日露戦争の前後にあたる数年間は、せっかくできた教会も警察の圧迫を受け、布教活動は困難におちいり、世話人たちは縄ないや人夫をやって収入をえながら、経営をつづけなければならなかった。
開祖は筆先を書きつづけているので、三銭の墨と六銭の筆の用意、さらに一貫目(三・七五キログラム)二円の紙もすぐに使いはたすため、その費用がたいへんであった。一九〇六(明治三九)年に入ってからは、筆先のでるのが、ごく僅かになっている。
「大本行事日記」によれば、一九〇六(明治三九)年の旧元旦の神饌物さえ、盛り合わせ一台となっている。これらをみても、当時の金明霊学会が、財政的にいかにさびれていたかがわかる。
このころの教団財政について、「大本行事日記」や田中善吉の日記をみると、一九〇六(明治三九)年中の、月掛負担金の総収入は二五円〇五銭、支出雑費が二四円二九銭、翌明治四〇年中の総支出が二一円二四銭で、総収入は更に減じて一九円二〇銭であった。差引不足額は、六人の役員で一人当たり三四銭の負担をしたようである。当時の金明霊学会は教団財政が確立されていなかったので、教団の費用支出はすべて役員が負担する、という形態をとっていたと考えられる。それにしても、財政の総額が非常に僅少であったということは、つぎのことからもうかがえよう。
一九〇六(明治三九)年には、丹陽キリスト教会が成立し、その後綾部ではキリスト教が発展したが、その丹陽教会の歳入は六四五円〇一九、歳出は五五四円七三五であった(『綾部町史』)。当時の米相場とこれを比較してみると、綾部近郊の『中筋村誌』によれば、一九〇七(明治四〇)年には米一石(約一五〇キロ)につき一三円五〇銭であったから、大本の年間収入は米一石五斗(二二五キロ)に満たないほどのものであった。その当時の教団財政がいかに小規模のものであったかが察せられよう。
このような状態のなかで、その年九月に、会長は京都の皇典講究所に入学したのである。
日露戦争により、「立替え」がおこなわれると信じて入信した信者のうちには、その後脱落して寄りつかなくなったものも多く、ことに、上田会長が綾部をでてから、一時はまったく火の消えたような状態になった。すでに、二年前の筆先に「変性女子(会長)がこの大本を出たら、あとは火の消えたように、一人も立寄る人民はなくなるぞよ。そうして見せんと、この中は思うようにゆかんぞよ」(明治37・旧7)と示されていたが、はたしてその通りになった。
その留守をささやかながら支えていた明治三九年当時の役員は、四方平蔵・中村竹蔵・木下慶太郎・四方与平・田中善吉・竹原房太郎・森津由松・山本作次郎・時田金太郎・福林安之助・四方甚之丞であった。これについで塩見じゅん・中村小松らが奉仕していた。かれらは、ほとんどが中層の農民か商人の出身者であったが、当時はみな貧窮な生活を送っていた。
このようななかで、出口家の一族や、身寄りの多数の者をかかえて、家計のきりもりをしたのが、すみであった。すみは当時を回顧して「三十八、九年頃には、ドンゾコの様に思ひました」(「神の国」大正11・10)と語っているが、二人の子供と開祖、さらに穴太の会長の家が焼けたりして寄住していた身内の人をかかえての苦労は、なみたいていではなかった。家財を売り払い、台所の道具と寝具しか残らないような状態で「大根や、かぶらや、いろんなものを入れた雑炊に、樫の実でこしらえた団子を食べ」るという「とことん」の苦労がつづいた。あるいは米屋に雇ってもらおうとしたりして、懸命にはたらきつづけた。こうしたなかにあって、一切を忘れて神事に仕えている開祖には心配をかけまい、勉学中の会長に気苦労をかけまいとして心をくだき、また、ひなまつりがきても、おすしをつくることができず、たった五銭のありがねを工夫して白米を買い、子供にみじめな思いをさせまいと、筆舌につくせぬ苦労を重ねた。しかも、すみの苦労は家計のことばかりではなかった。「神様のおかげで、恥をかかぬようにと一生けんめいでした」と、『つきぬおもいで』の中ですみが回想しているように、開祖をたすけ、役員たちから会長をかばい、そして「大本は困っているそうやなァ、と世界からいわれ」ぬようにと、血のにじむような努力がなされていたのである。しかしすみの努力にもかかわらず、苦しい毎日がつづいた。これまで大本は農民や零細商工民に、病気なおしなどを媒介として「世の立替え」をうったえてきたが、こうした当時の金明霊学会にあっては、財政的に窮乏のどん底にあったため、強力な運動を推し進めることはほとんど不可能となっていた。
〔写真〕
○大成教からの辞令 p283
○皇典講究分所での学階薦挙状 p284
○1906-明治39年ころの二代すみ(左)三代直日(右)むめの p285
○1907~8-明治40~41年ころの会長と信者たち p286