を(ゆう)す」と()って、日本臣民は信教の自由を有して居るのである。(しか)るに今新に大本教を樹立するに(つい)ては、憲法の条文を破棄するに足るだけの確固不抜の論拠を有し、()つ帝国議会の翼賛(よくさん)を経なければならぬ、実に至大の問題であると()わなければならぬのである。故に国教樹立に対しては、
 第一、現代が日本国に()って、果して国教樹立の時期なりや、否やを論究せなければならぬ。
 第二、国教に樹立すべき程の教義が、我国に在りや、否やを論究せねばならぬ。
 第三、我国は果して国教樹立を本体と()す国柄なりや、否やを論究せねばならぬ。
 第四、我国民が国教を理解し、(これ)を承認し得るの識力に達し居るや、否や。(その)機質を論究せねばならぬ。
 第五、憲法改定に対する論拠は正当にして充分なりや、否やを論究せなければならぬ。
 如上(じよじよう)五種の大間題に対して、明確なる解答を与えるに()らざりせば、国教樹立論は到底(その)実現を見るに至らないのである。
 第一、国教樹立が日本現代の要用なる事件なりや、否や。
 この事は、諸種の方面からして(これ)を論究せなければならぬ事柄であって、吾人(ごじん)は国教樹立を以て大正維新の最大間題にして、()焦眉(しようび)の急に(せま)れる問題なることを深く信ずる。大正の御代の大使命は、(もつぱ)ら国教樹立の大間題を中心と()し、一大整理を国の内外に施さねばならぬ事と信ずる。大正という御代(みよ)の名が、彼の神武天皇の詔勅を切に思い起さしむるのは、吾人(ばか)りの感想ではあるまい。
()大人制(ひじりのり)を立て、(ことわり)必ず時に(したが)う。(いや)しくも民に利する()らば、何ぞ(ひじり)(わざ)(たが)わん。すべからく山林を(ひら)き払い、宮室(おおみや)経営(おさやめつく)り、(うやうや)しく宝位(たかみくら)に臨み、以て元元(おおみたから)(しず)む。上は(すなわ)乾霊国(あまつかみ)(さず)くるの(うつくしび)に答え、下は則ち皇孫(すめみま)正を養うの心を弘む。(しかし)て後に六合(くにのうち)を兼ね、以って都を開き、八紘(あめのした)(おお)いて而して(いえ)()んこと、亦()からずや」
 と。大正の大御代は(まさ)に「皇孫正を養うの心を弘め、(しかし)て後に六合(りくごう)を兼て以て都を開き、八紘(はつこう)(おお)うて(いえ)()す」の大御代ではあるまいか。神武天皇の東征の御志を立て給うや、(みことのり)(いわ)く、
「昔我が天神(あまつかみ)高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)大日孁(おおひるめ)尊、此の豊葦原瑞穂国(とよあしはらみづほのくに)を挙て、我が天祖(あまつみおや)彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)に授けたまえり。(ここ)火瓊々杵尊(ほのににぎのみこと)天関(あめのいわくら)(ひら)雲路(くもじ)()け、山蹕(さんひつ)()(もつ)戻止(いたります)是時(このとき)()鴻荒(あらき)()い、時、草昧(くらき)(あた)れり。故蒙(かれくらく)して以て正を養い、此西偏(にしのほとり)を治す。皇祖皇考乃神(みをやのかみ)乃聖にして(よろこび)()(ひかり)を重ね、多く年所を()たり。天祖降跡(あまつみおやあまくだり)まして()以逮(このかた)、于(いまに)一百七十九万二千四百七十余(さい)(しか)るを遼遠之地(どおきところ)猶未王沢(なおいまだおうたく)(うるお)わず。遂に(むら)君有(きみあ)り、村に長有(おさあ)りて、各自彊(おのおのさかい)(わか)ちて(もつ)相凌(あいしの)(きしろ)わしむ。云々(うんぬん)
 現代の思想界の有様を見ると、(その)封建割拠(かつきよ)の様が、「(ゆう)君有(きみあ)り、村に(おさ)有る」の有様ではあるまいか。仏教は仏教で、その信者を私領して一大豪族の有様を()して居るかと思えば、耶蘇教(やそきよう)は耶蘇教、神道(しんとう)は神道で、相互に()の信者を分割私領して、()(しよう)して居る有様である。仏教の中が(また)幾種かの割拠を為し、耶蘇教も、神道も、亦同じく其内部が幾多の部類に分れて居る有様は、大名、小名の土地、人民を私領し分割して居た有様と、(ごう)も異る所は無い。斯様(かよう)な状態が(はた)して日本国本来の国柄であろうか。明治維新は実に七百有年間の武家政治を打破して王政に復古した、曠古(こうこ)の御大業が成就した御代(みよ)であったが、大正の大御代は(まさ)に思想界の上に王政の復古を成就し、万邦統一の大使命を果すベき、実に天地開闢(かいびやく)以来の御鴻業(ごこうぎよう)が成立すべき御代である。明治天皇は王政復古の御大業と(とも)に国教を樹立して、思想界に於ける神政復古を企図し給い、(すなわ)ち明治三年正月、祭政一致の詔旨(しようし)を下し玉い、
「朕(うやうや)しく(おもんみ)るに、天神天祖極(てんしんてんそきよく)を立て(とう)()れ、列皇相承(れっこうあいう)(これ)()(これ)を述ぶ。祭政(さいせい)一致、億兆同心(おくちようどうしん)、治教(かみ)に明かにして風俗(しも)に美なり。而るに中古以降、時に汗隆(うりゆう)有り、道に顕晦(けんかい)有り。今や天運循環(じゆんかん)し、百度()(あらた)なり。(よろ)しく治教を明かにして(もつ)惟神之道(いしんのみち)()ぶべきなり。因りて新たに宣教使を命じ、天下に布教せしむ。汝群臣衆庶(しゆうしよ)、其れ斯の(むね)を体せよ」
 と仰せ給い、国教樹立の大方針を建て給いしかども、宣教使に任ぜられたる人々に、惟神大道(いしんたいどう)の本義が確実に了知せられず、時勢も(いま)だ其の運に至らずして、早くも明治五年三月には神祇(じんぎ)(しよう)が廃せられて教部省代り()ち、()ち仏教との合併院たる大教院が設立さるるに至り、明治八年五月、大教院の廃止と(とも)に、祭政一致の御聖旨が全く消滅するような有様に立ち到ったのは、時機の未だ到らなかった(ゆえ)とは()え、実に遺憾(いかん)(きわみ)であった。
 明治の大御代は(いま)だ神政復古の時機では無かった。明治廿二年の憲法制定、明治二十七、八年戦役、同三十七、八年戦役等を経て、世界の知識は(あまね)我邦(わがくに)に輸入し(きた)り、威武益々(ますます)海外に伸張して、帝国の稜威(みいつ)は日に月に隆盛に赴く場合となった。(ここ)に於てか、皇国の根本的大使命に向って更に歩武を進め、所謂(いわゆる)神政成就の暁を(みそな)わさんの大御心(おおみこころ)により、(すなわ)()(しん)の年に当って臣民に詔書を下し給い、「(そもそ)()神聖(しんせい)なる祖宗(そそう)遺訓(いくん)()光輝(こうき)ある国史(こくし)成跡(せいせき)とは、(へい)として日星(じつせい)(ごと)し。(まこと)()(かく)(しゆ)淬励(さいれい)(まあこと)(いた)さば、国運発展(こくうんはつてん)本近(もとちか)(ここ)()り。(ちん)方今(はうこん)世局(せさよく)(しよ)し、()忠良(ちゆうりよう)なる臣民(しんみん)恊翼(きようよく)倚藉(いしや)して、維新(いしん)皇猷(こうゆう)恢弘(かいこう)し、祖宗(そそう)威徳(いとく)対揚(たいよう)せんことを庶幾(こいねが)う」
 と仰せ給い、君臣協同して皇典の研鑚に基き、皇祖皇宗の()さし給える惟神(いしん)の大道を()べ、祭政一致の本義を復古して、以て国運の発展を期し、先天の使命を遂行せんとの御聖慮を披発(ひはつ)し給いしかども、天は聖帝に(とし)(かさ)ずして、治世四十(ゆう)五年にして(にわか)登遐(とうか)し給い、世界統理の大命を後継の陛下に譲らせ給うた。実に深遠幽妙の神業こそ、仰ぐもいとど尊き次第である。
 ()くて御代は大正に替ったけれども、時運は益々逼迫(ひつぱく)(きた)り、曠古(こうこ)の御即位大典も首尾()(これ)を御挙げになり、神政復古の大命に向わせ給うべき第一着として、(すなわ)ち臣民に左の御沙汰書を賜わったのである。
皇考夙(こうこうつと)(こころ)教育(きよういく)(こと)(ろう)せられ、(せい)(さだ)(れい)()き、又勅(またちよく)して其大綱(そのたいこう)(あきらか)にしたまえり。朕遺緒(いちよ)紹述(しようじゆつ)して倍々其の振興を図らんとす。今や人文日進の時に方り、教育の任に在る者、克く(ちん)()(たい)し、(もつ)皇考(こうこう)遺訓(いくん)対揚(たいよう)せんことを()せよ」
   (五)
 此の時に際して、国民の緊張したる思想が内に(あふ)れて、統一整理の実現を唱導(しようどう)する声が益々高くなり、外には暗膽(あんたん)たる隣邦支那並に露国の国体上の大問題あり、欧州の各国は(ことごと)(ほこ)()って立ち、全土修羅(しゆら)(ちまた)と化し、実に(はん)(らん)を極めて居る有様である。斯様(かよう)な列国の有様が、()の終局を何処(いづこ)に止むべきかは(すこぶ)る疑問であるけれども、神則の至厳確実なる事を信頼して、我が国民が一大雄飛を試むるの舞台の接近したる事を深く信じて、この千(ざい)(ぐう)の好機を逸するようなことがあってはならない所である。『旧約全書・但以理書(だにえるしよ)』第二章に不思議な夢物語が載って居る。バビロンの王ネブカドネザルの巨人の像を見たという物語である。
「バビロンの王ネブカドネザルが或夜(あるよ)巨人の像を(みと)めた。その像は(かしら)は金で胸と両腕は(ぎん)、其腹と腿とは銅で其の(はぎ)は鉄である。そして脚と(あしゆび)とは、一部は鉄で一部は泥土(でいど)で成立して居た。此像を王が見て居ると、一個の石が人手を()らずして山より()れ落ち、巨像の足を()ったので、共の巨像は夏の禾場(うちば)(ぬか)の如くに全く砕けて、風に吹払われて無くなって(しま)い、その石は大なる山となって全地に()ちたというのである。乍併(しかしながら)ネブカドネザル王は、自分の見た像の事を全く忘れてしまったので非常に心を思い悩ました。(しか)してバビロンを始め、天下の博士や法術士や魔術士等を召して其夢と其夢の解明とを求めましたが、誰一人として(これ)を告げ知らす者は無かった。(ここ)(おい)て、大王は怒って彼等を殺すことを命じました。時に天の神様を信じた青年ダニエルは之を聞き、彼の同輩三名と心を合せて祈りました。神様は彼等の(いのり)を聴き、ダニエルに其夢と其の夢の解明をお授けになったのである。ダニエルは王の前に出で、王に其の夢と其夢の解明とを申し上げた」。
 今()の解明した所を聴くと次の如くであった。ダニエルは()った。「王に示された此像の金の首は(すなわ)爾君(にくん)であると告げた。果せるかなバビロン帝国は、紀元前(ほとん)ど六百六年より同五百三十八年まで天下の諸王国を征服して共全権を(にぎ)って(はなは)だ栄えたのである。(しか)して次の銀の胸と両腕とはバビロン帝国を滅して天下の権を握って、同三百三十一年まで栄えたメデヤとベルシャの同盟国を示したものであり、次の腹と腰との銅の部分は、ペルシャ帝国の後に起った、(すなわ)ちアレキサンダア大帝が天下を征服して(たて)たギリシャ帝国を示したもので、この希臘(ぎりしや)の栄えたのは紀元前百六十八年までであったのである。次の鉄の(はぎ)はギリシャ帝国を征服し、紀元前百六十一年に猶太(ゆだや)国民と契約を結び、遂に天下を統御した羅馬(ろうま)帝国を代表したものであったのである。而して其脚及(あしゆび)の鉄(あるい)泥土(でいど)であった部分は、羅馬の末世に(おい)て北方の蛮族(ばんぞく)が来襲して、遂に紀元三百五十一年より同四百八十三年頃迄に分裂した羅馬の十の小王国である。天の神様はネブカドネザルに巨像を示して、而して共の巨像を以て(あらかじ)め二千五百有余年間に(わた)る所の天下の治乱興廃を告げ、大予言を垂れられたのである。歴史事実は不思議にもこの予言の(まま)に進んだのであった。史実が(あきらか)に予告を立証したのであった。
 さて次に起る問題は何であろうか。彼の十小国の未来の問題である。現今の欧州各国は是等十小国の末流である事は誰も知る所である。(しか)して其趾(そのあしゆぴ)の一部は鉄で、一部は泥土で、相互に(がつ)せざるは自然の天理である。彼等は其勢力に於て(おのずか)ら強弱ありて、互に併合して世界の統一権を獲得せんと欲し、(たつ)()を唱えたものには、シヤーレマンがある、チヤーレス五世がある、ルイ十四世がある、ナポレオンがある。()くの如く英雄豪傑が武力を以て他を圧し、(これ)を併合せんと努めたけれども、遂に(ことごと)く失敗に帰したのである。以来是等(これら)の諸強国は「人草(ひとぐさ)の種子を(まじ)えん」とある如く、欧州の諸強国王は、其血族相互の結婚を以て彼我(ひが)の親善を(はか)り、(また)同盟を結びて一致和合を求め、世界の保全を企てて居ると(いえ)ども、鉄と泥とが永遠に相合(あいがつ)するの理なく、彼等は日々に軍備拡張に熱中し、世界最終の戦争に備えつつあったが、予言は(あく)まで之が現実されん事を主張して居るものか、今回(はし)なくも塞比亜(せるびあ)墺多利(おうすとりあ)間に葛藤(かつとう)を生じ、遂に墺独(おうどく)の両国が仏英露(ふつえいろ)の強国を相手として雌雄を決すべき大袈裟(げさ)な大戦闘を惹起(じやつき)し、欧州の全国は(たちま)修羅(しゆら)(ちまた)と化し、五か年に(わた)るも其の落着が(いず)れに定まるか、分明せない有様である。実に恐るべき予言として、我等はネブカドネザルの巨像の夢を深く味わなければならないのである。耳をそば立てて聴け。(つまびらか)に聴け。
「この王等の日に、天の神(ひとつ)の国を()て給わん。(これ)は何時までも(はろ)ぶる事なからん。此国(このくに)は他の民に帰せず。(かえつ)てこの(もろもろ)の国を打破りて(これ)を滅さん。是は立ちて永遠に至らん。」
 何たる深刻な予言であろう。(これ)()の人手に()らずして(ほら)れて落ち(きた)った石が、巨像の足の(あしゆび)(うち)て砕きしに対応して居るのである。この時に()てらるべき国とは如何なる国であるか。人々(おおい)に考ふべきである。謹みて『延喜式(えんぎしき)祝詞(のりと)(しよう)(たてまつ)れ。
辞別(ことわ)きて、伊勢に()天照大御神(あまてらすおおみかみ)(おお)(まえ)(まお)さく。皇神(すめかみ)見霽(みはる)かし()四方(よも)の国は、(あめ)壁立(かきた)(きわ)み、(くに)退()()つ限り、青雲(あおくも)(たなび)(きわ)み、白雲の()坐向伏(いむかふ)す限り、青海(あおみ)(はら)棹柁干(さおかじほ)さず、(ふね)()の至り留まる(きわ)み、大海原(おおみのはら)舟満(ふねみ)ちてつづけて、(くが)より()く道は、()緒縛(おゆ)(かた)めて、磐根木根(いわねきね)()みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道(ながじ)間なく立ちつづけて、狭き国は広く、峻しき国は平らけく、遠き国は八十綱(やそつな)打ち掛けて引き寄する事の如く、皇太御神(すめおおみかみ)()さし(まつ)らば、(中略)また皇御孫命(すめみまのみこと)御世(みよ)を、手長(たなが)の御世と、堅磐(かきわ)常磐(ときわ)(いわ)(まつ)り、(いか)し御世に(さき)わい(まつ)る故に、云々(うんぬん)
 ()くネブカドネザル大王の夢物語の予言と予証(よしよう)とが、古記録に徴するも、事実の真相に(かんが)みるも、(すこぶ)る我が大日本国に関連する事の深く()つ遠きを(おもんぱか)る時は、現在欧州の大戦乱が必然に何事かを我等に告知して居るが如き感が起きて来る。
 日蓮上人の出生に対しては、『法華経(はけきよう)』の予言として後五百歳上行出生(じようぎようしゆつしよう)が信ぜられて居るが、現今学者の立証する所の釈迦(しやか)の誕生年月は、神武紀元三十八年に当り、後五百歳(二千五百年後)は実に今日に相当するのである。北条時代は六百六十年の前であって、『法華経』の予言には適合せぬ事となるのである。
 後五百歳上行出生(じようぎようしゆつしよう)を真実なものとすれば、上行出生は日蓮の当時ではなくして、正に大正今日の時代である。『法華経』の学者、(もつ)如何(いかん)となす。日本の古典には、崇神(すじん)天皇の御夢物語があって、大予言として伝えられて居るのだげれども、此は古典の専門的知識を要する事柄であって、今明白に解説する事が出来難(できがた)いから、今は其詳解(しようかい)を省略するの余儀なき次第である。
 時期間題に対しては一先ずこの位で切上げ、第二の間題に移る事とせん。
   (六)
 第二、我国には国教に樹立すべき程の教義ありや、否や。
 この問題は一面国体論(こくたいろん)者の単純な(かんがえ)から()えば、何の造作(ぞうさ)も無いような問題で、本居(もとおリ)平田(ひらた)翁の神道観を始め、現代ならば井上博士、筧博士等の所説を以てして善いかも知れないが、(これ)を専門の宗教上から論ずる場合には、非常に重大な諸間題が其の間に起るべきである。先ず差当り左の諸項に対して解答を与えねばならぬ順序です。
 一、大本教は現在(おこな)わるる所の諸宗教、諸教義を統一すべき資質ありや。
 二、大本教は現在存在する諸宗教、諸教義以上に有力にして、善良なりや。
 ()しも大本教が現在存在する諸宗教、諸教義を統一するの資質がないならば、日本国教の統治力総攬権(そうらんけん)は不完全であり、欠陥ある事を免れないものと()わなければならぬ。()ぜならば、諸宗教、諸教
 義の一つでも統合し網羅(もうら)する事が出来()なければ、当然()の包擁力以外に()ずべき(ある)部類のある事を否定する訳には行かないからである。(あるい)()しも統一力を充分に有して居たとしても、()れだけで大本教が優秀なものでなければ駄目である。()ぜならば、如何(いか)に包擁力に富み、巧に統一したからとて、其のもの自体の資質が現在行わるる或物よりも、何等かの点に(おい)て善良なるべき徳に欠け、乃至(ないし)は権威の存在を認むる事が出来なければ、国の根本教義とし、国自体の全分の信頼を託する事が出来ない事となるのは、知れ()つた事柄である。()く出来上ったものが、古今に通じ中外を一貫して発揚さるべき性格を欠くような、偏狭固陋(へんきようころう)な教義を建てて得意がるような事があったり、乃至悪平等の主張に陥って、権威も無く、熱誠もない、茫漠(ぼうばく)たるものが出来たりなぞするのは、到底、変哲学者の妄想たるに(とどま)って、決して大本教の実現を見る事は無いのである。国教樹立は如上の諸問題に対して完全なる解決を有して居ねばならぬ次第である。
 大本教は諸宗教、諸教義の統輔的資格を有し、()つ完全円満にして、国体の根本基礎をなし、中外を一貫し、古今に通じたる権威である事を要するのである。
 大本教が如上(じよじよう)の資質を有すべきに(つい)ては、先ず最初に、国教樹立の根基を()すべき主典(しゆてん)穿鑿(せんさく)から(はじめ)ねばならぬ次第である。
 大本教は主典として何を採用するのであろうか。
 大本教の主典としては、(いわ)く『古事記』、曰く『日本書紀』、曰く『延喜式祝詞(えんぎしきのりと)』等を重き典籍とし、(つい)で『古語拾遺(こごしゆうい)』、『旧事記(くじき)』、『本朝六国史(りつこくし)』、『万葉集』、『倭姫世記(やまとひめせいき)』等に至るまで、皆(ことごと)依典(いてん)とはするけれども、就中(なかんずく)『古事記』(ならび)に大本開祖の『神諭(しんゆ)』を主典と()すのである。『古事記』は()の序文に()べたる如く、天武天皇の御詔勅を奉じて編述されたるものにて、序文の一節に、実に次の如き事が記されてあるのである。
 「朕聞(われき)く、諸家(しよか)(もた)らす所の帝紀及び本辞、既に正実(せいじつ)(たが)い、多く虚偽(きよぎ)を加うと。今の時に当りて()(あやまり)を改めずば、未だ幾年をも経ずして、()(むね)滅びなんとす。()(すなわ)邦家(ほうか)経緯(けいい)、王化の鴻基(こうき)なり。故惟(かれこれ)、帝紀を撰録(せんろく)旧辞(きゆうじ)討覈(とうかく)して、()を削り(じつ)を定めて、後葉(のちのよ)(つた)えんと(おも)う」。
 『古事記』を以て大本教の主典と為す事は、何人にても異存のあるべき(はず)が無いものと信ずるのである。「古事記大本教」は、実に(わが)国教の唯一主典と申して()いのである。
   (七)
 今や世界の趨勢が、()()と統一を欲求し、大教義の発現を切望し、大救世主の出現を冀待(きたい)する事の切なる有様は、識者の(これ)を洞察するに(かた)しとしない所である。世界は修羅(しゆら)地獄のどん底までも堕落し行くのである。(しか)して修羅地獄のどん底に到った時に、大救世の日の御旗は(その)上に輝くべきである。大本教に()たなければ、世界は平和な楽境とはならない。大本教は、世界を救う所の唯一の根源であり、(かつ)使命である。
 大本教の発揚さるる(みなもと)は、『古事記』奥義の発揮である。『古事記』の真意義の発動である。『古事記』秘奥の解せられざりしは、時機が(これ)を許さなかった為めである。天津金木(あまつかなぎ)日本言霊法(にほんことたまほう)の発展、開祖の『神諭』に(よっ)て、『古事記』の真解(しんかい)されたは、全く時機相応の所以(ゆえん)である。
 『古事記』には、哲学的方面の解釈と、倫理的方面、宗教的方面の解釈がある。本題目としては比較宗教学の立場からして、既成宗教に対して些細(ささい)の比較討議を為すべきであるが、紙面の狭隘(きようあい)なるが為に、比較の討議を可成的(なるべく)避けて、『古事記』の真義を略述するの(かたわ)ら、諸種の方面に些少(さしよう)の比較を試むるに(とど)めねばならぬ次第である。(その)比較討議の如きは、各自専門の方面に(おい)て、読者が個々になされんことを切望するの()むなき次第を御賢察が願いたい。大本教は我皇室と一体不離の教義なるが(ゆえ)に、御皇運の無彊(むきよう)なるが如く、(この)道は一系綿々(めんめん)として、堅磐(かきわ)常磐(ときわ)に栄え行くのである。古今を一貫し、内外を隔てぬ天上地上の権威である。大本教は、『古事記』主典の哲学的研鑚(けんさん)に歩を起し、漸次(ぜんじ)本塁に突進するのである。吾人をして、出発の当初に(のぞ)みて、先ず「教育勅語」の一節を拝読せしめよ。「斯道(このみち)(じつ)我皇祖皇宗(わがこうそこうそう)遺訓(いくん)にして、子孫臣民(しそんしんみん)(とも)遵守(じゆんしゆ)すべき(ところ)(これ)古今(ここん)(つう)じて(あやま)らず、之を中外(ちうがい)に施して(もと)らず、朕爾臣民(ちんなんじしんみん)と供に拳拳服応(けんけんふくよう)して、咸其(みなそ)の徳を一にせんことを庶幾(こいねが)う」。
 (かしこ)きかも、(とうと)きかも。
   (八)
 宇宙の実在は神である。無量無辺の現象は(すなわ)ち神の意思の発作(ほつさ)である。現象は即ち実在である。故に無量無辺、時と場所との差別なく、一切の現象は即ち神の意志の表現である。発作である。(しか)して神は唯一の実在である。現象の本源に、二も無く三も無いのは当然である。『古事記』に、
独神成坐而(すになりまして)隠身也(すみきりなり)
とあるのは、(もつぱ)如上(じよじよう)の意義を(あら)わしたものである。「()神」は実在の唯一無二なるを示し、「隠身也(すみさりなり)」とは現象の本源根底神(こんていしん)なることを示された語である。
 以上の神に関する解説は、仏教でも、基督(きりすと)教でも、乃至(ないし)現代の哲学でも、()ぼ同じような事を()うのであって、日本特有の説と見ることは出来ない。乍併(しかしながら)『古事記』の「独神隠身(どくしんいんしん)」は、
天地(かみよ)初発(なりた)つ時に、高天原(たかあまはら)に成る神名(かみな)は、天の御中主神(みなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。此の三柱の神は、並独(みなす)神に成り()して隠身(すみきり)たもうなり」
 とあって、独神(どくしん)の上に並独神(みなどくしん)となるのである。高御産巣日神は神漏岐系の祖神にして、天御中主神の精神(せいしん)系である。(しか)して神産巣日神(かみむすびのかみ)神漏美(かむろみ)系の祖神にして、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)物質(ぶつしつ)系である。精神と物質とは天御中主神の両面である。此三柱は並独神成坐(みなすになりま)すので、唯一の実在にますなる天御中主神の御内証(ごないしよう)が、(たちま)ち分れて精神、物質の二系統を()すことを示された事に、深く注目せなければならぬ点である。されど(この)点も、日本特有の説と見ることは出来ないのである。(すなわ)真言(しんごん)密教は胎蔵(たいぞう)金剛(こんごう)の二大界を説いて居る。『法華経』は釈迦(しやか)多宝(たはう)並座(へいざ)を説いて居る。実在に二大系統の含蔵(がんぞう)されることは、(すぐ)れた宗教の哲学的方面の常に説く所である。けれども(さら)に一歩を進めて、「何故に実在に二大系統が生れたのか。一体実在の本質というものは何であるか」というような所まで尋及(じんきゆう)して行く時は、所謂(いわゆる)果分不可説(かぶんふかぜつ)」という宗教哲学の熟語となって、(いわ)く「不可称(ふかしよう)」、曰く「不可思議(ふかしぎ)」、曰く「廃詮談止(はいせんだんし)言亡慮絶(げんぼうりよぜつ)」という事になって(しま)うのである。独り真言密教のみは「果分可説(かぶんかせつ)」と説破し、「阿字本不生(あじほんふしよう)」「阿字大日(あじだいにち)」という根本説を提供するのである。神がコトバであるという説は、埃及(えじぷと)の神話にもあり、『新約全書・約翰伝(よはねでん)』首章にも、
太初(はじめ)にコトバあり。コトバは(かみ)(とも)にあり。コトバは(すなわ)(かみ)なり。このコトバは太初(はじめ)(かみ)(とも)(あり)き。万物(ばんぶつ)これに(より)(つく)らる。(つく)られたる(もの)に、一として(これ)()らで(つく)られしは()し。(これ)(いのち)あり。此生(このいのち)(ひと)(ひかり)なり。(ひかり)(くらき)()り、(くらき)(これ)(さと)らざりき」
という事も謂って居る。
 コトバの真意義は(すこぶ)る高遠である。(ここ)に詳細の説明を要するけれど、余り長くなるから省略して、阿字(あじ)の立脚よりする神の本体論を追及して行くことに致そう。神はコトバである。コトバは神の意思である。日本に(おい)ては、神の御名に何々の(みこと)(尊)とあるのは、「御言(みこと)」の義である。コトバは霊であるという見地からして、日本には言霊(ことたま)という語が(むかし)から存在して居るのである。『万葉集』に、
神代(かみよ)より云伝(いひつ)げけらく。そらみつやまとのくには、すめ(かみ)のいつくしき(くに)言霊(ことたま)のさきはふ(くに)(かた)りつぎ、伊比(いひ)つがひけり。(いま)の世の人もことごと、眼の前に、云々(うんぬん)
 という歌があり、「言霊(ことたま)の助くる国」、「言霊の()き居る国」等の語も伝えられて居るのである。吾々(われわれ)が古典を正解したのも、(もつぱ)らこの言霊(ことたま)の力に()って其蘊奥(そのうんのう)(うかが)い得た次第である。現今の哲学は、「現象(そく)実在」と説き、ベルグソンは「実在は流転(るてん)す」なぞ()って居るけれども、流転には発動の目的が無い、発作(ほつさ)に必然の根本律が無い。実在は(いたずら)に流転に終るものであろうか。科学者は宇宙の創造説として、星霧(せいむ)説を唱導して居る。星霧が何等の源因に基いて、回転を始めたものであろう。偶然の回転が秩序ある宇宙の現象を(どう)して形成したのだろう。哲学者も科学者も、宇宙の根本律に対しては、(くちばし)()るる資格は無いのである。神の意思はコトバ(言霊(ことたま))の法則に基き、語法に(より)て発動し給う所以(ゆえん)秘奥(ひおう)の義は、彼等の(ごう)も知る所でないのである。『約翰伝(よはねでん)』首章も、「神はコトバである」とまで()ったが、其コトバが()う発作して、万有が現出したかを()くことは出来なかった。真言密教はコトバの発作を詳細に解説したけれども、彼には大なる欠点が存在して居て、全く空虚な議論に(おわ)ってしまった。(ただ)日本国の皇典のみ、天上天下に独尊な解説を与え、()きた事実を永遠に伝うる権威となったのである。実に日本の言霊(ことたま)ほど霊妙なものは、他に対比すべきを見出さ無いのである。
   (九)
『古事記』の本文をもう一度(かか)げる。
天地初発之時(あめつちなりたつとき)()高天原成神名(たかあまはらになるかみなは)天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)訓高下天云阿麻、下效之。」
 古来の説明では、「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)高天原(たかあまはら)という霊地へ降臨遊ばされ」たとか、「鎮坐(しずまり)ました」とか()くのだが、(おおい)なる誤である。「高天原(たかあまはら)」とは天の事でも無い、土地の名でも無い。「成神名(なるかみな)」とある「()る」という事も、「降臨」とか「鎮坐」とかいう事でも無い。「()ります」は(まさ)に「()りますしの語である。伊邪那岐神(いざなぎのかみ)黄泉行(よみのくに)の段に、「八雷神成居(やぞさのいかずちがみなりい)る」とあるは、矢張(やはり)()()る」の義である。天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が「タカアマハラ」と()(いで)ました意義である。神は「コトバ」である。「タカアマハラ」と天御中主神が、「天地初発之語(あめつちなりたつときのご)」として()りましたのである。高天原(たかあまはら)を、古訓に「タカマノハラ」(タカマガハラ)と()んで居るのは、これは誤りである。「(たか)(した)(てん)()んで阿麻(あま)という」と、註に立派に(かか)げてあるではないか。正しく「タカアマハラ」と()むべきである。「タカアマハラ」は、天御中主神の根本発動である。宇宙の始元は、この「タカアマハラ」の六(せい)に基くのである。
 「タカアマハラ」六(せい)言霊(ことたま)は、何事を意味して居るであろうか。専門的の解説を避けて通俗に(これ)を解釈すれば、「タカアマハラ」の内部には四つの重大なる意義が含まれて居るのである。(すなは)()の四つとは、
「タカア」「タアマ」「カアマ」「ハラ」、これである。
「タカア」とは光明八紘(はつこう)に照り輝くという義である。「光明遍照(こうみようへんじよう)」という語が当るのである。
「テッカリ」「テカテカ」等同語原の語である。
「タアマ」とは「円満具足(えんまんぐそく)」の義である。()摂取不捨(ゼつしゆふしや)」とか、「至愛至護(しあいしご)」とかいうような意義の語である。「カアマ」とは、「信賞必罰(しんしようひつばつ)」という義、「金剛不動」という義等を含む語である。
 仏教の発源地として、(その)当時、世界思想の華麗を極めた天竺(てんじく)の末路は何たる悲惨であろう。儒教を始め幾多(いくた)の大思想を発源して、知識徳教の中華と誇った支那(しな)の現代は、何たる有様であろう。()()れ、西洋各国から基督(きりすと)教を控除(こうじよ)したならば、彼等の国柄は野獣の群と(えら)む所は無くなるだろう。今やその徴候がほの見ゆるではないか。
 (しか)るに肇国以(ちようこく)来幾千年間、其の間に外来の強烈なる華麗なる幾多異様の思想を迎え()れ、変遷に変遷を重ね来ながらも、其根本思想、立国の精神、国体の大本(たいほん)が、厳乎(げんこ)として(ごう)も犯さるる処なく、厳然として存在する大日本帝国の真道が、如何に尊きものであるか。彼等と相比(あいひ)して霄壌月鼈(しようじようげつべつ)(ただ)ならぬ有様である。
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)は万有統理の大君神(たいくんしん)として高天原(たかあまはら)の主体と()り給える事は、前に説く所である。『日本書紀』には、
(すで)にして伊邪諾尊(いざなぎのみこと)伊邪冊尊(いざなみのみこと)、共に(はか)りて(のたま)わく、『吾已(われすで)大八洲国(おおやしまぐに)及び山川草木(やまかわくさき)を生めり。(いかん)天下(あめのした)の主たる者を生まざらんや』。是に、共に日の神を生み大日め[レイ]貴(おおひるめむち)と号す。此の子光華明彩(ひかりうるわしく)六合(くに)の内に照り(とう)る。(かれ)二神(にしん)喜びて(のたま)わく、『吾息多(あがこさわ)ありと(いえど)も、未だ若此霊異(かくれいい)児有(こあ)らず。久しく此の国に留むべからず。()ずから(まさ)に早く(あめ)に送り、授くるに天上(てんじよう)(こと)(もつ)てすべし』」
 とある。「カアマ」を標榜(ひようぼう)して高天原統治に当り給うが故に、「此子光華明彩(このここうかめいさい)」の語はあるのである。天照大御神の御名もあらせらるるのである。皇孫に地上統理の大権を授け給うにも、先ず鏡を()り給いて、
「即ち(みことのり)して曰く、『吾が児、此の宝鏡を視ること、(まさあ)猶吾(なおあれ)を視るごとくなる。(とも)(ゆか)を同じくし、殿(おおとの)(ひとつ)にし、(もつ)斎鏡(いわいのかがみ)()すべし』」
 の御詔詞(ごしようし)もあったのである。須佐之男命(すさのおのみこと)の無礼を怒り給いて、天岩戸(あめのいわと)に隠れます際は、「天地闇黒となりて万妖悉(ばんようことごと)く発す」とあるは、「タカマ」の経綸が()ぶれて、光華の発動が停止し、(かえつ)て闇黒の方面が跳梁(ちようりよう)する次第を示させ給うのである。
 天照大御神は光華(たかあ)の神である。
 天照大御神は至愛(たあま)の神である。
 天照大御神は真理(たあま)の神である。
 天照大御神は、真智(たあま)の神である。
 (すなわ)ち、「たかあまはら」統理の御主体に()しますのである。祈年祭(さねんさい)祝詞(のりと)に曰く、
辞別(ことわ)きて、伊勢に()す天照大御神の大前に(まお)さく。皇神(すめかみ)の見()るかします四方(よも)(くに)は、天の壁立(かきた)つ極み、国の退()()つ限り、青雲の(たなび)く極み、白雲の()坐向伏(いむかぶ)す限り、青海(あおみ)の原は棹柁干(さおかじほ)さず、舟の()(いた)(とど)まる極み、大海原(おおみのはら)に舟()ちつづけて、(くが)より()く道は、()緒縛(おゆ)い堅めて、磐根木根履(いわねきねふ)みさくみて、(こま)の爪の至り留まる限り、長道間(ながじひま)なく(たち)つづけて、()き国は広く、(さが)しき国は平らけく、遠き国は八十綱(やそつな)打ち掛けて引き()する事の如く、皇大御神(すめおおみかみ)の寄さし(まつ)らば、云々」
 とあるのは、即ち至愛至慈(しあいしじ)の「タアマ」界の御神徳であらせらるるのである。この御神徳は(もつぱ)諾冊(なぎなみ)いろはの二尊より受けさせ給うたことは勿論である。『古事記』に曰く、
「此の時伊邪那岐命(いざなぎのみこと)(おおい)歓喜(よろこび)まして、『吾は(みこ)を生み生みて生みの終わりに、()はしらの貴子(うずのみこ)を得たり』と()りたまいて、(すなわ)()御頸珠(みくびたま)(たま)()母由良(もゆら)に取りゆらかして、天照大御神(あまてらずおねみかみ)に賜いて()りたまわく、『()(みこと)高天原(たかあまはら)を知らせ』と事依(ことよ)さし(たま)う。(かれ)()御頸珠(みくびたま)の名を御倉板挙(みくらだな)の神と()う、云々(うんぬん)
 と。今(ここ)御倉板挙神(みくらだなのかみ)と申すは、父神の御頸(みくび)(たま)御名(みな)である。「タナ」は天文の義、又は暦数の義を()すのである。「タナハタ」は天体運行の機織(はたおり)の義である。「タナバタヒメ」てう女神之御名(めがみのみな)は、天文暦数を(つかさど)る女神の意義である。「ミクラ」とは三座(みくら)の義である。「ミクラタナ」は即ち三座(みくら)の天文暦数の義である。恒天暦(こうてんれき)、太陽暦、太陰暦の三大暦儀(れきぎ)こそ、全くこれが「みくらたな(がみ)」である。広池千九郎(ひろいけちくろう)氏が『伊勢神宮誌』を著述した中に、「みくらたな(かみ)」を「棚上奉祀(たなうえほうし)(はじ)め」として居るのは、彼の無学を証明して居るのである。現代の古典学者、神学者の無学なる事は、実に(あわれ)むべき程である。彼等は「伊勢神宮」を著述する資格のある者ではない。
   (十)
 宇宙乾坤(けんこん)の間に存在して()る一切の天体は、「ミクラタナ」の玉の()に一貫された、一(れん)御頸珠(おんくびだま)である。天に輝く星宿(せいしゆく)は、皆(ことごと)く御くび珠の御緒(おんお)に貫かるる顆々(かか)美玉(びぎよく)である。万有(ばんゆう)は一として此御緒(おんお)に貫かれないものはない。此御緒を脱しては、(その)存在を保つことは出来()ないのである。無量の美玉は脈々綿々として一聯の条索(じようさく)に貫かれて、連鎖(れんさ)の美麗なる大頸飾(だいけいしよく)()して居るのである。この大頸飾が、いかに四維上下(いじようげ)(こう)に広がって居るかを想像し玉え。(しか)して(その)聯珠(れんじゆ)が、いかに美麗なる荘厳状態を呈するかを想像し玉え。()()つ其の聯珠緒(れんじゆお)の複雑無量なることに驚き、聯珠線(れんじゆせん)の金剛力なる事に驚き、(さら)に更に複雑無量の美玉(びぎよく)が一聯の統理に総攬(そうらん)されて、撥々(はつはつ)として活動して居る事に(おおい)に驚きの(まなこ)見披(みひら)き玉え。天上天下(かく)の如きの絶大絶美の現象があろうか。この一聯絶美の玉の御名は、天照大御神に伝わりまして、常に御頸(おんくび)()けさせ給う「五百津御須統珠(いほつみすまるのたま)」と申すが、これなのである。万有一(れん)の本義、万姓(ばんせい)一元の根源を示させ給う五百津御須麻流(いほつみすまる)(たま)は、皇孫を地上統理の任に()かしめ給える時にも、必然に御授(おんさず)けありし大神宝であったのである。
 形態の上から()えば玉の(そう)である。発作(ほつさ)の活動から謂えば「タカア」である、鏡である。(その)活動の内容に行わるるは真理である、「カアマ」である。「タカアマハラ」の統治は、この三大権に帰するのである。
 地球上面(じようめん)の人類を始め一切の万物は、大日本国天皇の神祖(しんそ)より賜う所の五百津御須麻流(いほつみすまる)の珠の中に連鎖されて、先天的に統理されて居る次第である。天下何物か、皇孫統治の(らち)(いつ)することが出来()ようぞ。金剛力の御頸(おんくび)の珠の緒が一貫総攬(そうらん)して居る事に気のつかないものは、実に可憐(あわれ)なものである、無知なものである。(ある)意味に(おい)ては、不知恩(ふちおん)のものである、罪悪の部類に入るべきものである。
 万有万類は皆(ことごと)五百津御須麻流(いほつみすまる)の珠の緒の発動に基いて、発現して居ないものは無いのである。生命を「(たま)()」というは、生命魂線(こんせん)脈絡(みやくらく)を意味する語より()でたものである。『古事記』に、天照大御神と速須佐之男命(はやすさのおのみこと)との、「天之真名井(あめのまない)宇気比(うけひ)」と申すは、万有、万類、万神の御出生を営み玉う大神事である。
奴那登母母由良(ぬなとももゆら)に、(あめ)真名井(まない)()(すす)ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹(いぶき)狭霧(さぎり)に成る神、云々(うんぬん)
 とある。「奴那登母母由良(ぬなとももゆら)」は「玉音隆朗(ぎよくおんりゆうろう)」の義である。玉音隆朗の(ひびき)()って、万神万有は発生するのである。古典の(くわ)しい説明を省略して、()(かく)も、万有の統攬(とうらん)が「五百津御須麻流(いほつみすまる)」に()る事は、何人も否定することは出来()なかろう。基督(きりすと)教でもこの意味の事は()わんでない。仏教でもこの意味の事は謂わんでない。けれども()の天国統治の神律(しんりつ)が、地上統治に移写(いしや)されて、天上地上の一致の経綸(けいりん)()()めに、大日本国の皇位なるものがあるという一点に到ると、仏耶(ぶつや)の二教は即ち共明(そのめい)を失って、空論を固着する為めに、此の真実を受け容るるの資格を失って(しま)うのである。実に致方(いたしかた)のない次第である。
   (十一)
 祭(マツリ)(マツル)という語は、「真釣(まつ)り」「真釣(まつ)る」の義である。「真釣(まつ)る」とは、度衡(どこう)の両端か、あいに重量を懸けて平衡さする意義である。天上の儀と地上の儀とを相一致せしむるの作法が「マツル」(祭祀(さいし))である、「マツリゴト」(政道)である。祭祀政道(さいしせいどう)の大義は、これ以外に決してあるべきでは無い。『古語拾遺(こごしゆうい)』に(いわ)く、
(よろ)しく太玉命(ふとだまのみこと)諸部神(しよぶしん)(ひき)いて其職(そのしよく)供奉(ぐぶ)し、天上の儀の如くすべし、云々(うんぬん)
 とあり。天上の儀を地上に「真釣(まつ)る」のが祭祀である、政道である。現代は祭祀も政道も全くその根本を失って、一片の形式に流れ、権謀を(もつ)て政道の本義とさえ思うように至ったことは、(なん)たる(だい)なる誤であろう。「(くつ)(かんむり)()した」というも同様である。故に、世界は日に険悪に赴いて、人類の苦痛は益々(ますます)甚だしきを加え行く有様である。これは(ひとえ)に祭祀政道が根本を失って、天上の儀が地上に(ほとん)ど跡を絶つに至ったより起った現象である。斯様(かよう)な根本主義に着目せずして、世界平和だとか、政治の革新、社会改良といった所で何等の效果あるべきぞ。全く以て徒労に(おわ)るべきは、火を()るよりも明らかである。惟神(いしん)(カミナガラ)の道というのは、天上地上の祭祀政道の、正しく行わるる有様をいうのである。神の示させ給うまにまに行い往くのが、惟神の道である。惟神の道は祭祀政道の根本義である。現代の如き形式的祭祀、権謀術数的政道は、決して惟神の道でない。天下は、()愈々(いよいよ)益々(ますます)乱れ往きて、殆ど底止(ていし)する所を知らないまでにも成り行く(ばか)りである。
   (十二)
 今や大本教の唱道は、(これ)を一日も(ゆるがせ)にすべからざる場合に立ち到ったのである。(おぼる)る者は草の葉にも(すが)るとかや。(いわん)や主師親の三大力徳(だいりきとく)を具備する所の(じつ)に帰らしむるに(おい)ておや。
五百津御須麻流之珠(いほつみすまるのたま)」は、万有を一貫して(これ)を愛護撫育し給う神宝なる事は、前章説く所の(ごとく)である。天照大御神の御頸珠(おんくびたま)御緒(おんお)に貫れないものは無いのである。この御珠の尊厳なることを縷述(るじゆつ)すれば、悠に大部の著述を()すに()る程である。天地は「五百津御須麻流(いほつみすまる)」の玉音隆朗(ぎよくおんりゆうろう)たる大音楽である。大御神楽界である。仏教に一念三千の如意宝(によいほう)(しゆ)」というのがある。「一念三千」とは『摩訶(まか)止観(しかん)』第五に()う、
(それ)(しん)に十法界(ほうかい)()す。一法界(ほうかい)(また)法界(ほうかい)を具すれば、百法界(ほうかい)なり。一(かい)に三十(しゆ)世間(せけん)を具すれば、百法界(ほうかい)(すなわ)ち三千(しゆ)世間(せけん)を具す。(この)三千、一(ねん)(こころ)にあり。(もし)心なくんば()みなん。介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す。乃至、所以(ゆえ)に称して不可思議境となす。意此(こころここ)にあり。」等と云々(うんぬん)、とあるのは、「五百津御須麻流(いほつみすまる)」の御境界を伝えたものである。之を具体的に現わしたものが、本尊万陀羅(ぞんまんだら)である。
 日蓮の大万陀羅(だいまんだら)を解くや、
(その)本尊の為体(ていたらく)、本師の裟婆の上に宝塔(くう)()し、塔中(たつちゆう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏、多宝仏、釈尊の脇士(きようじ)は上行等の四菩薩なり。文殊、弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化(しやくけ)他方(たほう)の大小の諸の菩薩は、万民の大地に処して、雲閣月卿(げつけい)を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処す。迹仏、迹土を表わすが故也。云々」と。
妙法蓮華経(みようほうれんげきよう)」は、梵語(ぼんご)に「サダルマ、フンダリキヤ、ソタラン」という。これは「タカアマハラのコトバ」という語の転訛(てんか)である。釈迦、多宝(たほう)の二仏併座(へいざ)は、我が高天原の、
神漏岐命(かむろぎのみこと)(神漏岐系)神漏美命(かむろみのみこと)(神漏美系)
を伝えたものであって、「宝塔品(ほうとうぼん)」の三変土田(べんどでん)とは、大八州(おおやしま)国産(くにう)みの本義を伝えたものである、神漏岐(かむろぎ)系は精神系統であって、神漏美(かむろみ)系は物質系統である。()(れい)の義、()()の義である。
 真言宗には金剛界(こんごうかい)胎蔵界(たいぞうかい)の二大万陀羅を建てるのだが、これ亦神漏岐、神漏美二系の系譜であり、御神慮を伝えたものである。弘法大師(こうぼうだいし)の唱導した本地垂迹(ほんじすいじゃく)の説は、主客本末(しゆかくほんまつ)を誤ったものであって、空海(くうかい)の無知は去ることながら、和光同塵(わこうどうじん)(しか)らしむる所として、大日本国教(こくきよう)宥容(ゆうよう)するのである。
   (十三)
 真言宗の「曷磨義(かつまぎ)」は、(まさ)に「カアマ」の義である。曷磨金剛杵(かつまこんごうしよ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)の本義を訛伝(かでん)したものである。真言の種の(しよ)は、大日本神典に示す所の(ほこ)である、(つるぎ)である。真言宗は大日本国の高天原(たかあまはら)から出でた教義の末である。大乗非仏説(だいじようひぶつせつ)は学者の論議の八釜(やかま)しい問題であるが、非仏説の勝利に帰すべきであろう。()しや仏説なりと見た所で、その「仏」の解釈が印度出来(いんどでき)釈迦牟尼(しやかむに)という意義にはなるまい。木村鷹太郎氏の『日本太古史』は、釈迦牟尼(しやかむに)忍穂耳尊(おしほみみのみこと)を伝えますと考証して居るが、『法華経』の釈迦牟尼の如きは、虚空会上(こくうえじよう)()ける神変不可思議(しんぺんふかしぎ)説相(せつそう)である。こは(あきらか)大八洲(おおやしま)伝説法(でんせつぼう)を伝えたもので、高天原(たかあまはら)教の説示である。『法華経』も『大日経』も、皆(ことごと)()の本源は高天原(たかあまはら)教に()でたことは明白である。其の証拠には、(いず)れの経を見ても、(あるい)は「タカア」の義を説くに()らざれば「タアマ」の義を説くもの、(しか)らずば「カアマ」の義、「ハラ」の義を説く以外に、決して他に()ずること無きに見ても知らるるのである。「ハラ」は「フラ」、「フラクラワア」、「フア」、「クワ(華)」、「ケ」である。また「ハナ」である。因果(いんが)(たい)即疾頓生(そくしつとんしよう)を説く波羅密(はらみつ)である。「花」の王は十六菊である。印度(いんど)に移して蓮華(れんげ)がある。蓮華は大日本の鏡の(そう)である、(たま)(そう)である。「五百津御須麻流(いほつみすまる)」の摂取不捨の金剛力は、『法華経』には蓮華の即身成仏である。阿弥陀の四十八願も、要するに「御統玉(みすまるのたま)」の御神徳を伝えたに(ほか)ならぬ。本居翁(もとおりおう)の狂歌に、
 三(ぞん)弥陀(みだ)は二番叟(ばんそう)じや三番叟(ばそう)じや (たの)衆生(しゆじよう)(ほか)へはやらじ
というのがある。三番叟(さんばそう)の舞は、「タータータラリ」の万有出世の義相を舞うのである。高天原の修理固成を本義とする岐美(きみ)二神の行事を移した物である。十万億仏土(ぶつど)阿弥陀(あみだ)を求むるのは愚の至りである。真宗本願の義は、(すみやか)高天原(たかあまはら)の本来に立ち(かえ)りて、(その)領土領民とを、(ことごと)く大日本国教に奉還すべきである。真言、法華の教義は、(すこぶ)る根本的であって、深遠であるけれども、()の伝統継承に事実的の立証がない。天上、地上の「真釣(まつ)りしの義が、千古万古(せんこばんこ)に伝えらるる事実の権威が無い。
 理は等しゆうすと(いえ)ども、(こと)(おのず)から本末の差がある、正傍(せいぼう)の厳格なる差別がある。
   (十四)
神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の無始本来の当時より、一系綿々たる君臣、上下の差別がある。宇内(うだい)の君権は、決して何者の野望をも決して許さないのである。高天原(たかあまはら)の教権は唯我(ゆいが)(にん)相承(そうしよう)である。大日本皇帝以外に、何ものも教権の権威を保つべきものは無いのである。
 基督(きりすと)は神の子であるという事は、一切の衆生は(ことごと)く神の子であるという義であろう。基督(きりすと)(にん)のみ神の子であるという義ではなかろう。「今此三界皆我有(いまこのさんかいみなわがゆう)其中衆生悉皆吾子(そのうちのしゆじようことごとくみなわがこ)」という釈迦の言は、一切衆生(さいしゆじよう)が神に出でたることを()うたものであろう。一切衆生は神より出で、一切衆生は神の子である。この義は仏耶(ぶつや)両教の等しく認むる所である。神は一面に平等の愛である。同時にまた他面には差別の威力である。差別は本末を分かち、正邪を分ち、治者(ちしや)被治者(ひちしや)とを分ち、「カアマ」尊厳の信賞必罰である。「カアマ」尊厳の発動は、金剛の威力であって、何物も毫末微塵其(ごうまつみじんその)威力を(おか)すことは出来ない。「カアマ」金剛座は血脈(けつみやく)伝統の儀相(ぎそう)である。万有、万姓、万類は悉く血脈の伝統を得て皆夫夫(それぞれ)に発生し、生育し、活動するのである。微塵(みじん)の末と(いえど)も、伝統系脈のないものは無い。(いわん)や万物の霊長たる人間の上に(おい)ておや。高天原(たかあまはら)は血脈伝統の大系統界である。複雑無限の発作発動(ほつさはつどう)も、一つとして伝統継述の意義を脱するものはない。(これ)を平等観の上より見れば、一味平等の神事である。仏教や耶蘇(やそ)の中には、悪平等観に陥る場合がある。平等は差別を(まつ)て意義を有するのである。(しか)して()の差別は血脈本来の根本から、天爾(てんじ)に発生する所の約束である、分限(ぶんげん)である、神約である。この神誓神約を犯すことが、根本の罪悪である。
   (十五)
 基督(きりすと)(いわ)く、「我は神の独子(ひとりご)である」と。仏教は曰く、「我に直示(じきし)の伝統あり」と。()()う所は、高天原(たかあまはら)血脈の総攬者(そうらんしや)(もつ)て任じ、()の継承の正系なることを(もつ)て誇るけれども、彼は純友(すみとも)である。此は将門(まさかど)である。彼等(かれら)正系嫡伝(せいけいちやくでん)を立証するに、何等の具象的事実的の事柄を以て()す考えであろうか。十万億土に極楽の消息ありや。大日は(もと)法身(ほうしん)にして、法華本門の本縁は、印度(いんど)()らずして(かえつ)て日本国なり。基督(きりすと)の教義は(いま)だ血脈承継に()いて些細(ささい)研鑚(けんさん)にだも至らず、万陀羅(まんだら)所立(しよりつ)なく、本尊の為体(いたい)(おい)て茫漠たるのみ。哲学者は実在の発作に大系統あるを知らず。現象の錯誤を見て、根本の系脈を知らず。未だ以て本義を論ずるに足らぬものである。宇内(うだい)伝統の事実的立証を示すに足らない教義は、皆悉く正嫡(せいちやく)の名を保つことは出来ない。各宗各派の祖師等が、伝承継述の上に苦心を重ねたことは、決して門外漢の知る所ではないのである。理証(りしよう)は何程もこれを為すの術があろう。けれども事証(じしよう)は決して容易の(ぎよう)でない。系譜を捏造(ねつぞう)して、天下を横領せんとした(いにしえ)の英雄等の苦心は、何程であったろう。一時を幻惑して子孫に栄華を誇らしめ得たとても、それが決して永遠に継続するものでは無い。天運の神律(しんりつ)に通じて乱れないのである。正は正に復し、邪は邪に(ほろ)ぶ。未だ(かつ)天壌無窮(てんじようむきゆう)に、其の邪を貫徹し()くものを見ることが出来ない。
 (ここ)に「天壌無窮(てんじようむきゆう)」に、「万世一系」に、天上地上の「真釣(まつ)り」の本義を行わせ給うべき、天爾(てんじ)本然の血脈承継の国があるとしたならば、一切の万生は、皆悉く天来の大儀相の、目の当り拝せらるる心地(ここち)して、大能(だいのう)の神力の偶然でない事を、深く深く讃嘆せなければならぬ次第ではないか。(もし)()の国が、本来の承継を伝えたりや否やを疑うならば、皇位の伝承に、「タカア」「タカマ」「カアマ」の伝ありや詮鑿(せんさく)せよ。(しか)して其の承継伝統の事実が、国史の上に如何に発展し(きた)れるかを更に調べよ。
 (もろもろ)の宗教哲学が、()し理証に(とどま)って、事証の承継を「徒事(とじ)なり」と()わば、彼等は(すみやか)に討伐すべきである。()し彼等が、「事証の伝統我に在り」と誇らば、「カアマ」の剣を以て(これ)(ただ)せ。血脈伝統の意義の無限の尊厳なること、(しか)して従来の信教が伝統の正系に触れざる事を自覚するものは、(すみやか)(その)誤を許して、忠実なる国民の中に(これ)を入れよ。
(「神霊界」大正七年三月一日号、四月十五日号、五月一日号)
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