「物質文明」と、利己心の世界である現実の社会にたいする会長の批判が、神教すなわち「天地の道」=惟神の大道をよりどころにしていたことはいうまでもない。しかし、開祖にとっても、会長にとっても、いわれるところの惟神の道は、国家主義的な神道とはまったく内容を異にするものであった。
『道の栞』には「日本は日本魂を以て建つる国なり。日本魂とは、平和、文明、自由、独立、人権を破る者に向って飽くまでも戦ふ精神をいうなり、無理非道なる強き悪魔を倒して、弱き者の権利を守る精神なり」とのべている。その意味において、偏狭な日本至上主義や国家主義の影はない。近代的ヒューマニズムに通ずるものであり、普遍的な世界同胞の思想につながるものである。したがって、惟神の道・日本魂という文字が使われてはいても、いわゆる国家主義的なものとは、その内容に大きなひらきがあった。会長が、こういう意味に日本魂を解釈したことは、当時の歴史的背景からみて、思想史上においても高く評価されてよいだろう。会長は、当時の神道家たちを批判して「にほんのしんとうのなかには、ままへんくつじんがあっていふやう、にほんは神国とまうして神のあるくに、とつくにには神なきくにで、けものとおなじくにである……、かかることばはしんとうかたるべきものの、かりにもかたるべきことばにあらず。せかいぢうすみからすみまで神のなきくにはなし。たいようのひかりのとどくかぎりは、かみのまもりまさぬくにはなし。にほんじんとせいようじんとはいろこそかはれ、けのいろ、めのいろ、はだのいろこそかはれ、みなおなじてんていのれいとりよくとたいもてつくられたるうへは、みなてんていのみこなるべし」(『道の大本』)などというのである。
会長によれば、日本は、日本であることじたいによって神国であることが保証されているのではなくて、日本が神国であるためには、日本人の心が、さきにのべた日本魂の精神でなくてはならないのである。そして、外国人といえども、そのような精神ならば「日本魂」の持主である。そのkとは、「日本に生れたりとも、霊主体従の神の行いをせざる者は異邦人なり。又異邦人なりとも、この国の教を守る者は霊主体従の神の民なり」(『玉の礎』)という言葉にもはっきりと物語られている。そして、現実には日本人の大部分は異邦人の心になっており、日本魂はすて去られ、悪の世=外国の魂の世になっている。だから「今の日本の人民、多くは神の御教を知らず、異国人の後えに落つるに至れり」(『道の大本』)ともいわれるのである。
「世界の各国は何れもみな、己が国の利益を中心として働きおれり。我国は真理の為め、文明のために、平和の為めに、日本魂を中心として働けるなり」(『道の栞』)とのべられているが、こうした言説において、会長の立場が国家主義を支持するがごとき印象をあたえた。日露戦争については、「某国(ロシア)の悪政を亡ぼすは我日本のためのみならず、支那・朝鮮の為めなり、世界人民の為めなり」「我日本国は日本魂武士道的精神を貫かんが為めに、不利益なる戦ひをなすものなり。利益をのみ得んが為めに、日本特有の精神を捨つる事能はざる国なり」(『道の栞』)とものべられており、その点が、国家主義を支持するものと誤解されたりもしたのである。
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○軍備や戦争……こんなつまらぬことはない p274