明治三〇年代における会長の教説は、前記の各著作によって、ほぼその内容をうかがうことができる。会長の役割とその真意を理解できなかった役員らの圧迫によって、内外の活動を大きく制約されながらも、そのなかで心血をそそいで書きつづられた会長の教説には、のちの大本の発展に、多大の寄与をなすものがあった。それらの著作によって、筆先における神観や教理が平易に解説されてきた。その教説にみられる瑞の霊の神業-救世の神の教義づけなどには、とくに大本の独自性がよりよく発揮されている。
これらの著作は、役員らの誤解と妨害のなかで述作されたものであったが、それでも会長は「王仁は常に此等の役員信者の罪をゆるされんことを日夜神に祈りつつ、あまたの人の罪に代りて、ちくらのおきどをおひてたゑしのびたりき」(『道の大本』)という瑞霊の自覚にたって、その罪をあがなわんとした。
このころから教説のなかで「厳霊」「瑞霊」のことばが、しだいに多く用いられてくる。宇宙の大本神が父神・母神としてあらわれ、父神のはたらきをされる至厳至直の神を「厳霊」といい、母神のはたらきをされる至仁至愛の救いの神を「瑞霊」とよばれているのである。
いわれるところの瑞霊の神業とはなにか。「昔の神代めぐり来て、元の神代に立帰り、瑞の御霊を天より降し玉ひて、三界の消息を説き明かさしめ給ふ」(『道の栞』1)とあり、「此悪しき世を、松の世、神世となさん為めに天より瑞の御霊を降し給へり」(『同上』3)とあって、「天の岩戸」のなかに隠れませる厳の霊を「審神するものは、瑞の霊であり」、「此二つの御霊揃ひて守るときは、如何なる事もなり遂げざる事なし」とされる救世の霊であった(『同上』3)。こうした厳の霊にたいする瑞の霊の神業観は、『古事記』や『日本書紀』における須佐之男命(素盞嗚尊)にたいするあらたな解明にも示されている。「古は、此世の救主として瑞の御霊速素盞嗚天使が現われたまひて、天津罪、国津罪、許々多久の罪穢を御身独りに引き受け、世界を救ひたまうたのである。其の有難き情の深き吾等の救主たる事を知らずして、素盞嗚尊を猛悪なる天使と思ふものは実に罪深き恐れ多き事である。此の神は、今も役神にして人の災難を救ひ給ふ神である」(『道の栞』1)。こうしたあがないの神・救世の神としての素盞嗚尊観は、国家神道の解説などには見出しえないものであり、わが国宗教史上においても注意をひくものがある。したがって「瑞の霊は此の世の罪穢れを救ひて、大神へお詫びをする苦労の深い御魂」(『同上』)であり、「瑞の御魂と申して頼めば信さへとどけば」いかなる罪もあがなわれる神格となる(『同上』)。「瑞霊は此の世とあの世の助け船、心も身をも任せなば、ひっくりかへる案じもなしに、神の国へと救はれる」(『同上』)のである。こうした教理は、『道の大本』にも随所にとかれており、「みづのみたまの大神のあまねく世の中のつみけがれあやまちをそのみにあがなひ、またもろもろのわざわいをしりぞけたまふおんよりおほいなるはあらざるなり」(『道の大本』2)とか、「みづのみたまの大神あめよりくだりて、あらゆる世の中の罪を洗ひけがれを清めんとてあまつ神のみむねのまにまに、この大本教をひらきはじめ玉へるなり」(『同上』8)とかの教理にも明確に示されている。そうしてその瑞の霊が、会長のこころのうちに、天降ったとする自覚が、一九〇四(明治三七)年の四月八日を機として、にわかにたかまってくる。このことは『道の大本』の第六巻に「王仁、神の愛によりて生れくさぐさの苦しみ、なやみ、さまたげ、はづかしめにあいてよくしのびたり。依りてあめより茲に明治三十七年四月の八日、初めて瑞の宮居と定められ、世界を救ふ為に千座置戸を負いて立てり」と書かれ、翌日に「神夢」があったとされ(『道の栞』1)、さらに「王仁のこころのうちにみづのみたまあまくだりて、あまねくよのひとをすくはせたまふ」(『道の大本』2)という認識へとたかまった。上田会長がのちに、「瑞霊真如」というにいたるのも、そのことによってである。
こうした「瑞の霊は神代の昔、天津罪国津罪の贖ひ主となり給ひしが、二度此の世に来りて罪人の贖ひ主となり玉へる」(『道の栞』4)という神観の展開となった。
〔写真〕
○北東出現厳霊神 出口聖師筆-紙本着色(239センチ×145センチ) p268
○南西出現瑞霊神 出口聖師筆-紙本着色(236センチ×148センチ) p269