古人曰う、「善願あれば天必ず之を輔く」と。瑞月は神明の儘に儘に病躯を駆つて、漸く神示の物語、原稿用紙七万五千枚約八百五十万言、頁数二万四千、約九か月の着手日数を要して、茲にいよいよ六十巻を口述編著しました。斯かる阿房多羅に長い物語を書いて、識者より冗長粗慢の文章だと失笑さるる恐れ無きには非ざれども、今日の大多数の人々は、古人に比して頭脳の活動力最も劣り、容易に深遠なる教義を真解すること能わず、且つ何事も上走りにて誤解し易く、為に三五教の真相や大精神を曲解し、終には忌わしき大本事件を喚起するに到ったのは、返す返すも遺憾の至りであります。
上根の人は一言聞いて其の真相を了解し、至仁至愛の神の大精神や大経綸を正覚すと雖も、中根・下根の人々に対しては到底高遠微妙なる文章や言語にては解し得ない而已ならず、却って神意を誤解し、大道を汚濁する虞がある。故に瑞月は現代多数の人々の為に多大の努力と日子を費やしたのであります。
現代は古と異なって何事も大仕掛けになって、更に益々大きく成らんとしつつあるが故に、非常に共の間口が広くて、奥行きが浅い人間が多く現われるのは止むを得ない。故に今後の人々に対して徹底せしめんとするには、不断の根気が何よりも大切である。たとえ百年掛かろうが、神の大御心を万人に徹底させなくては措かない決心である。
現代の人々が只の一人も自分が口述した物語を用いて呉れず、又了解して呉れなくても構わない。自分だけ只一人之を信じて、大神の大精神を幾分なりとも実行し、正しき信仰の下に人間として生きて行く考えである。現代人の中には、「斯くの如く世間の万事が悪化し獣化するのを見ては、自分一人が何程心身を正しくし神の示教を信ずる事が出来ようか」と思ったり、云つたりして居る人々の考えは余りの狼狽である。今日の社会にこう言う狼狽えた人々の多いことは如何にしても慨かわしいことである。国の滅亡する時は「一人の義人あるなし。又識者なるもの一人もある無し」という極端まで行くものだが、国に一人にても義人や真の識者のある限り、決して其の国は亡ぶるものでは無い。
神諭にも「誠の義人が三人あれば弥勒神政必ず成就すべし」と示してある。今日はお互いに最後の一人を以て任じ、せめて自分だけでも正しき信仰に生き、清き人間として、世の為道の為に尽くさんとする同じ心の人々と共に、この聖なる団体を擁護し開展し、以て斯の世界をして真善美愛の楽土と化せしめ、国祖の神慮に叶い奉らんことを希望し、あらゆる迫害に耐え、克く忍び以て斯の千載一遇の神業に奉仕せんと欲し、最後の一人となるも決して絶望せず、狼狽せず、平静に生命ある聖き希望を抱いて天下の為に竭さんとするものである。故に吾人は世の所在非難攻撃にも屈せず、山鳥の尾のしだれ尾の長々しくも撓まず屈せず、口述を続けて後世の軌範とせんことを希求しつつあるのである。
「この世を造りし神直日、心も広き大直日、唯何事も人の世は、直日に見直せ聞き直せ、身の過ちは宣り直せ」と、吾人は日夜この神示を楯として、ひしひしと押し寄せ来たる激浪怒濤を浴びながら、善言美辞の言霊の武器を以て、凡ての外道を言向和す覚悟である。何程多勢の敵と雖も驚くには及ばない。只一言の善辞、即ち言霊の善用に依りて強敵は忽ち化して強き味方となり、又多数の味方と雌も、唯一っの悪言暴語に依って直ちに怨敵となる。言霊の尤も慎む可きを明示したのは、本書『霊界物語』を通じての大眼目であります。
読者幸いに本書に依って言霊の活用を味わいたまうこともあらば、瑞月の微衷も酬われたりというべきであります。
ああ、惟神霊幸倍坐世。
(「神の国」大正十四年六月十日号)