喜三郎の青年期は、日本の社会そのものが、資本主義の渦のなかで大きく揺すぶられ、底辺の民衆たちは、いっそうの窮迫に追いこまれつつある時代であった。
こうした動向のなかで、喜三郎は、小作百姓のみじめさから、一挙にぬけ出そうとして、はげしい労働に耐え、土にまみれながら、つぎつぎに新しい仕事に手をつけた。だが、その夢とはうらはらに、新しい事業はつぎつぎに失敗し、損をしたまま途中で投げださねばならぬことが多かった。村人たちから「三日坊主」「なんでも屋」「やまこを張る」と笑われたのもこのころである。だが、つまずきながら、そしられながら、ひたぶるにねばり強く、おのが生くべき道を歩んでゆく喜三郎の夢は、はてしなくひろがっていった。
明治初年の穴太周辺は、米と麦を主要な産物とする農業地帯であった。小量の菜種・綿・葉煙草なども作っていたが、これは、農業を兼業とする油商や綿打などの手を通じて、この地方ですべて消費されていたようである。この地方から京阪その他へ売られていたのは、米と麦、とくに米であった。この地方の米の味がよいことは現在でも定評があるが、当時は、この一帯の仲買のほとんどが米雑穀の仲買であった。おそらく、穴太の米も彼らの手を通じて京阪地方に売られていたのであろう。
穴太村だけの職業構成や物産を知りうる資料は少ないが、明治一四・一五(一八八一・八二)年度の「丹波国南桑田郡第四組統計表」によると、「第四組」を構成する穴太・西条・重利・南条・犬飼・法貴・中・寺・春日部の九ヵ村は、総戸数六四六戸(うち穴太村約一五〇戸)、人口二九三三人(明治一四年現在)であった。
その職業構成は、農業六四〇戸、工業五三戸(内訳、大工八戸・火工四戸・泥工一戸・指物職二戸・桶職五戸・紺染職二戸・綿打職一四戸・黒鍬職三戸・木挽職六戸・石工二戸・屋根葺職六戸)であり、商業・製造販売業一五一戸(内訳 仲買=米雑穀商一四戸・薪炭商二戸・小売=材木商三戸・竹商一戸・呉服商二戸・豆腐商九戸・酒類受売商一〇戸・醤油商三戸・種油商三戸・製造販売その他として清酒造三戸・焼酎製造一戸・寒天製造一戸・醤油製造二戸・牛馬商一一戸・飲食店一二戸・水車稼二〇戸・菓子商一八戸・理髪床四戸・質商四戸・旅籠屋五戸・煙草製造一戸・古道具商四戸・人乗車稼一戸・中小車稼一七戸)があった。すなわち、商業・製造販売業などが一五一戸、工業が五三戸で、合計二〇四戸にのぼる。全戸数六四六戸のうち純粋の非農家はわずかに六戸であるから、全体の三分の一に近い兼業農家があったわけである。この状況は、この地方においてもまた、土地を充分に持たない中小農や小作農の間で、雑業が兼業の型で、ひろくいとなまれ、自給的な米麦中心の農業だけでは、生活が困難になっていたことを物語っている。しかし、これといって特徴のない丹波の農村では、生計にすぐ役立つような、有力な新しい職業がころがっているはずはない。喜三郎は生計のきりもりに追われながら、貧しい生活の窮状をなんとか脱けだそうとして、つぎからつぎへと雑多な新しい職業をこころみ、おのれの才能をためしていった。あれがもしうまくいっていれば大企業家になっていたろうという村の古老もある。
最初に手がけたのは米搗機であった。後年の歌に〝百姓の夜業に毎晩米を搗く脚のだるさにくるしみなやむ〟という回想があるように、喜三郎は毎晩、米搗きの夜なべをしていた。まだ、こんにちのような精米機もなく、唐臼の中に入れた米を、足ぶみの杵で打つという原始的な方法しかなかったから、足のだるさはひととおりではなかった。〝どうかして楽に米の搗ける機械発明せむと日夜焦慮す〟─三日三晩考えたすえ、前後に唐臼を据えて杵をつけ、両方で搗けるようにした「上田式米搗機」を考案したが、これもさして成果をあげえなかった。つぎには、農機具の改良をやってみたが、これも素人の思いつきにすぎなかったから、完全な失敗となった。村人からは「喜三郎らしいことをやる」といって笑われたという。
〔写真〕
○穴太村古図(1791-寛政3年ごろ)鳥居は小幡神社 p125
○丹波国南桑田郡第四組統計表(1881-明治14年) p126