筆先で、世継ぎは、すみであることが示されると、すみの婿の座をねらうものがあいついで出てきた。四方春三・中村らの野心もそれで、かれらは、共同の敵として、上谷の修業以来、上田会長の排斥に力を集中した。しかし、上田会長は、だれと争うまでもなく、筆先による神示によって、その女婿に選ばれて、結婚することになった。
およつぎは末子のおすみどのであるぞよ。因縁ありて上田喜三郎殿はたいもうなご用いたさすぞよ。このおん方を直の力にいたさすぞよ。このおん方ありたならば直は大丈夫であるぞよ。(明治32・旧6・10)
上田殿ご用きかして、さきでお世つぎといたすぞよ。出口直には取次はもうさせん(明治32・旧6・23)
これから出口直と上田喜三郎と二人で世のあらためをいたさすぞよ。直と上田と神がご用に立てるぞよ。艮の金神、よろずの神、出口直と上田喜三郎にうつりて参るぞよ。(明治32・旧6・25)
一九〇〇(明治三三)年一月一日、ふたりは四方平蔵の媒酌で、東四辻の広前の神前で式をあげ、役員・信者に発表した。ときに、上田は二八才、すみは一六才であった。
当時の会長のことを、すみは『おさながたり』で、次のように語っている。
明治三二年の梅雨もそろそろあけかける頃のことでありました。私は大原の茶撰りの仕事がすんで帰って来ました。そのおり私は、不思議な人を見ました。その人は二七、八ぐらい、男のくせに歯に黒くオハグロをつけ、夏に入ろうとするのに、お前のところで二つに分かれているブッサキ羽織というものを着て、ボンヤリ縁側から空を眺めていました。私は変ったその姿をみながら、どこかで一度見たことのあるような気がしてきました。「安達が原」の芝居に出てきた、お公卿さんの姿の貞任にそっくりの感じでした。これが初めて会ったときの印象でした。先生(上田)の様子は本当に変っていました。暇さえあれば、いつもボンヤリ空や星ばかりをみている人でした。冬に単衣を着せても、夏に袷を着せても、知らん顔していましたし、紐のしめ方一つにしても、一回キュッとしめるだけで、下に長くブランと紐の端をぶら下げたまま、少しも気付かぬ様子でした。ある日教祖さまが私を呼んで、「おすみや、お前はあの人の嫁になるのやで、そして大もうのご用をせんならんのや。神様がいつもそう私に云われるのや」と言われました。しかし私は教祖さまに、そう言われましても、とりたて別にどう気持が動くということもありませんでした。私の気性としては、どちらかというと、気の利いた、サッパリと男らしいような人が好きでしたが、そうかといって、先生に対する私の気持は、別に嫌いということはありませんでした。おだやかな、温味のある、何だかぬくい感じのする人だとは、いつも思っていました。
こうして、上田会長は参綾後わずか半年で、開祖の婿養子として迎えられ、出口家の人となった。二大教祖の提携がここに実現し、開祖をたすけて、喜三郎が宣教に専心することとなったのである。上田会長排斥運動も、しばらくは下火になったことはいうまでもない。大本教義においては、開祖は機の経糸の役、聖師は機の緯糸の役であって、ここに、両教祖の提携による大本の本質的基礎がなりたったとしている。
上田喜三郎が大本入りをした意義は、「大本の神」を世に出すこと、つまり大本独自の活動をはじめることにあった。このことはまた、大本の思想が、当時の日本の諸思想や諸宗教と接触し対決することでもあった。上田が参加するまでの大本にとって、対決の相手は、この地方で発展していた金光・天理・妙霊・妙見などの諸宗教であったが、上田会長をつうじて、大本は、ひろく諸宗教や諸思想とふれあい、そのなかで独自な展開を迫られたのである。
筆先によると、一八九七(明治三〇)年には「いまは世の行きつまり、末法の世のしまいで、絶命の世になりたぞよ」とあり、また「明治三十年で世の切替えであるから、今年は恐い年であれど……世の立替えであるから、人三分になるところまで行くのであれども、天地の御神様をお願い申して、大難を小難にまつりかえて、人民を助けるのであるぞよ」と示されている。そしてさらに、一九〇〇(明治三三)年には、立替え立直しが間近に迫っていることが、とくに強調されてくる。事実、一九〇〇年に入ると、旧二月一五日の筆先には「この世ひっくりかえるは今度の事ざ」、「今年は世の立替えと致すから、その用意を致して下されよ。出口で云い聞かした位では改心でけんから、天災で何があろうやらわからん故、その心で居りて下されよ」などの警告が、たびたびだされている。
このような切迫感がとくに強まってくるとき、上田が大本入りをしたことは、これにより金光教との関係をたって、大本独自の主張を社会的にあきらかにしてゆく大本内部の立替え立直しの発展となった。
〔写真〕
○左より 出口すみ 開祖 上田喜三郎(結婚のころ) p199