しかしながら、会長は、戦争を積極的に肯定したものではなかった。むしろ戦争そのものは悪としており、戦争がおこるのは人間が欲心をもっているからであり、また軍備があるために他国をうばおうとする欲の心がおこるのであると力説した。「世界中、兵あるが為めに、欲も起り戦ひもあるのである。世界の戦ひは運不運を嫌い給ふ天帝の大御心に叶はぬことである」(『道の栞』)という言葉は、いまになお光り輝いている。
また、「軍備や戦争は地主や資本家を守るための力にするので、世界数多の地主と資本家のために兵にもとられて、大事の命をなげ出して、其上多くの税をとられねばならぬ。高みへ土持ちで、こんなつまらぬ事はない」ともいう。そして現在、世界で二五〇億ドルを軍備のために使い、達者な若者を選り抜いて兵隊にし、田畑を耕すものがない有様である。「ああ世界にこれ程重い罪があろうか。これ位禍があろうか。これではさっぱり畜生の世で、強い者勝ちの悪魔の世界ではないか」(『筆のしづく』・『道の栞』)。この意味からも、「兵士もいらぬ、戦もなく」世界をつくることが必要であり、それゆえに世の立替え立直しがされなくてはならぬといっている。しかし、時には「悪魔を亡ぼして、支那、朝鮮を従へ、東洋の主となるは日の本の将に行なうべき務めにして、天津神の大御心なり。その他世界の国々又我国の下に従ひ来らしむるは、日本大和魂ある国民の義務にして皇祖の御遺訓なり」(『道の栞』)とものべている。
こうした一見矛盾する論説が、なぜだされてくるのか。そこには、天皇制の国家秩序と、国家神道体制が厳然としてあった明治後期の日本社会にあって、神教を宣伝し、教団活動を合法化するためには、やはり逆行する時代の動きに適応しようとする苦心を重ねた会長の言説があったことは、みのがしてはなるまい。いたずらに、その限界や矛盾を指摘することよりも、その主張の力点がどこにあったかを発見することが、より肝要であろう。
日露戦争後における日本の政策は、アジア大陸への進出と、産業経済の資本主義的発展をはかることにあった。ことに「国民教化」の主要な分野は、教育と宗教とであった。そのため一九〇四(明治三七)年には、公認宗教の代表者一五〇六人が集まって、戦争協力のため誓約を決議し、戦地慰問などを行ない、宗教の大陸進出も計画された。こうして各宗教は完全に政府の意図に動員された。その反面においては、非公認の宗教にたいして、政府は容赦ない圧迫と干渉とをくわえていった。
天理教が教派神道の一派として一九〇八(明治四一)年一一月二八日公認されたのを最後に、政府は、あたらしい宗教教団が独立することは許さない方針をとった。したがって、非公認の宗教は、国家の安寧秩序及び臣民の義務に反するおそれある淫祠邪教のたぐいとして、内務省による監視と取締りの対象とされた。あらたに宗教活動をしようとするものは、いずれかの公認宗教に所属し、その所属の教会の名義によって布教する以外に方法がなかった。こうした動きのなかにあって、教理の貫徹と教勢の拡大に努力する会長の苦心は、想像にあまりあるものがあったのである。
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○手不足の実情をつたえた書状(上田会長から小西庄太郎へ) p276