一九一九(大正八)年いらい調査をかさねてきた藤沼京都府警察部長は、大正一〇年の一月、平沼検事総長から最終的な命令をうけると、ただちに検挙の準備にかかった。不敬罪ならびに新聞紙法違反の容疑で検挙する方針がたてられ、主任検事が決定された。そして、二月一二日の早朝を期して、大本本部ほか数ヵ所を家宅捜査することもに、王仁三郎ら三幹部を検挙することがきめられた。検挙のための準備は、すべては極秘裡におこなわれた。この事件のいわばもっとも強力な推進者であった藤沼にとって、その日は一日千秋の思いで待たれていたに相違ない。
一九二一(大正一〇)年の二月一一日の夜、藤沼は、官舎から直接電話で、市内各署長を召集し、はじめて大本首脳を検挙し、主要箇所の家宅捜査をおこなうことをつげ、巡査約一〇〇人の非常召集を命じた。藤沼は「署長官舎に直接電話したのは長い警察生活中これが唯一度(『私の一生』)というぐらいに気おいたっていた。
翌一二日の午前六時、京都駅に集合した警官隊は、新舞鶴ゆきの乗車券をわたされた。各警官は、年度末の演習のためか、ストライキの鎮圧のためか、動員の目的がなんであるか見当のつかないままに乗車させられた。藤沼は二条駅発車後になって警察官にたいし、はじめて目的を発表し、部署をきめたという。それほど機密の漏洩がおそれられていたのである。午前八時、綾部駅に到着、そこで福知山署や綾部暑の巡査約一〇〇人と合流した。京都地方裁判所の加藤予審判事・中田検事ら刑事七人に書記数人も同行して、総勢は二〇〇余人にもたっした。教団の家宅探査にしてはあまりにも、ものものしい陣容であった。
と同時に、一二日早朝には、検事局は全国新聞や雑誌が今回の事件を掲載することを禁止した。検事局の一行は綾部に到着すると、まず郵便局にたいして、司法権をもって綾部からの電話電報の発信を中止させた。さらに一二日現在の書簡全部をとどめおくことを命令し、これに見張りをつけさせた。ことに大本関係あておよび大本より各方面へだされる書簡は厳重に内容の検閲をおこなった。その後、大本関係の書簡は一週間にわたって検閲されている。
一方、大多数の警官は加藤判事・中田検事・藤沼部長指揮のもとに大本本部を包囲し、残りは役員宅の家宅捜査をおこなった。大本の周囲や神苑内の要所々々および各建物は巡査によってかためられたが、綾部町の要所にも巡査が配置された。郵便局にたいする処置といい、その包囲態勢といい、さながら戒厳令がしかれたようなものものしさであった。その日の大本本部は、手入れが早朝のことでもあったから、役職員も出勤しているものはきわめてすくなく、わずかに出版部の少年が二〇人ばかりと、修業者が散在するばかりであった。
王仁三郎は、九日以後大阪の大正日日新聞社に出張中で綾部にはいなかった。二代教主すみ子をはじめ、出勤していた役員らは受付の一間にあつめられ、不敬罪および新聞紙法違反の容疑でこれから家宅捜査をおこなう旨が伝達された。かくて一斉に捜査が開始されたのである。
栗田検事を首班とする第一班は、教主殿の捜査にあたった。すみ子の案内で、教主殿の各室や押入、あるいは箪笥・本箱・手箱などにいたるまでが捜査され、とくに王仁三郎の机・手廻り品・写真・掛軸・扇子のたぐいまでが点検された。さらに「神霊界」編集部をくまなく捜査し、日記類・往復書簡全部・以稿・写真・掛軸などが押収された。そのとき、一捜査官がすみ子に「錦の御旗はどこにある?」と質問した。すみ子は「それは旗ではなく、機のことで、大本のたてよとのしぐみのたとえです。そんな旗やのぼりがあるわけではない」とこたえたので捜査官も苦笑したという。
第二班は、小牧修斎会副会長の案内で、直日(現三代教主)の居間、元教祖殿・統務閣・祖霊社・祭務局を捜査し、神体の点検までを実施した。そして直日の日記・手紙類・巻物・写真・書き損じなどまでが押収され、また祭務局の帳簿や書簡類も押収された。
第三班の捜査は、直日の案内と立会のもとにおこなわれた。まず教祖殿からはじめられ、神殿は、直日みずからの開扉で神体の点検がなされた。ついで教祖殿うしろの錦水亭をしらベ、直日が新聞や雑誌に掲載された写真をあつめてつくっていた皇室関係の写真帳のほか、日記帳や巻物などをも押収した。捜査隊はこの家宅捜査で、教祖殿西側の倉庫から約二〇〇口の白鞘の日本刀を発見した。この日本刀は、信者の森良仁が献納したものである。保存されていた教祖の手箱からは、教祖直筆のもののほか、紙片のたぐいにいたるまでことごとく押収された。黄金閣にふみこんだ捜査班は、王仁三郎の書斎としてもちいられていた一階の一室から、王仁三郎の神諭原稿の合本全部のほかに、原稿・書簡・写本にいたるまでの一切を押収した。二階では教祖筆先の原本全部を押収し、神宝を点検した。三階には天津神算木が神算木台に奉置されていたが、これらは捜査隊には理解しがたいものであった。それでも唐櫃に奉安された十二の鶴石やミロク石までそのひとつひとつを丹念に点検した。
つぎに黄金閣の下の旧岩戸を捜査した。この岩戸は大正六~七年のころ、もっぱら特殊修業者の無言の行場に使用されていたところである。大正八年になって、そのうえに黄金閣がきずかれ、岩戸はそのままにされていたのである。だから周囲の池水がしみこんで五寸ばかり水がたまっていた。これがいわゆる黄金閣地下室として世上に十人生き埋めになっているとか、婦人暴行や紙幣偽造をおこなった場所であるとかと新聞にかきたてられた口実となり、世人の猟奇的な好奇心をあおるものとなったととろのものである。シャツとサルマタになった二人の警官が、旧岩戸を細かくしらべたが、もちろんなにも発見されなかった。
さらに金竜海・大八洲神社・六合大神社・蛙声園を捜査し、大八洲神社の神体および神社の下の岩戸におかれていた神宝数点が押収された。
みろく殿では、至聖殿の神体を点検し、筆先類を押収し、東石の宮・護国神社・三社神社の神体も点検した。最後の大八洲神社正面の機織場をしらベ、裁縫室で十曜の紋の教旗を押収して、第三班の捜査がおわった。
第四班は、桜井(同吉)庶務局長の案内で、庶務局・財務局・修斎会会長室、さらに炊事場を捜査し、帳簿や往復文書類を押収した。
第五班は、近藤出版局長の案内で、販売所・機械場・製本場・文撰植字場をしらベ、「神霊界」の原稿のほか校正刷までを押収した。
〔写真〕
○正月五日天 出口王仁三郎大正八年筆 検挙の日二月一二日は旧暦の正月五日にあたる p566
○権力も人間の心を破壊することはできない 本宮山神殿破壊直後の警察関係者 p567
○検挙時の大本の受付間近 p568
○非常線をはった警官たち 大阪朝日新聞社提供 p568
○教主殿内部 p569
○錦水亭附近 黄金閣のうら p570
○蛙声園(左)・幽斎室(右)附近 手前は塩釜神社 p571