仏教の玉耶経には、女人の不利なる地位が詳細に並べたててあって、これを女の十悪といっている。
女子は出生してもその両親に喜ばれない。牝ンだの粕だとか、尼っちょだとか、種々の侮蔑的言葉をもって遇せられ、女子を三人もてば家の棟をおとすとか、女子と小人養いがたしだとかいって、ばかにされる。その二には、養育しても少しまにあうようになれば、身代のやせるほど荷物をこしらえて他家へやってしまい、やっかいもの扱いされる。そして女は三界無宅なぞと軽侮される。その三には、気が小さくて人を畏れる。人なかに出てどんなに立派なことを説いても、ただちに女の言として相手にされない。その四には、父母は教育と嫁入りについて始終心配がたえず、たくさんな荷物までもたせてやりながら、不調法者をよろしくといって嫁入り先の人々に頭をさげる。その村の犬にさえ遠慮するような気持ちになっておらねば、娘が憎まれるという心配から、父母は女子よりも男子の出生を喜ぶ。
その五は、恋しき父母にわかれ、なつかしい郷里を去って門火に追いだされ、いったん嫁したうえは死んでも両親の家に帰ることはならぬといいわたされ、一人も親友のないところへ追いやられる。その六は、嫁した家の舅姑や、小姑をはじめ、近所や、嫁した家の親族にまできげんをとって心配し、人の顔色ばかりみていなくては一日もつとまらぬ。その七は、妊娠の苦、出産の心配があり、一度子を産めば、容色とみにおとろえ、夫の愛にどうかすると変異を生ぜしむるうれいがある。その八は、少し娘らしくなると厳重なる父母の監視をうけ、外出さえ自由にできぬ。その九は、嫁して夫に制せられ、無理解な夫になると婢のごとくに遇する。それでも小言一ついうことはできぬ。その十は、老いては子や孫に呵責せられ、生涯自由をえないものと説いてある。
しかし今日のめざめた女は、かかる十悪の仏説に耳をかたむけるような正直な女はないから、男子たるもの骨の折れることである。
(「神の国」昭和3年12月)