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地方宣教

インフォメーション
題名:地方宣教 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:409 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195401c2313
 宣教の方法は、座談会や各地における公開講演などにより、ときには街頭演説によってなされ、はげしい口調で大本の主張が強く大衆に訴えられたのである。東北・北陸・関東・東海・近畿・山陽・山陰・四国・九州などと、その範囲も全国的ひろがりをみせる。そして、二人または三人が一組となり、宣伝班を組織して、地方の信者と連絡をとりながら、都市といわず農村といわず、活発な宣教活動をくりひろげた。
 それらの宣伝班が宣教したところの宣教内容というのは、前記に要約したところの内容を、各自がめいめいに肉づけして、自由によびかけたものであった。統一的な宣教要領があるわけでもなく、したがって自己の発言内容を確定し証明づけるものとして、開祖の筆先や、あるいはまた出口王仁三郎の随筆や論文などを、各人各流にうけとって、時局問題とからませて強調したものがおおかった。
 そして宣伝班のいでたちは、ほとんどが長髪の姿で、紋付羽織にタッツケ袴(もんペ)を着用したものであった。その当時の信者には頭髪を切るものはすくなく、髪は神に通ずるかけ橋であるという霊的な解釈によって、頭髪をのばす一種のムードが支配的であったといえる。宣伝班のものが頭髪を後頭部に紐でむすんで、鎮魂実施のときに必要なものだといって短刀を袋に納め、これを腰にさしている姿は、一般の人々から異様な風態とみられもしたのである。その異様な姿の大本人が壇上にたち、あるいは街頭にでて、「時は迫れり……守護神も人民も速やかに改心せよ」と熱心にさけぶのであるから、多数の人々が奇異の感にうたれたのも無理はない。一九一九(大正八)年頃、大本の青年隊員は、それにさらに輪をかけたように、長髪にハチ巻きをし、白衣・タッツケ袴で馬にまたがり、大声で街頭宣教をおこなったりもした。こうした活動が目立ったために、大本にたいして「長髪族」だの「予言宗教」だの「怪教大本教」だのという悪評がつけられるようにもなった。
 大本の宣伝活動が全国的に拡大されてゆくにしたがって、その反響がさまざまな形であらわれてきたことをみのがしではならない。
 欧州大戦後半期から、ヨーロッパには「心霊主義」の思想がだんだん芽ばえ、その思想が大戦後の日本へも流入してきた。大戦によってたくさんの死亡者をだしたヨーロッパの人々は、「死と死後の世界」という問題につきあだり、彼らを支配していた既成宗教にその解決を求めたのであるが、宗教はそうした問題に満足な回答を示さなかったところから、自然発生的に、心霊研究の形において、一種の心霊主義の思想がおこってきたのである。
 日本においても、ときを同じうして、社会の矛盾と不安を背景に、既成の諸宗教にたいする期待が失われ、自分の魂を深くみつめようとする人々がおおくなり、霊魂の問題や人生の問題あるいは神によって救いをえようとする人々が、心霊主義的な方向にかたむいてきた。大本の宣教にあっては、神霊の実在や、鎮魂帰神による霊魂の実在などが裏づけされていたので、こうした精神主義・心霊主義にかたむいていた人々にも強い影響をあたえることになる。ことに大本では人生の本義を説き、人は神の分霊であることを明らかにし、したがって神と人との関係、霊魂の実在とそのありかたなどが力説されたのであるから、おおくの心霊主義者たちに共感を与えた。
 松江から発行されていた雑誌「彗星」が大本の動きに関心を示したことなどもその反応のあらわれを物語る。同誌の主筆岡田建文(射雁)は一九一七(大正六)年一二月、大本の主張にひかれて綾部に参拝した。そして、鎮魂帰神に感動し、松江に帰るや、ただちに「彗星」に「皇道大本」と題して紹介記事を連載しだした。その連載は一九二一(大正一〇)年二月、第一次大本事件後もなおつづけられた。そのおよぼした影響は相当なものであった。
 同じ松江で、雑誌「心霊界」を発行していた「心霊哲学会」の木町鬼仏が、岡田につづいて一九一八(大正七)年一月綾部に参拝した。その動機も岡田とほとんど同じであって、大本の立替えの予言・人生の問題・鎮魂帰神の法などは、これまで木原が主張してきた人生論や心霊術、さらに治病の方法をはるかに上廻る高度のものとうけとめられ、同年三月には、「心霊界」に「皇道大本号」という特集をした。そして翌八年四月に「国体号」を特集し、「予二十年来いささか霊界の研究に身を委ね、傍ら心身健康法を宣伝していたが、今回敢然起って日本人たる天職を全うし、君国のために微力を尽して活動せんため丹波国綾部に転住する」と発表するにいたった。そしてついに「心霊界」を廃刊して松江を去った。「心霊哲学会」の支部は、大正七年三月号の同誌の発表によると、その当時、東京・長野・京都・熊本の四市、富山・三重・山形・千葉・愛知・岩手・佐賀の七県にあり、投稿者も青森・徳島・大分・沖縄などというように、かなりの地域にまたがっている。その主宰者である木原のこうした言動が、おおきな反響をよんだことはいうまでもない。
 「彗星」・「心霊界」の発行地が松江であり、その論説は、地元だけに、とくに山陰地域における影響には注目すべきものがあり、大本宣教の先駆的役割をはたしたといえる。こうした心霊主義者の動きもあって、山陰地方における大本の信者ば急激にふえ教勢の発展に寄与した。
 岡田・木原について活躍した人に小原禎次郎(朝日新聞山陰営業部)がある。これらの人々についで奥村芳夫(朝日新聞取次店)・室田勝三郎・湯川貫一・梅村隆保(医師)らが入信し、さらに藤原勇造・吾郷勝哉(地主)・三上三樹・原田益市(茶商)らが入信し、島根県下の話題となった。
 のちに大本の最高幹部となった井上留五郎は、松江の引力な医師で日ごろから人望があったが一九一八(大正七)年八月、綾部にまいって王仁三郎に面会して入信し、一九一九(大正八)年の三月には綾部に転住した。
 湯川貫一は、一八九五(明治二八)年より七年間大社教本院につとめ、のち、松江商業学校の国文の先生となった。とくに和歌の道にすぐれ、大正天皇即位のさい公募した祝歌が第一席に入選したこともあり、県下では著名な人物の一人であった。湯川も井上留五郎よりややおくれて綾部に移住し、奥村芳夫も同じく綾部に移住した。
 一九一八(大正七)年五月五日には、松江市材木町に大日本修斎会松江支部が結成されていたが、またたくまに会員数は五〇〇人をこえるほどになった。しかしそれらの会員は、「会員でなければ鎮魂帰神は行なわない」という規約をつくっていたので、そのすべてが確実な信者であったとはいいがたい。霊的施術によって「おかげがたつ」という治病にひかれたものもおおかったようである。したがって、同年一一月、開祖の昇天をきくと、「立替え立直しをされるはずの生神さまが、もうこの世にいないのでは仕方がない」といって、一部には脱落する会員もあったという。奥村芳夫はそのころの日記に、「迷信家連の中には弘法さんや稲荷さんと間違え、失せもののあり場所、よめの選択、身の上判断、はては、芸娼妓がお客の様子伺い」などにもつめかけてきたと記している。それによっても、その当時の信仰のあり方が推察されるとともに、鎮魂帰神が、その本来の意義を逸脱して治病的な施術に転用されたかたむきのあったこともうかがえる。
 大本七十年史の編纂にあたって、生存者のなかで、一九一八(大正七)年から一九二〇(大正九)年の間に入信した人々について、入信の動機を調査したが、その結果によっても、立替え立直しの教義・鎮魂帰神によって入信した人々が圧倒的におおく、入信者も山陰地方のみならず、北海道・宮城・関東・京都・岡山・愛媛・熊本・長崎・壱岐と全国的なひろがりをもち、地方への宣教が浸透していったことがわかり、それはひとり山陰地方に限定された動向ではなかった。
 当時心霊主義の雑誌として、大本関係者とはげしい論争をおこなったものに、束京に本拠をもっていた「太霊道」がある。「太霊道」は全国的に会員をもち、心霊主義にたつものとしては国内でも有数な雑誌であった。はじめ浅野和三郎が、太霊道本院の指導部と鎮魂帰神のことから論争し、たがいにその霊術の優劣をあらそった。その結果、「太霊道」は毎号大本攻撃の記事を連載しだした。しかし読者は、そのためにかえって大本に興味をもち、研究のため綾部をおとずれるものがおおくなり、逆効果をまねいて、ついに大本に入信するものすらがでた。
 こうした心霊主義的な霊的関心のみで入信した人々は、開祖の昇天と第一次大本事件という大正期後半の二つの大きな試練にあって、信仰的には停滞し、社会からの批判の目をさけるようになり、いつとなく脱落してゆく。だがそれに反し、たとえその動機は霊的関心からではあっても、あるいは大本の予言に興味をもった人々であっても、しだいに立替え立直しの真意を理解し、また社会の変遷の必然を信じた人々は、試練にもたえて、信仰の道にふみとどまったのである。そのことは、前記アンケートの調査結果に照らしても、病気治癒をてがかりに入信した人々が、おおくの場合、大本の教義・主張への信仰的深化の道をたどっているのにも見出される。
 農業生産に依存する率の高い地方では、大正期の貨幣経済の膨張にともなう農村の分解─中間層農民の没落と、下層農民の困窮はとくにいちじるしかった。そのこともあって、大本のいう立替え立直しへの理解は、これらの地域の人々にはきわめて自然に入っていった。藤原勇造の入信の動機と経路は明らかにそのことを物語っている。
 藤原は島根県の山間部にある仁多郡の地主の家に生まれた人であった。若くして県農会の技手となり、農山村の指導のため県下を歩く機会がおおく、困窮する農村の実態を身をもって体験していた。したがって藤原は、金銀為本を排し、私有財産を国家に奉還し、天産自給と、国家経綸としての規模で土地為本をとくところの大本の主張に、ただちに共鳴したのである。
 こうした大本の宣伝が大正期の農村の荒廃と不安にたいし、立替え立直しを前提として、農民層に希望的な救いの声となって全国的に浸透した。
 一九一八(大正七)年の六月二九日から七月九日まで、鳥取・松江方面にかけて浅野・小笠原・成川・友清らが宣伝にでかけているが、これらの人々は、旅館や劇場を講演会あるいは鎮魂帰神の会場にし、活発な宣伝活動をおこなった。その結果翌年の一月になると、一日から二五日までの間に五〇〇余人の参綾者をだすというさかんないきおいとなった。
 出雲地方の教勢発展にたいする社会的反応は、他の地方よりも早くあらわれた。松江の「松陽新報」は「大本の教勢がのびていることは、社会問題である」とし、大正八年二月三日付の紙上で「……この邪教が多少の知識階級に属する種類の人物を其の信仰者の裡に加へてゐるといふ事が、衆愚を惑はす一つの理由でもある。いやそれよりも、そんじょそこらの軍人・教師、さては判官・医師などで自己本然の性はどこへやら、この教義の信仰者たる事を絶大の名誉と心得、半狂乱の体になって騒ぎ廻るこそ真に呆痴の骨頂、馬鹿の行止まりといふべきでは無いか」とのべている。
 大本の発展によって直接の影響をうけた宗教界の反応はとくに敏感であった。一九一九(大正八)年の二月二一日には、島根県神職会の松江支部が、市役所で例会を開いて、つぎのような決議をおこなっている。
最近流行を極めんとする綾部皇道大本会は、公安を害し社会を撹乱する伝導なるにも拘らず、神職にして往々信者となり陰に陽に是れが伝導に従事し、又同会の主義として長髪を蓄へ異様の形装をなし、神社に奉仕して憚らず、甚しきは大本会本部の大本土木事業に際し、土方人夫に服役するが如きは、全く神職たるの本分を没却し、神社の尊厳を失墜するものと認むるに付、当支会に於ては取締方法として左記の通り決議す。
一、部内神職にして、大本会を信じ又は信ぜんとするものに対し相当の注意を与へ、応ぜざる者には辞職を勧告する事。
二、前項により辞職勧告なしたる時は、同時にその旨監督官署及び本会に報告し、一面氏子総代人、崇敬者総代人に通告する事。
三、前各項を履行したるときは地方新聞に依り広告する事。
 この事件を「松陽新報」は「皇道大本は神道の敵」と題して報じているが、大本の方では「神霊界」大正八年四月一日号の「編輯室より」で、「島根県の神職会が、皇道大本は神道の敵であると決議したさうですが、コレは米櫃の敵といふ意味の間違ひであらうと思ひます」とこたえて、これを一蹴した。
 ときを同じうして、波紋は教育界にもおよんだ。大正八年二月二一日付の「松陽新報」は「社会問題となれる皇道大本教」と題して、つぎの記事を掲載した。
最近主として松江市外四郡に恐ろしい勢力で波及しつつある皇道大本教に対して、昨今漸く社会から疑惑を以て注目されるやうになった事は、しばしば報道した通りである。無智愚味な階級者のみに其迷信者があるならば兎も角、智識階級の中に比較的有力な信者があることによって、一般信徒が日一日と増加しつつあるは実に寒心すべき事で、此点に於ては島根県の其筋に於て早くも注意を怠らず、各方面に亘って警戒を加へて居る風である。……皇道大本教に就て漸く島根県教育上の問題となり、即ち島根県庁にては二十日午後一時から市内県立学校長を県庁に招集して対大本教の協議会が開かれた。参集せるは若杉師範・西村松中・船津農林・西村工業・飯野商業の五校長および松江高女長代理武用教頭で、学務課長室で開かれた。各関係者のほか原保安課長、田中県視学等も列席、劈頭、下村学務課長開会の趣旨を述べて、各学校長から順次其校に於ける大本教信者の有無等を報告させた。要するに……大本教の信者が単に信者であるならば当局としても何も云ふ事はできないが、近来のやうに正業を捨て或は学業を卒へる事を一、二ヶ月の先に控へた有為の青年が中毒されて学業を捨てる者があるのは、独り教育上の問題のみでなく由々しき社会問題であるから、県の学校当局としても此際、この大本教に対して、どんな態度を執るかといふ方針を一定して置き度いとの趣旨に外ならない……
 そしてその結果
学校教員等がこの大本教を伝導し、文は勧誘する如き事があっては、生徒教養上害毒を流す虞があるから、伝導するやうな教員に対しては、その校長から十分勧告して之れを止めさせ、一面校長は常に教員生徒に対して十分注意を加へ、若し生徒に其信者があれば、校長から警告することに申合せを為し、且つ教員中強いて伝哩する者があれば、学校を退職して伝導する様に勧告するやう申合せを為し……
 島根県学務課が、保安課長をくわえてまで開催した協議会の直接の原因は、大本の発展が社会の大きな問題となり、そのうえ商業学校の湯川教諭が綾部へ移転することになっているほか、農林学校の某教諭が伝導したこと、松中の五年生林原某外二人が学業を放棄したなどにあったが、大本の活動が具体的となり、入信者の数がふえると、社会もまたその動きに注目し、批判と攻撃をくわえることになる。
 真宗王国とうたわれた北陸地方でも、一九一八(大正七)年から参綾入信者があり、一九一九(大正八)年には石川県の山代・小松・大聖寺などに会合所ができ、金沢では高沢善七が「大本金沢研究所」(のち会合所)を開設した。これらを拠点として、大本の宣伝が北陸地方にもひろがりをみせ、仏教にたいする批判として末世法滅の思想をうちだした。そのため、まず小松地方では、真宗門徒たちによるはげしい大本排斥運動がおこされ、その運動は、ついに金沢方面にも波及した。同年の暮から翌一九二〇(大正九)年のはじめに、岩田久太郎・深町泰仁ら石川県出身の本部役員が北陸宣教をおこなったさい、講演会場にあてられていた金沢市公会堂に、地元の僧侶や仏教徒が押しかけ、公会堂の入口で聴講にきた人々を追いかえすという事件がおこった。当時(大正八、九年ごろ)の信者の語るところによれば、「本山はそうでもなかったかもしれないが、小松市の寺院の僧たちが先頭にたって反対運動に立ちあがり、真宗の小松教務所長(東本願寺派)がその動きに突きあげられた形で、門徒にたいして大本への批判をおこなった」といい、そしてそれはかなり組織的なものであったという。
 当時の石川県は、県知事が自動的に石川県仏教会長となり、郡長は各郡仏教会の理事長、町村長はその土地の仏教会支部長になる仕組になっていたというが、その下にはまた町内・村落ごとに「講」が組織されており、毎月開かれる講のあつまりで、教務所長や寺院の僧侶たちが、まず大本攻撃の説教をおこない、「必ず大本の教に迷ってはならない」と指示してまわったという。のちには「大本撲滅」の新派劇を上演したり、大本問答のパンフレットを発行したりして、執拗に排撃の子をゆるめなかった。
 これらは一つの例にすぎないが、大本の信者になったものは、それまで所属していた神道の「講」や、仏教の寺院より脱退して、冠婚や葬祭、あるいは法要にいたるまで辞退し、大本式に切りかえたため、全国各地において大なり小なり紛争をおこし、ところによっては宗教的な村八分をつけるところもあった。これらの攻撃にたいし、大本の講師らは、随所に反論をおこない、いたるところで言霊のたたかいがくりひろげられた。
 これよりさき金沢でも、教育界において問題がおこった。一九一九(大正八)年四月、石川県立金沢第一中学校三年生の渡辺宗彦が寄宿舎で、「間もなく立替え立直しがあって、世界がひっくりかえる。サギ師の代議士や生クサ坊主なんかも平らげられる」と話したのがはじまりである。まっさきに高橋伝内・浅井昇等が共鳴し、やがて寄宿舎にいた三〇数人がそろって、大本金沢研究所をおとずれて、神諭の拝読や鎮魂帰神を盛んにおこない、大本講演会を開いたときは、金沢市中を制服のまま宣伝しだした。
 とくにはなはだしかったのは、浅野と深町が宣伝にいったとき、長髪に紋服の深町が、由比正雪をしのばせる恰好で馬上にまたがり、金沢一中の学生二〇数人は、「敬神尊王報国」と大書した旗のぼりを一〇数旒持って市内をはげしくデモンストレーションした。これが地元の新聞はもちろん東京・大阪の新聞にも報道されたので、県当局は放置するわけにゆかず問題となった。学校では一人々々に校長が説得したが転向の模様がなく、かえって夏季休暇には、学用品を売り払って綾部へ修業にゆくという状態になった。そこで県当局は、石川県議事堂に、金沢第一・第二・師範・工業の各学校の三年以上の生徒約一〇〇〇人を集め、中村古峡を招いて「大本は淫祠邪教」という講話をさせ、入信者を防止しようとした。そして渡辺は元兇とみなされ諭旨退学させられた。ついで高橋が退学した。
 渡辺の父宗三郎(大聖寺会合所長大沢十次郎の兄)は、台湾で事業をいとなんでいたとき、岩田久太郎と知りあい、一九一八(大正七)年に入信して、故郷の石川県大聖寺町(境加賀市)に帰っていた。その子宗彦は父の信仰に同調したのであるが、高橋や安達は家庭には無断で単独に入信したのである。ことに高橋の場合は既成宗教にたいする青年らしい反抗がやどされていた。
 高橋の家は石川県吉野村、つくり酒屋をいとなんでいた。高橋は実家には内緒で綾部へ修業にいったが、「母キトク」の偽せ電報でよびもどされた。彼はそれらのいやがらせに反抗して実家を出奔し、綾部で奉仕生活にはいった。すると父から「絶縁状」が送られてきた。高橋の語るところによると、彼の家はつくり酒屋であったため、寺への寄附はいつも高額であった。しかもそれらの寄附金のつかい方は、ときには寺僧の家族の進学とか嫁入りとかの私事にわたるものをふくんでいた。彼は仏教教義にすぐれた面もあることは認めながら、檀家制の不合理さと因習と束縛による地域社会の悪弊に、不信と反抗の心を強めていたのである。
 こうした中学生二人の退学は、金沢一中の学校当局や県学務課で問題になり、寄宿舎に集団的に学生をおくことは、大本の宣伝がしのびいる好適の場所となることをおそれて、寄宿舎を解散廃止してしまったほどである。これらの社会問題は多分に地域的なものであったが、しかし各地に頻発してきだしたので、全国的に問題化されるようになってきた。
 教育界で大本のことが、さらにおおきく注目されだしたのは、岡山の第六高等学校の生徒のなかから入信者があらわれはじめたことによる。
 六高に在学していた松江の木原鬼仏の子の鉄之助は、鬼仏から大本の話をきいて入信した。一九一八(大正七)年の一二月、京都で全国高等学校柔道大会が開かれた機会に、彼は同校の大会出場者、浜田・受川をさそって綾部で一週間の修業をした。そして彼らは岡山に帰るや、すぐさま一軒の家を借りうけ、共同の生活をはじめた。「氷を割っては米をとが、霜を踏んでは薪を集めた。未明に起きて祝詞を奏上し、夜は灯火の下で火鉢を囲み夜の更けるまで同志と談論し、或は深夜山に登って幽斎の修行をした。当時は只熱烈の一方で、立替えが明日にも来るぞとばかり大変な緊張ぶりでした」(入信の経路)という調子だったので、たちまちそのことが評判になった。
 高見元男(現三代教主補)は、「大本時報」(大正9・10)に
「今年の梅の花の盛りの二月のある日だったと思ふ。それもフトしたことから、私は始めて皇道大本に就いての真相を学友浜田君から聞くの光栄を得た。私の学校には木原君が最初で、受川、浜田、山田の諸君等は既にこの頃『獰猛なる大本信者』として、一般学生、教授間の話題に上りつつあったのだ。何といっても浜田、受川、木原共に柔道の有段者、今は二段揃ひの上に、最初の程は鼻息は荒いし、怖ろしい妙な眼をしてみんなを脱みつける様に思はれて、大抵の者が慄へ上って『変な人達だワイ』位いに思ふて避けたものだ。……浜田君の一度の説明で客観的神霊の実在といふ事は略々解ったがしかし此時『是非一度綾部へ出掛けねばならぬ』と決心した。『六高の大本信者』として前記四人の生活振りを初めて新聞に連載されたのもこの頃であった」と、当時のことが回想されている。
 学生・教授間の話題から、そのことが新聞記事となり、だしたころ、高見のほかに白石捷一・小山昇らがつぎつぎに入信したので、教育界における反響もすくなくなかった。
〔写真〕
○宣伝用のタスキ p410
○本部に呼応して宣教に立ちあがった地方の信者たち p411
○彗星 p412
○彗星につづけて紹介された皇道大本 p412
○心霊界 p413
○心霊界につづけて紹介された皇道大本 p413
○王仁三郎自筆の心霊界発送の帯封 p414
○地方からはつぎつぎと袂別の辞をのこして綾部へ移住してきた p414
○太霊道 創刊号 p415
○松陽新報に渇載された大本批判・攻撃の記事 p417
○大本の主張は教育界・宗教界におおきな影響をあたえた p419
○仏教会がだした檀家への警告 p421
○金沢第一中学校事件を報道した新聞の記事 p422
○大衆の前進 大正デモクラシー p423
○軍事教練中の第六高等学校の生徒 前列右から2人目 高見元男 p424
○修業案内の広告 p425
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