一八九四(明治二七)年にはじまった日清戦争は、その翌年、いちおう日本の勝利に終わり、日本は台湾・澎湖諸島の植民地を領有し、あわせて三億五千万円の償金を獲得した。この戦争によって、日本は欧米列強諸国の仲間入りをし、大陸進出の足場をかためるとともに、償金の大部分を軍備と軍需工業の発展にあてた。また、あらたな海外市場をえて、紡績業と製糸業とは急速に発展した。しかし、このような発展は、一方では民衆に対する抑圧を強め、他方では大陸へ進出しようとしていた列強諸国との対立を促進した。しかし国民の教化にあたっては、列強諸国にたいする対立面が主として強調され、国家主義の方向へと国民意識をみちびいていった。日清戦争の終結の際における三国干渉─遼東半島の返還問題─は、こうした方向をいっそう強める好材料に利用され、「臥薪嘗胆」のスローガンのもとに国民は扈従をしいられ、国民の意識は、国家主義と排外主義へと組織され、国民各層にたいして、「国家奉公」への道が強く説かれることとなった。
上田が大本入りをした前後は、国の内外ともに、多難の変動期であった。明治の一〇年代にあって、国民の思想を主導した民権思想と欧化主義の思潮は、明治の二〇年代ともなると、国民主義や日本主義などの潮流にとってかわられた。この時期に、日本のナショナリズムは、民権思想と国際主義との内面的結合をしだいに失ってゆき、排外的色あいの強い国家主義として固定化していった。
日清戦争と三国干渉は、これまでなんらかの形で、国際平和と民権の思想に結びついていた多くの思想家たちを、排外的な国家主義の立場に転換させた。徳富蘇峰や山路愛山など、当時もっとも影響力をもっていた思想家たちも例外ではない。ごく少数のすぐれた思想家、たとえば、内村鑑三などは、明治の末まで、圧倒的に強い国家主義の風潮のなかで、困難な先覚者の道を歩まねばならなかった。
明治二〇年代の国家主義的思想の流れでは、すでに、一八八八(明治二一)年に、山岡鉄舟・鳥尾得庵・川合清丸らの大日本国教大道社ができ、また、三宅雪嶺・志賀重昂らの政教社の機関誌『日本人』も日本主義をとなえて、きわめて大きな影響を与えた。同じころ仏教でも大内青巒らの尊王奉仏大同団・明道教会がつくられ、神道系の惟神学会・大日本正義会など、多くの国家主義と反欧化主義の諸団体が成立した。こうした風潮は、日清戦争後にあってはますます強くなり、高山樽牛によって日本主義がとなえられ、一九〇一(明治三四)年には内田良平らの黒竜会が誕生した。
条約改正は、日清戦争の直前にいちおう実現し、一八九九(明治三二)年から発効することになったが、この条約は治外法権の廃止を認めたかわりに、外人の内地雑居を許すものであったから、内地雑居問題は大きな政治問題となった。政府はそこで内地雑居準備会をつくり、「準備会雑誌」をだして啓蒙につとめなければならなかった。