一九〇〇(明治三三)年を世の切り替えの時期とする筆先がでたのにつづいて、翌一九〇一(明治三四)年の末には「明治三十四年でさっぱり世の立替えになるぞよ」(明治33・旧9・24)とか、「明治三十四年絶命ざ」(同・旧10・19-新12・10)との筆先があった、この年を立替え立直しの年とされていた。すなわち、切迫感はいっそう深められたのである。筆先によれば、日本の対外的危機にもかかわらず、人々が日本魂を喪失して、外国の獣類の魂になりきっているからこそ、神が表面に現れて、世を立替え立直さねばならないということになる。日本の対外的危機の切迫が、日本魂の喪失によるとされ、日本の国家的危機や体制の矛盾などの問題を、神の出現と人々の改心の問題に結合されてゆく点に、この時期の大本思想のひとつの特質がみられよう。この結合によって、日本の対外的社会的危機が迫れば迫るほど、信者たちは、それにきわめて敏感に反応して、ただちに人々の根本的改心-立替え立直しをすることが必要であるととらえていたのである。
元伊勢お水のご用と出雲火のご用は、世の立替え立直しのための大本のいわゆる「型」として示されたものであり、大本史上重要な意義をになうものであった。そして天津神系でありながら、さして政府が重要視しなかった丹後の元伊勢の水、ならびに日本神話のうえで独自の位置をもつ国津神系の代表的存在である出雲大社の火がご用のなかに登場してくるのも、神を表にあらわす大本のしぐみよりいって、わが国の宗教史上に注目すべきものがあった。穢れと浄めとの思想は日本の伝統的な宗教観念に強くみられるところで、清らかな水と火は、もっとも強い清浄化の力をもっているとされており、人間の肉体や外界の事物を水と火で清めることと、邪心を除いて心を清らかにすることは不可分であるとされていた。「元伊勢の産水は昔から変わらん産水である」(明治36・5・1)し、出雲の火も昔から消えたことのない神聖な火で、どちらももっとも清らかなものであり、世界を清めることのできるものとされたところにもその一班が見出される。筆先によれば、「世界の水は一たいらに泥水」(明治36・5・19)であり、その泥水のなかに住んでいる人々は、すこしも自覚していないが、身体のすみずみまでも泥にそまって、強いものがちの、けがれきった世の中をつくっているのであるから、この神聖な水と火とで世界を洗い清めなければならない。だからこそ「水晶のお水を頂きて、綾部の屋敷の内には、その結構なお水で身魂の洗濯を日々いたしておるのじゃぞよ。女島と男島との間にも、このお水を少しそそいであるが、このお水が世界中へ回りたら、ポツポツと大望を始めると申してあるが、もう回りたから、これからは世界に何があろうやら知れん」(明治36・旧5・19)とされるのであった。元伊勢へゆくちょうど一ヵ月以前に、「今年は絶命の世の立替えになりたから、丹後の元伊勢に参拝致してくれねばならんぞよ」(明治34・旧2・6)という筆先がでているように、そうした強い終末観がこれらの出修をささえていたことも見逃せない。
一九〇一(明治三四)年にはいると、つぎつぎに綾部に移住してくるようになった。そのなかには野崎宗長・田中善吉(以上京都)・四方与平らがいた。かれらはまもなく天地がひっくりかえり、上下の「運不運」がなくなると素朴に信じこみ、立替え立直しの切迫感に動かされて、家業を放棄し移住してきたのである。こうした綾部の空気を反映してか、出雲まいりののちには、役員のなかにも、大望がでてこぬと不足をいうものがでてきた。会長は参拝後の大本を〝神界の経綸漸く完了し綾の聖地に神気漲ぎる〟とうたっている。
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○一九〇一-明治三四年のふでさき とぼしびのきえるよのなかいまなるぞ さしそえいたすたねぞこいしき こんりんざいのかなわん いまがかわりめであれども よおたてかえて ひろきよにいたすぞよ むかしのもとのふるきよのかみのひかりのてるよになりたぞよ p233