第一次世界大戦の勃発は、政治的・経済的にゆきづまっていた当時の日本にとって、天佑とうけとられもした。たしかに対独宣戦、それにひきつづく山東出兵や対支二十一カ条の要求などの一連の過程は、日本の対外的発展としていちおう成功であるかにみえた。欧米商品がアジア市場から後退した間隙を、日本商品がうずめ、対外輸出も一九一五(大正四)年の下半期からにわかに躍進した。産業別による総生産額も一九一四(大正三)年から一九一九(大正八)年の間に、三倍以上に増大したほどである。とくに工鉱業関係においてめざましく、その生産物指数は一九一四(大正二)年を一〇〇とすれば、一九一八(天正七)年には二三〇にまで上昇している。戦争による好況は、企業の新設拡張となり、同じ期間に工場数は一万二〇〇〇、労働者数は実に九四万八〇〇〇人から一六一万人へと増加している。当時の産業界の中心をなしていた紡績・織物の部門では、一九一四(大正三)年の計画資本にくらべて、一九一九(大正八)年には、実にその九七倍というすさまじい発展をとげている。三井や三菱といった大銀行を背景にもつ大資本の支配も、このように産業が発展すればするほど強大となっていった。巨大な資本家の利益率は、公表のものによってみても、戦前においては一〇~二〇%であったのにたいして、一九一八(大正七)年の下半期には、海軍一九一・六%、造船一六六・六%、綿紡業一一六%、鉱業一六七%とされている。「秘密積立金」という名目の利潤が、巨額にのぼったことは多言するまでもない。こうした産業の躍進と発展とが鈴木商店や内田汽船のような船成金を続出させたのである。しかし、そのことによって民衆の生活もまた豊かになったのではない。ある歴史家は、当時の労働者の生計費指数と実質賃金指数を、つぎのように算定している。
年次 一九一四年(大正三) 一五年 一六年 一七年 一八年 一九年
生計費指数 一〇〇 九三 一〇一 一二四 一七四 二一七
実質賃金指数 一〇〇 一〇八 一〇五 九八 九二 一〇二
すなわち景気の絶頂期、一九一八~一九年には、はだらく人々の生計費は、実質賃金の二倍にもたっしている。
好景気によって、逆に、下級のサラリーマンや都市の貧しい多数の人々のくらしは、日に日に耐えがたいものになっていったのである。農村も例外ではない。大戦前においては、米価は他の諸物価よりも高くなっていた。それが大戦になって、石炭・鉄・綿糸といった大工業生産物の値段は急騰していったのにもかかわらず、米価は逆に低くなり、一九一五(大正四)の一月には「米価調節令」がだされて、米価の引上げがおこなわれるほどであった。そして一九一八(大正七)年からは米価の急騰をまねき、やがて米騒動がおこった。それでも独占物価の高騰にはおよびもつかず、農民のくらしもまた苦しくなっていった。
当時の農業の状態を調べてみると、いくつかの特徴があげられる。耕地面積や米穀数量は増加し、養蚕などの副業が生糸景気とともにさかんとなった。だが好景気と裏腹に、農村でも、富むものと貧しいものとの差が、きわだってあらわれてきた。すなわちこの時期にめざましいのは、五反百姓クラスが減少する一方、反対に一町~二町以上といった大経営がふえ、兼業農家の数もへっている事実である。貧農層は生産工業の都市に流出し、農村にあっては中農以上の大経営が重きをなすにいたる。これが第一の特徴とすれば、第二の特徴は、米穀生産においては、あいもかわらずの寄生地主制の圧力があって、大地主は急速に発展したが、中堅の自作農が土地をてばなして、零細所有者や小作農となり下っていったことである。
大戦の好景気に反比例して、はたらく人々の生活が貧固化してゆくなかで、政治にたいする民衆の不満がたかまっていった。労働者のストライキ件数は、一九一六(大正五)年には一〇九件(参加数八〇〇〇人)であったのが、翌年には三九八件(参加数約六万人)とふえ、小作争議が、一九一七(大正六)年には八五件であったのが、一九一八(大正七)年には二五六件、一九一九(大正八)年には三二六件と増加の一途を示すのも偶然ではない。米騒動は、それじたい政治的・思想的目的をもった運動ではなかったが、全国的な民衆の蜂起は、ついに寺内内閣の崩壊をもたらし、わが国最初の政党内閣が出現するにいたっている。
このような社会情勢を背景として、大本の宣教が、思想的動揺に対応して国民各層の間に浸透してゆくのである。
〔写真〕
○戦争成金を風刺した図 p407
○大正期の労働運動 民衆の生活は苦しく政治にたいする不満はたかまってきた p408
○大正期の農民運動 農村でも貧富の差がきわだってきた p409