一八九二(明治二五)年に、国祖国常立命の神霊が開祖に帰神されてから、一九一八(大正七)年の昇天にいたるまで、開祖はひたすら二七年の間筆先を手記し、世界の大難を小離に、小難を無難にと、一身をささげて、世界の平安と人類の幸福を朝に夕に祈りつづけてきた。それはけっして平坦な道ではなかった。あらゆる苦難にうちかち、水晶魂の清らかな輝きをもって発揮し、神のご用のきびしさを役員・信者に一貫して示してきたのである。
開祖の生活態度は、道義的にもきびしいものがあった。しかし、そのきびしさは、けっして苛酷という表現はあたらない。むしろ、そのきびしいなかにも、人に接しては思いやりがきわめて深く、その情操はまことに清純であった。
開祖は、神がかりの状態でないときも、おのずからに伸とともにあられるとおもわれるような、おかしがたい人柄の持ち主であった。そして、日常の立ちふるまいはつねに静かで、気品もまたけだかいものがあった。周辺の人々もその感化をうけて、いつとはなく、大本の教風が開祖の人柄によってつくられてきたのである。
開祖は、いつも未明に起きて水行をし、神前で礼拝を厳修したが、とくに神のご用につかえるときには、日に何回でも水行をつとめた。晩年になって、「なおよ、水ごりはもうしなくてよい」との神示があってからのちも、開祖は「お水」を額のうえにそそぎ、水ごりにかえるというように潔斎を怠らなかった。神前で開祖の奏上される祝詞の声は、いつもみずみずしく澄みきっていて、おだやかな拍子のうちにも力のこもったひびきがあった。
開祖はつねにおちついた静けさを好み、騒々しいことは嫌いであった。神苑内で奉仕者が鼻唄気分で仕事をしていたり、若い者が、土工作業などで、元気にまかせてはしゃいでいるときは、「ここをどこと心得ておられるのか」と注意されたこともあった。ことに神饌所のなかで、雑誌しながら神饌物のご用しているのをみると、つつしみのない不心得者だといましめ、また、拭き掃除をする場合には、上から下へと手のとどくところより拭き、足もとは最後にするようにさとし、なにごとについても、その手順はゆきとどいていた。
ありとしあるものは、すべて神のお恵み、さちわいであるという感謝の念と、いっさいの物を生かしてもちいるという開祖の心がまえは徹底していた。「お土」をとうとび、「お土から上りたものを大切に」という筆先の精神をそのまま実践し、「土のご恩」「水のご恩」「火のご恩」などについては、ささいなことにまで心をもちいた。たとえば、水をそまつに使っている信者には、「お水をそまつにせぬように。お水は生まれたときから一生のあいだご恩になるもので、死ぬときの末期の水で一代のお水のご恩を知らしてもろうて、天国に昇らしていただくのだから、お水を大切にして下され。お水のご恩はかえしようがない」と、つねづねおしえられた。
正月の飾りものとして子供のたのしむ「餅花」(地方による正月の飾り)も、開祖はもったいないからといってつくらなかった。また、野菜など大根の葉切れや赤葉にいたるまですべてを大切にして、それらの味わいをよくして食卓をかざったりもした。開祖は、そのむかし家庭の主婦であったころから裏の畑にでて蔬菜をつくり、南瓜をつくることなどはとても上手で、いつもよい収穫をあげ近所の人々が驚くほどであった。わずかな土地でも荒したり、雑草をはやしてほうってあることをたしなめ、土にしたしむことが開祖にとってなによりもの楽しみであった。
開祖の生活は質素そのものであった。教団が発展し、ある程度の経済的ゆとりができてからも、衣類はいつも手織の木綿を用いていた。だがつねに洗濯や手入れがゆきとどいて、着用の衣類はいつもさっぱりとしていたので、開祖は絹物をきておられるのかと信者が疑うほどであった。夏はちぢみの浴衣を愛用したが、神務に奉仕するときは衣類をあらためた。冬は木綿の羽織を着用し、夜具も木綿物を使い絹物などは用いなかった。あるとき信者のなかにこれをみかねる人があって、絹夜具を献納したところ、それは一度も使用せず、のちに水害の見舞に送ったりしたほどである。
食物は菜食で、野菜物なら好ききらいはなく、乾物では干ずいき・高野豆腐・椎茸など、わけでも生湯葉を好んだ。時たま開祖の身をきづかつて食膳にだされた鯉こくや、鮎の塩焼などはよろこばれた。また餅を焼いて、それに塩を少しふりかけ、熱い湯をかけてだべることもたいへんに好きだった。タバコは開祖の生家の前に、葉タバコをきざんであきなっていた店があったので、それとなく小さいときから煙草の香りにしたしんではいたが、二代すみの手にしている煙管をみて、一服吸ったことがあったという程度で、平常煙草をのんだりするということはなかった。
食事の量はすこぶる少食で、行燈の灯影のそばで端然として、うるしぬりの黒色の膳にむかい、椀に少しの飯をもり、それに白湯をかけてゆっくり食し、ときに一どかえたりすることがあった程度である。これは、開祖が迫ってくる人類の大峠をおもいわずらい、世の中の難渋している人たちのことに心をよせて、食物も喉を遅らないことがおおかったのだという。
開祖は幼少のころから、家が貧困であったために他家に奉公をし、結婚後は、人生のドン底にひとしい苦難な道を歩んだのであるが、そうした境遇にさいなまれた人にありがちな、暗い面影はみじんもみられなかった。生まれながらに色白で、きめが細かく肌の美しい方であったゆえか、自分で化粧をしたりすることはなかったが、ほかの人々には「女はいつでも薄化粧ぐらいの身だしなみはしている方がよい」といわれていた。自分自身は、いつもきれいに水で体をぬぐい、入浴のときには糠袋などで体をていねいに洗っていたので、顔や肌の色は、におやかに艶々とした輝きがあった。
開祖は、神がかりのはじめのころ、神から命じられるまま、部屋のなかで能を舞ったことがいくたびかある。それまで、一度も稽古したりすることはなかったのであるが、おそらく、その舞はまことに格調の高いものであったとおもわれる。
綾部に広前ができて間もないとろ、綾部の近隣にある台頭(現天田郡三和町)というところから、業病でやみほうけた老婆がまいってきた。開祖はお松の葉をせんじた風呂をわかし、手足も不自由なその老婆といっしょに風呂に入って、ていねいに老婆の体を洗った。やがて、老婆は神徳をいただいて病が治った。開祖のそうしたいたわりや、親切な心づかいについての話は、いまもなお数多く伝えられている。老齢になってからも、夜ふけに、王仁三郎がつくった梅の杖をコツコツと首をさせながら、廊下から庭の方まで廻り、戸締りから火の用心までして歩き、寝ているものが風邪をひかぬよう、ソッと布団をかけて廻ったりしたこともたびたびであったという。
綾部は製糸産業のさかんなところであったので、朝早くから製糸工場の汽笛が鳴りひびく。開祖はその気笛の音を聞くにつけても、「女工さんはかわいそうだ、あれで女工さんは起きるのや」と、女工の苦労をおもいやった。また、「兵隊さんはかわいそうや」と、開祖から役員・信者は、深い同情の言葉をきかされたこともいくたびかあったという。それは、次男の清吉が近衛兵にとられて入隊し、台湾で戦死するという悲しみを体験させられているので、なおさらそのことが身近に感じられたのであろう。
どのような厳寒でも、火鉢に手をあてることなく、神前の板の間の円座にすわり、世界の人民のために、長い間一心に祈念をつづけた開祖の姿は、大本につどう役員・信者の鑑であり、そのことを通して、無言のみちびきをなすものであった。開祖の日々は、筆先の「奥山の烏のなく声たよりにて、かごんでおるような心」そのままのひそやかな日常であったが、夕方になると、縁先にうずくまり、宵の明星をジッとみいって、ときのたつのも忘れたごとき様子の日もしばしばあったという。
開祖の人柄は、まことに、黄昏のしじまのなかに、ほのかににおう白梅のようなゆかしくも神々しい生活のなかににじみでている。その全生涯は、まさしく直く正しく、まこと一すじにつらぬかれたものであったということができる。
〔写真〕
○晩年の開祖 p385
○手織木綿の着物 p386
○お膳 p387
○開祖自筆の手紙 まきかんじろさまいをてがみをあげます いちにちましに かみさまのはかせまりてきますから おいそかし五ざりますことわさしやりてをりますなれど なかなかのたいもなことで五ざりますから じんみんでわけんとうとれんことで五ざりますから をふでさきどりのことで五ざりますから かみさまから てがみをざせとの五めれで五ざりますから きてもらいましてをふでさきをしぼりみてもらわんと ちよとにわ ひとにをはなしがでけませんから をふでさきを十ぶんみてもろをてをかんと をはなしがちよとにわでけん ふかいしぐみで五ざりますから つすいてわをりてもらわいても なにかのことをみたり き…… p388