霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第十六章 宗教は酒の如し

インフォメーション
題名:第16章 宗教は酒の如し 著者:出口王仁三郎
ページ:499 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B121802c183
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『神の国』昭和6年5月
 世の中で「(まこと)」という事が随分取り違いされている。或日黒住さんが高台に登って「誠程人の宝はなきものを誠を知らぬ人のあはれさ」──こういう歌を詠んだ。所が黒住教の或信者が、「間男(まおとこ)程人の宝はなきものを間男知らぬ人のあはれさ」だと思って、一生懸命に間男をしたという話がある。
 今日の坊主が尼と色々な事をしたり、或は女郎買いに行ったりする事は、これは人間として誠である。これが本当の誠である。これを隠して聖人ぶって居るのが偽りである。男は女が嫌いというのも嘘である。男は女が好きなのが誠である。そして又女が男を嫌いというのも嘘である。女が男を好くというのが、これが誠である。それを今日の人は、あの人は誠やとか、聖人とか、君子とか、女を見てもビリッともしないとか、男を嫌ても後家(ごけ)を立てて居るというけれども、それは腹の底にはいって見ると違う。矢張り男は女が好き、女は男が好きである。それが誠である。それで善の中にも、真の善と仮の善と偽りの善とがある。
 この真の善というものは、今日の法律やなんかで云うて居るのとは、合う事と合わん事とがある。それで法律で善というのは仮の善である。吾々が国民として生活する上に於て、お互いに申し合わせの規約を拵えて居る。お互いに犯さない様に……その法律に(そむ)かなかったならば善かと云えば、決してそうではない。法律というものは最低の程度の道徳を基本として拵えたものであって、最高の程度の道徳ではないのである。それで法律に背かなかったから、神の良民であるとも、またこれは誠の者であるという事も出来ない。
 それから宣伝使の中にも、いろいろ千言万語を費やして名論・卓説を吐く人が沢山あるが、然しその行ないという事──実地に活動せないならば、これは偽りになる。黙って居ても、活動して神の道を伝える事が出来る。それで「沈黙は雄弁に優る」という言葉もあって、沈黙して、そして行ないをもって見せて行くのが一番に宣伝の効果が挙がる。本当に誠が通って行くのである。まだ大本は宗教的行為も混って居るけれども、既成宗教の様な宗教とは考えてはいないのである。
 総てこの宗教というものは酒の様なものである。「宗教は阿片なり」と言うた人もあるけれども、これは宗教の形体をそなえて、実際の宗教でないものに指した言葉であろうと思う。本当の宗教は酒の様なものである。酒の嫌いな人はこれを見ても嫌いなのである。又好きな人は無茶苦茶に好きである。酒を飲んでも各自(めいめい)に味が違うのである。飲んで喜んで笑う人と、怒る人と泣く人と、それから乱暴する人がある。人と喧嘩して、警察の厄介にならねばならぬ人も出来て来る。同じ一つの酒であっても、その人々によって皆その結果が違うて来る如く、同じ大本の道でもその人によって、お筆先にある通り「()(たま)の因縁だけよりとれない」ものである。身魂相応よりとれんのであるから、一般の人に向かって、「こういう教えである」「こういうものだ」というて大本を説いた所で、判らぬ人もある。判った人もある。
 それで「大本というものは一体どういうものであるか、どういう真理があるか」と尋ねられた所が、これは説く事が出来ない。
 例えて云えば、「牡丹餅はどんな味がするか、それを説明せよ」というのと同じ事である。喰ベて見ねば判らぬ。甘ければうまいというより外はない。それと同じ様に、大本はいい教えであるというより外に道はない。牡丹餅も喰うて見れば、七っ八つ位喰う人もある。一つで嫌になる人もある。それで人間の言葉で説明が出来る様な教えであったならば、真の宗教ではないのである。神の教えというもは、とくにとかれず、ゆうにゆわれず、禿頭の様なものである。
 それから御筆先に「神が表に現われたら一切の事を曝露する」と書いてある。面の皮をひんむいて了う、そして改心させるとある。そして尖端を行くのである。私は昔からの古疵(ふるきず)を「真如の光」誌上に曝露して、曝露戦術をやっている。世の中は曝露戦術をこの頃始めて居るけれども、私は早くからやっている。世の中より先んじてやっている。それで、どんな人も私の「真如の光」を読んだならば、何処か心に当たって居る所があろう。心に当たらなかったならば、これは生きて居る人ではない。
 総ての人特に宣伝使というものは、「自分はこんな事をして居ったから恥ずかしい」とか、「こんな事は云われぬ」という様な、隠す様な気があったならば本当に人を導く事が出来ない。私はそう考えて居る。それで私は一般に、一生懸命に大本を信じて来ている人に私の古疵を発表している。外にも世間の人に、外国に迄行く雑誌にも載せている。中にはこんな先生なら信仰は止めて了うという人もあるかも知れぬ。その人は偽善者である。そういう偽善者は大本に寄って貰わんでもいいのである。誰でも考えて見たならば、肉体があれば皆そうである。それが為に率先してやっている。誰にもそういう考えをもって自分から曝露せねばいけない。昔は人間は神の分霊であり、所謂(いわゆる)神様の断片であるから、自分の悪い所を人の前に曝露するのは神を恥ずかしめる事であると云ったが、今日は──神は時宜(じぎ)によるのであるーこの頃には当て(はま)っていない。世間で曝露戦術をやっているから、こちらからもやるべきである。
 それは永遠ではないが、こういう時期が来ているのである。
 反宗教運動がこの頃起こって来ているのも、お筆先をよく調べて見ると、「神が表に現れるに就ては今迄の教会、取次はつらくなるぞよ。すつくり面の皮をひんむいて(しま)ふ」と書いてある。それで反宗教運動は、今迄の黴菌(ばいきん)の様な不徹底な、地獄極楽を拵えて命脈を保っている様な宗教にはいい薬である。
 これは一つには神意の存する所であると思う。ついては大本も既成宗教の様な真似はしない様にしたい。又この宇宙の真理というものは、一人や二人の人間から出た言葉で判るものではない。それで大本は開祖が率先してこの理を説かれたのである。
 時代に応じ時に応じて現われるという事は、所謂世の中を順応指導して行く事である。外の宗教は、教典教理から何か条というものを拵えて了うて、そしてそれより動きもにげる事も出来ない様になって居るが、大本の開祖の教えは、時と場合によって必要なる教えを説いて行くという事になっている。それであるから何万年続いても、万古(まんご)末代続いても、この宗教には(かび)()える気づかいはない。併し現代の宗教は何千年前の教えそのままである。冬の綿入れの様なものである。それを、帷子(かたびら)を着ねばならぬ汗の出る夏の暑い時に振り廻す様なものである。夏は夏の着物があり、冬には冬の着物がある。大本の教えはそれである。夏が来れば夏の着物を着せる。冬が来れば冬の着物を着せる様になっている教えである。だから世の中がどれ程進んで来ても、決して他の宗教の様に時代に落伍する様な事はない様になって居る。大本は時代に遅れる様な事がない様になって居るのである。
 それから人間というものは──この善と悪に就いても、いろいろと時と所と場合によって違うのである。人を殺したならば、これは屹度(きつと)罪悪である。自分も死刑にならねばならぬ。然し陛下の御命令によって軍人となって敵を倒す場合は、何百人殺そうが罪悪とはならない。罪悪どころか却って国家の殊勲者として勲章を貰える。つまり時と場合とによって現界の罪悪はきまる。これは人間の拵えたものであるからである。神から言えば、天国的の善即ち真の善というものは愛より外にないのである。
 私は蒙古に行く前には、虫を一匹踏み殺してもヒヤッとした。これは虫に対して──禽獣虫魚と雖も神の精霊の宿っているものであるから、これはすまないという気がしてヒヤッとした。が併し蒙古へ行って、東洋の為に世界の為に、これは戦争するのであるという考えを起こした時は、味方が倒れても、鶏の卵一匹踏みつぶした様な気よりしなかった。或は敵を倒しても大根を倒した様な気しかしなかった。
 これは私としては非常な変化であったけれども、時と所によって、現界に於てはこのように変わって来るのである。又今日は蒙古入り当時と違って戦っているのでないから、今日は虫一匹殺しても、ヒャッとする様に還元して来た。併し又何時悪鬼羅刹(らせつ)の様になる時期が来ないとも知れない。そういう時に「神様の道に居って、ああいう事をしたからいかん」とか「愛を説いて居っても、ああいう事をしたらいかん」というて、ごてごて云う人であったならば、とても之から先は()いて来る事が出来ない。
 大本はお筆先にある通り三千世界の改造である。只単なる死後の生活を説いたり、或は死後の生活を説いて死に対する恐怖心を慰安して、それをもって能事終われりとするものではない。実際の宗教というものは、政治・経済・法律或は文芸一切のものを包含しているものである。然るに今日の宗教というものは、じめじめとした(ばば)(かか)玩具(おもちや)みたいになって了うている。こういう宗教はあっても無くてもいい。阿片ならまだ気分がようて酔うたりする事もあるけれども、阿片以上に今日の宗教は役立たぬものになって居る。
 それでこの頃反宗教運動が起こって来ているのも、お筆先から考えて見ると、これが御神意であると思う。それで大本の宣伝使は、そこの所をよく考えて頂いて、既成宗教家の様な考えを起こさぬ様に、又は商売気を出さぬ様に──商売をする時は一生懸命に商売をすればよい。幾程(いくら)でも利益をとればよい。
 けれども神の教えを宣伝する時には、慈悲の権化(ごんげ)となって人を救わねばならぬ。そして勇猛心を振るい起こさねばならぬ。勇・親・愛・智の四つがなければいけない。
 昔権右衛門という人間と、一方はおとなしい人で仏の善兵衛という人があった。善兵衛は人を憐れみ、人の為に一生懸命に善をして非常に貧乏して苦しんでいる。一方の権右衛門は非常に働いて金を溜めて、そして慈悲も何もなかった。それで人が鬼権(おにごん)と謂うていた。これを今の人はどちらを幸福者と()なすかと云うと、鬼権の方が幸福者の様に皆思うている。然し神様の方から云うと、名位寿富の点から見れば、一方の仏の善兵衛の方は、その人は偉い人とか、真直(まつす)ぐな人やと云う様な名を、人格を貰うている。鬼権の方は、名と人格はさっぱり(ぜろ)になっているかわりに富をもっている。それに命というものは善人の方が長い。
 そうすると神の方から、高い所から観ると、鬼権の方が余程不幸者(ふしわあせ)であった。そして鬼権はなんでそうなったかと云うと、勇気というものがあり、智慧というものがある。勇気と智慧を働かしてそうなっているが、ただ愛と親とが欠乏して居ったのである。これも神から観れば不具人足(かたわにんそく)である。一方の善兵衛は愛と親とは発達して居ったけれども、勇と智が欠乏して居るから、これも亦不具人足である。それで勇と智と愛と親とを程々に按配(あんばい)してやって行けば完全な人間になれる。そうすれば名も富も位も得られるのである。その為に、そうならしむべく神が日々に努力して居られるのである。
昭和六年四月二十三日、亀岡大祥殿に於けるお話
(「神の国」昭和六年五月号)

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