『道の大本』には、祭事について顕斎と幽斎のことが大別されており、「顕斎は天つ神国つ神八百万神を祭祀する法式にして、宮殿あり、祝詞あり、幣帛ありて神の広慈大徳を報謝し、且つ敬虔の意を表する道なり」、「幽斎は真神をいのる道にして、宮社もなく、祭文もなく、幣帛もなし、唯願望する所を吾人の霊を以て祈祷し奉るの法式なり」と記述されているが、こうした財政の窮乏にもかかわらず、祭事は継続されていた。そこにも大本の美しい教風がつらぬかれていた。素朴な祭典ではあったが、清々しいものであって、一月元旦より、「おなま五ぜん」一台が必ず供えられており、開祖の夫政五郎の二〇年祭・月次の祭典・みたままつり・大祭などが定期にとりおこなわれている。弥仙山への参拝も、沓島への参拝もできるかぎりのお供えをして厳修された。
神饌物についても、現在の大本祭式のような定まった形式はなく、まことのこもったものを供えるのが建前で、記録によれば葱なども供えられている。
大本祭式が定型化されるようになったのは、その直後のことであって、当時は会長が、皇典講究分所や建勲神社・御嶽教・大成教などで学んだ祭式をもとにして、そのころより独自の形式を準備してゆく意欲的な動きがうかがわれる。
一九〇七(明治四〇)年の六月八日(旧四月二八日)にも、四方与平ら五人が弥仙山に参拝し、同年の八月一六日(旧七月八日)には開祖以下一三人が沓島に参拝している。また、一九〇八(明治四一)年二月五日の節分の翌日には、神様が沓島より弥仙山へお上りになったというので、四方平蔵ら六人の役員が代表して弥仙山に参拝した。
明治四一年には、これまで広前に艮の金神のみ鎮祭されていたのが、四月二三日、坤の金神をあわせて鎮祭することになった。これは開祖と会長との対立がおわり、会長がいよいよ表にでて、活動をする前提とも受けとられたので、役員たちはその意義を深く感じた。
そのころの綾部は、日露戦争直後の好景気をうけ、これまで農村色の濃い集散地であったのが、商業と産業の町に転換していった。綾部におけるキリスト教派、日露戦争がおこると内田牧師が、尽忠報国をといてこの地方の人心を動かし、郡是製糸株式会社社長・波多野鶴吉とともに郡内を巡回して、信仰と産業との両面を強調し、多くの信者をえて、前述の丹陽キリスト教会をつくったのである。
一八九二(明治二五)年、開祖出口なおの帰神によって発端した大本は、一八九九(明治三二)年、上田喜三郎の大本入りによって、金明霊学会の名のもとに、小さいながらも一教団としての歩みをはじめた。内部のはげしい対立のなかで、会長出口王仁三郎の研鑽がすすみ、宗教活動合法化の準備もようやく進捗した。生みのなやみの長い胎動期から、大本はここに全国的発展の機運がみなぎり、大日本修斎会の誕生を迎えるのである。
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○郡是製糸株式会社-明治29年創立 p287