大本の全国的宣教活動が、強力に展開されだしたのは、一九一八(大正七)年からである。それは、「時節の切迫」という予言に裏づけされたはげしい宣教活動であった。その口火は、月刊「綾部新聞」の大正七年八月号によってきられた。その号には、当時「神霊界」の編集を担当していた友清天行(九吾)が、「一葉落ちて知る天下の秋」と題する論説を発表した。それは全頁にわたって執筆されたもので、信者はもとより、社会一般にたいしてもおおきな反響をあたえた。その内容は次の論旨にもうかがわれる。
この二、三年来の世の中の色々な出来事を何う考へておりますか。普通の人間から言へば天災地変、または人間社会の一波瀾に過ぎないと思ってるでありませうが、世の中に偶然の出来事なるものは一つもありませぬ。……何れも皆悉く神慮の発現ならざるはありませぬ。……けれども心なき者には如何なる神の啓示も、いつも暗く烏が啼く程にしか感じられませぬ。……所謂建設の前の破壊で、此の現状世界が木つ葉に打ち砕かれる時期が眼前に迫りました。それはこの欧州戦争に引続いて起る日本対世界の戦争を機会として、所謂天災地変も同時に起り、世界の大洗濯が行はれるので、……一人のまぐれ死にも、一人のまぐれ助かりも無いのであります。……そんなら日本対世界の戦争が何時から始まるかと云ふと、それは今から僅か一、二ヶ年経つか経たぬ間に端をひらきます。皇道大本の言ふた事で千百中只一つも、毛筋の巾程も間違った事はありませぬ。……この節頻りに米が高い高いと愚痴を並べておりますが、まだ此れどころではありませぬ。今から半年もすればウンと高くなります。愈々日本対世界の戦争となって少し日が経って難局に陥りますと、……一升二円出しても拾円出しても米は買ふ事が出米ぬやうになります。……武器の如きも無論不足欠乏しますから、寺院の釣鐘も鋳潰されるし、……老若男女を問はず、何うか斯うか動けるものは挙って国防の下に当らなければならぬ様になります。……敵の艦隊は△△や△△を根拠地とするまでに進んで参ります。敵の上陸に依って行はれる惨状は実に目も当てられぬもので、……本人で其の時敵の毒牙にかかるものは其凶縁を有する人たちで、其時になっては如何ともすることができませぬ。そしていよいよと云ふ時に、……霊活偉大荘厳を極めたる神力の大発現がありまして、大地震、大海嘯、大暴風雨、火の雨等によって解決されるのですが、其時死滅すべき因縁の者は皆死滅して了ひます。……繰返して申します。時期は日に日に刻々と切迫して参りました。モウ抜き差しならぬ処まで参りました。眼の醒める人は今の間に醒めて頂かねばなりませぬ。日の経つのは夢のやうですが、今から一千日ばかりの間に、それらの総ての騒動が起って、そして解決して静まって、大正十一、二年頃は、此の世界は暴風雨の後の様な静かな世になって、生き残った人たちが神勅のまにまに新理想世界の経営に着手してる時であります。……
この「一葉落ちて知る天下の秋」という論稿は、のちに、「神と人との世界改造運動」と改題されて出版された。初版を発行して一九一八(大正七)年一二月から、翌年の四月までの間に七版を重ねている。いかにひろく、社会の人々の関心をあつめたかがわかる。しかもそれは「この現状世界が木つ葉に打ち砕かれる時期」は「今から一千日ばかりの間」におこるという、まことに大胆な時期切迫を断定したものであって、当時における大本の立替え立直し説を、具体的に宣言したものであった。
大本七十年史の編纂にあたって、入信の動機についてのアンケートがとられたが、大正期の入信者についてみると、「神と人との世界改造運動」の論文によったものが相当ある。このことは、この論文が社会にあたえた影響の一斑を雄弁に物語っているといえる。
岩田久太郎(鳴球)は大正七年一二月一日号の「神霊界」に、
出口教主(王仁三郎)は、教祖帰幽以来、非常に緊張しておられます。時々幽斎室に御出になって講演をされますが、秋霜烈日の概当るべからざるものがあります。変性男子の御魂と変性女子の御魂と一つになりて、世を開くぞよとある通り、瑞の御魂に厳の御魂が加はって活動される時期が来たのです。顕界に於ては、今後益々不測の出来ごとが突発するだらうと考へて居ります。
とのべているが、「顕界に於ては……不測の出来ごとが突発するだらう」という考えは、しだいに濃厚になってきていた。こうした信仰的確信の重要な裏づけとなったものに、「大本神歌」(「神霊界」(大正7・2)と「いろは歌」(「神霊界」大正6・11、同12、大正7・1)がある。「神歌」や「いろは歌」には、
……今の世界の国々は、御国に勝りて軍器を、海の底にも大空も、地上地中の選み無く、備へ足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐みて……
とあって、このなかの「やがては降らす雨利加の」とは米国のことと解釈された。
……教御親の神勅に、日清間の戦ひは、演劇に譬えて一番叟、日露戦争が二番叟、三番叟はこの度の、五年に亘りし世界戦、竜虎相打つ戊の、午の年より本舞台、いよいよ初段と相成れば、西伯利亜線を花道と、定めて攻め来る曲津神……
……十重に二十重に累なりし、糸のもつれの弥繁く、解くる由なき小田巻の、繰り返しつつ行く程に、東の空にもつれ来て、退くに退かれぬ破目となり、弥々出師と成る時は五十余億の軍資をば、一年経ぬ束の間に、烟散霧消の大惨事、鉅万の生霊土と化し、農工商の国本も、次第々々に衰ろへて、青菜に塩の其如く、彼方此方に溜息を、吐くづく思案に暮の鐘……
……まだまだ心許されぬ、一つの国の御空より、振る雨里迦の一時雨、木枯さへも加はりて、山の尾の上の紅葉も、果敢なく散りて小男鹿の、泣く声四方に竜田山……おちこちの寺の金仏、金道具、釣鐘までも鋳潰して、御国を守る海陸の、軍の備へに充つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理に成ります金山の、彦の命の御代と化り、下国民の持物も、金気の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る物の具と、造り代へでも足らぬまで、迫り来るこそ歎てけれくに挙り、上は五十路の老人より、下は三五の若者が、男女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず……
と示されてある。この神歌の与えた影響はおおきく、また印象深いものであったので、信者のおおくは、これを暗誦していた。そして、浅野らがとなえた「大正十年説」とむすびつけられたりもした。すなわち、浅野は一九一九(大正八)年一月一日号の「神霊界」に、
……本年は大正八年である。弥の歳である。いよいよの年である。『三干年の世の立替えも迫りけり後の三年に心ゆるすな』。これは大正七年五月十日教主に神懸まして詠まれたる二百首中の一首である。後の三年の第一年は本年である。
と、立替え立直しの時期を断定し、開祖の昇天も、時節の切迫による神界における「予定のプログラム」であったと説明している。
当時における宣教の方法は、ひとつは印刷物による文書宣伝であり、他のひとつは全国各地における座談会・公開講演などの言論活動であった。その宣教内容は、要約するとつぎの諸点にまとめられる。
一、宇宙意志即ち創造主による三千世界(神・幽・現)の立替え立直しの断行の時節が切迫している。そこでその神命を受けた国常立尊(艮の金神)が出現して立替えを実現する。
一、正神界の神々は悉く神定の中心霊府である綾部に神集いし、国祖の立替え立直しに参加し、世を持ち荒らした邪神界の神々と大戦いをしている。
一、日本は惟神に、昔から神が蔭から守護していた神国であって、世界根本の経綸地である。日本の天皇は世界統一の天賦の使命を惟神に具有しており、その使命遂行の時節が天運循環して来た。
一、日本人は、本来、神の直系の霊統を賦与されており、他の民族よりは優秀で、世界をおさめる天賦的使命を持っている。
一、立替え立直しは、神界・霊界より現実世界におよび、守護神・人民の改心ができないときは、大三災すなわち風水火、小三災すなわち餓病戦によって大掃除・大洗濯がおこなわれる。また大地の隆起するところもあれば、海中に陥没するところもある。
一、日本と世界の大戦いが起り、連合した世界の戦艦・兵力は一たん日本に引き寄せ、最後に神威発動して富士の爆発、鳴門の渦巻きによる大変動で全滅せしめられる。
一、政治は祭政一致によって神政が成就し、経済は金銀為本を改め稜威為本となり、私有財産は撤廃される。社会秩序は三段階の身魂の霊性に従って立別けられた分野で秩序づけられる。
一、改心せぬものは、一人の例外もなく神界の裁きを受け、凶悪な身魂は生存を許されず、永遠に滅亡させられる。従って改心のできない場合は、人民は三分に滅却させられることもある。
一、大本神諭の予言と警告は、一分一厘の錯誤もなく、絶対的なもので、皇典古事記の言霊的真解釈によっても、そのことが証明される。
さきにのベた「綾部新聞」は、当時一部一銭の購読料で発行され、郵税は五厘であった。「綾部新聞」は一九一八(大正七)年二月四日創立された「皇道普及会」によって、綾部地方ばかりでなく、全国の各官庁・市町村役場・各学校・各連隊・各艦船等にたいしても無料で配布され、信者のそれぞれもまた知りあいの人々にくばりあるいた。皇道普及会は、無料配布の財源を信者または有志の寄附に求めたが、この主旨に賛同して寄附に応じたものは、全国各府県におよび、多数の信者や共鳴者が協力した。とくに海軍々人に浸透しており、その事実を裏づけるものとして、各艦船の名によって寄附金が送られていることが、寄附者名簿によって知られる。軍艦日向・松島・吾妻・安芸・八雲・筑摩・秋津島・香取・薩摩などのほかに、軍艦名を秘してはいるが、匿名によるものも相当多数あった。
海軍に熱心な共鳴者があったように陸軍にも賛同者があった。陸軍の方は、各連隊の将校集会所などにおいて大本の講演がおこなわれていた。そして、ときには鎮魂帰神がほどこされ、福岡連隊のごときは、青年将校を綾部に派遣して研修せしめた実例まである。宗教宣伝が、このように軍人に浸透し、市の公的場所において、公然と宣教することが許されたということは、かつて前例のないことであって、大本の主張が、軍関係者に共感をあたえるのに適した教説をもっていたといえよう。
一九一八(大正七)年八月、日本はシベリア出兵を宣言した。それはロシアの社会主義革命の動乱が東亜に波及し、東亜の平和がおびやかされるというので、東亜の平和を確保するという名目で、日米は共同出兵をした。しかし、日本が米国と協定した兵力は一万二〇〇〇人であったが、日本はその協定を無視して七万二四〇〇人の大軍を派遣したことから、日米関係は非常に悪化し、その影響は日英同盟にも不安をもたらすに至った。したがって日本は同際的にも孤立することとなリ、ひいては日本対世界の戦争という危機感が、一方にかもしだされてきたのである。
一九一八(大正七)年に入信した江上新五郎(陸士卒後、一九一二─明治四五年病気退役)は、一九一九(大正八)年一一月二日号の「大本時報」で「日米の葛藤は何時解決せらるべきか」と題して、大陸の利権と植民地の支配を失うか、さもなくば即戦即決によって解決せよと主張しているが、当時大陸政策は日本将来の国策として重視されていたので、日米間の紛争は次第に日米戦争とか、日本対世界戦という想像がなりたつほどに深刻にうけとめられていた。しかも、日清戦争後における山東省還付をめぐる三国干渉によった屈辱感がまだ残っていたし、欧州大戦後の軍縮問題が、軍人層をおびやかしていたときでもあったから、国家の危機という意識は、軍人層にかなりのたかまりをみせていたのである。そうしたときに、神の意志にもとづいた「日本の天皇による世界統一の時来る」という大本の主張がなされていたのであるから、危機意識を濃厚にしつつあった軍人層にとっては、大本の主張するところは、彼らを強く感動せしむるところがあった。
秦陸軍中佐(のち憲兵司令官)は、さきに、参謀本部から欧州の戦場へ戦況視察のために派遣されていたが、帰朝後まもなく大本を知って参綾し、教主王仁三郎に面会して、世界覆滅の隠謀に関する「シオン議定書」という書物を手わたし、滞欧四年の間にえたところの結論と大本の所説が合致するというので入信した。そしてつぎのように語ったと、「神霊界」(大正7・12・1)に記されている。今や欧州各国の人々は実は戦争の惨禍をシミジミと痛感して、此の地上から戦争を根絶せしむべく、偉大なる統一者の出現せんことを衷心から渇望してゐる。その統一者は何者たるか解らぬが、兎に角ある超越的威力が現はれて世界を統治してくれれば良いと熱望して居る」
こうした考え方は、当時一部の識者の間にも漫然といだかれていた。不安と焦慮を有する人々、まして軍人層には、その統一者は日本の天皇によるものであり、そのことが神意でもあり、また皇祖の遺訓でもあって、天運循環していよいよ世界が統一されるときが到来したのだという大本の宣伝は、おおきな光明とうけとられたのであろう。
〔写真〕
○全国的宣教活動が強力に展開された馬あり 自動車あり 太鼓あり…… p396
○時節の切迫をつげた綾部新聞 p398
○神と人との世界改造運動 p399
○神霊界に掲載された瑞能神歌の一部 p400
○皇道大本神歌 p400
○青竜隊機関誌 p403
○地方で大本講演会の開催をしらせたビラ p404
○軍人層に危機意識がふかまりつつあった p405