金明霊学会の祭典にかんする資料はきわめて少ないので、詳細なことは不明であるが、一九〇〇(明治三三)年の頃から祭典もだいぶん整備されたものとなり、引きつづいて、毎月陰暦の三・一五・二三の日は月次祭がおこなわれていた。そして毎年、節分と春・秋の三回に大祭が執行された。その祭式・祝詞などには神道の形式が用いられた。
節分は、「煎り豆の花が咲くまでおしこめる」として、艮の金神が隠退をさせられた日であり、また、天運循環してふたたび出現されたのも節分であると示されていた。そのため、節分の大祭は、もっとも意義ぶかい祭典として当初よりおこなわれていた。世間でおこなわれている節分の風習は、すべて艮の金神を封じて、ふたたびこの世にださないための行事ばかりで、たとえば、節分の鬼の防御のための柊、「鬼は外・福は内」の呪文、豆撒きなどの行事にしても、艮の金神封じを意味していると解された。
艮鬼門金神・坤鬼門金神をまつった金明霊学会の節分は、煎り豆を撒かないで供えていたが、それも一九〇一(明治三四)年、開祖がみずからつくった生大豆を供えたことから、その後煎り豆はやめて生大豆を献饌されることになった。後に大本でさかんとなる人型行事は、まだこのころにはおこなわれていなかったようである。
祖霊祭祀のおこりについては、金明霊学会の規約二九条に、「本会員にして従来の仏式を改め神国の大道に復帰したる者を大道社員とし、金明霊学本部内に『大道本社』をおき、各地金明霊学会支部又は会合所内に大道支社を設置することあるべし。但職員並に祭典等は別に社則を設けて取扱ふ」と記されてあるから、当時から、祖霊の祭祀がおこなわれていたことは明らかである。
信者が御神体をまつるようになったのは、一八九三(明治二六)年後半からと考えられる。その頃、黒谷のきずき大判の和紙に書かれた筆先を御神体として授けられ、開祖みずから雌松を供えて、四方すみ宅で鎮祭されている。信者は、これを宮に納めたり、軸物として礼拝したりしていたが、後には、上田会長が書いた御神体を奉斎するものもあり、ご神名とか奉斎の様式はかならずしも統一されていなかった。
金明霊学会じたいのお宮をつかうようになったのは一九〇〇(明治三三)年一一月、大島の二階に移り、神床を設けてお宮を新しくこしらえた時からで、これを機に、本部ではお宮三体、役員の宅では二体、一般信者宅では一体を、それぞれまつることに定められた。お宮は、開祖の「天地そろうた飾りのないお宮をつくるように」という指示にもとづいて、当時、京都の信者で宮大工をしていた近松政之助が桧でつくったが、「桧ではもったいないから、松でつくっておくれ」ということで、苦心のすえ、ヤニの比較的少ない白地の松板をもとめてつくったと伝えられている(現在のお宮は桧であり、また寸法には変遷があるが、形はこのときのままを継承している)。
「おひねり」は、一八九八(明治三一)年閏三月六日の筆先に「大本をひろめるのは、雌松とおひねりでひろめて下されよ」とあるところからみると、それ以前から、下げていたことがわかる。はじめは、きずきの和紙に「うしとらのこんじん」と書かれたものであったが、後に「ひつじさるのこんじん」と書かれたおひねりもさげられることになった。また、「肌守」は一九〇〇(明治三三)年頃から下付されている。
出口家では、これまで養父豊助の供養を正暦寺(真言宗)でおこなっていたが、一九〇一(明治三四)年一月、同寺の供養をことわり、神道に復祭した。一九〇四(明治三七)年には、大広前に各家の祖霊を改式奉斎して、この頃から本格的に神道復祭がおこなわれるようになった。
こうして、一八九二(明治二五)年以来七年間は、発狂者か狐憑きかのように疑われて苦労した開祖も、上田喜三郎の登場によって、開祖の言動が、偉大なる神霊の感合によるものであるということが明らかになり、金明霊学会の名のもとに、丹波から京都一円にかけて教線が発展していった。
ただし、金光教から転入して来る霊学研究の徒や、従来の世話係りの中には野心家があって、これらの一部は、後にはなれていき、また、もとからの幹部の間にも、上田会長の天衣無縫の言動にたいする無理解があったりして、上田会長にたいする排斥の動きもないではなかった。
〔写真〕
○開祖直筆の肌守と霊璽 p189
○お宮 はじめの形が今に継承されている p190