一八九九(明治三二)年七月五日には、本町の中村竹蔵の家を借りて、そこを金明会の広前とし、裏町の土蔵の二階から移転した。同月一〇日(旧六月三日)遷座祭を行なったが、祭典用に注文した高張提灯ができあがってくると、これまで用いられていた九曜の紋に指定したはずの神紋が、十曜の紋になっていた。役員は当惑したが、これについて、さっそくつぎのような筆先がでた。
上田喜三郎どの大もうなお世話ようできたぞよ。そなたが綾部へまいりたのは、神の仕組がいたしてあること、九曜の紋を一つふやしたのは都合のあることざぞよ。今は言われぬ。このこと成就いたしたら、お礼に結構いたさすぞよ。この人が誠の世話をいたして下さるのざぞよ。
この時から、大本の神紋は十曜の紋と定まった。そして、のちに裏紋は㊉と定められた。九曜の紋は、綾部藩主の九鬼家の家紋でもあったが、大本でいつごろから用いられたかは、いまのところ不明である。しかし、一九〇一(明治三四)年二月二四日の筆先には「九鬼大隅の守九つの鬼の首九つの首を九曜の紋、九つが十曜に開いてしほれん花の咲く大本であるから、ちとむつかしきぞよ」とあって、その意義にふれられている。なお、出口家の定紋は抱茗荷であった。
〔写真〕
○十曜の神紋 p182