九月にはいると各新聞は連日、王仁三郎の予審調書を連載しだした。公判を目前に、有罪が確定的であるかのような雰囲気をおのずとつくっていったのである。
九月一六日第一回の公判がおこなわれることになった。関係裁判官は佐藤裁判長・白井・中西両陪席判事であり、立会検事は事件発生いらいの主任であった中田および栗田検事であった。大本側の弁護人は、江木・足立・松岡・渡辺の四名がなり、特別弁護人として、湯川・篠原・岩田・井上が出廷することになっていた。公判の準備ははやくから進められていたが、予審調書は七巻二五〇〇枚、証拠書類は四〇〇〇枚にもなったので、その複写と調査に日時が必要であるとする弁護人側の要望によって、九月一六日の開廷に決定したのである。
九月一五日、二〇〇余人の信者に見送られて綾部をたった王仁三郎の一行は、修斎会京都支部におちついた。その日、王仁三郎ば新聞記者に、「敬神愛国の吾々が不敬事件で起訴されたのは全く意外であります。能く泳ぐ者ば能く溺ると云ふが、了度其のやうに筆の禍を受けたのでせう、マア何れ分る時がきますよ」。とかたっている(「大阪朝日」大正10・9・15夕刊)。
翌一六日、注目の大本事件第一回公判は、京都地方裁判所刑事第二号法廷で開始された。傍聴人は約一〇〇人ばかりで立錐の余地もないほどであった。中田検事が予審決定書にしるされた八項目の起訴事実をのべ、第一日は王仁三郎の審理にあてられることになった。しかし、王仁三郎が責付出獄後に執筆して、予審の陳述をくつがえしている「弁護士の為に」にかかれている天魔坊・転倒坊についての審問の途中で、にわかに傍聴が禁止されることになった。十数人が特別に傍聴を許されたが、そのなかには、宮脇府警察部長・陸軍大臣の密命をおびていると報道されていた松原京都憲兵隊長と中村古峡らがまじっていた。そして以後の公判は、審理が廷外にもれぬようにと硝子窓を密閉して、厳重な警戒のもとに継続された。しかし、にもかかわらず、公判廷の状況はほとんど連日報じられていた。そのなかで中村古峡は、江木の弁論を公然と論難した。あるいはまた、弁護人の渡辺昭にたいして脅迫状がとどけられたり、そのことを家人のほかには口外しなかったにかかわらず、新聞にその事実が報じられたりしているというありさまであって、本宮山神殿は、公判の決定をまってとりとわされるとの風説が意識的にひろげられたりもした。
このような雰囲気のなかで公判が続行され、一七日は浅野と吉田の審理がおこなわれ、一九日には中田検事の論告があり、三被告にたいし新聞紙法違反として各禁銅二ヵ月、罰金五〇円を、不敬罪として王仁三郎・浅野にたいし懲役五年の求刑がなされた。これにたいして翌二〇日および二一日の午前中には、主任弁護人江木哀の、およそつぎのような趣旨にもとづく弁論が展開された。
江木はまず、事件発生の動機について、大本は恐るべき陰謀団であるとうわさされていたので官憲は弾圧を決行したが、証拠がないので古雑誌をもちだし、不敬罪の格印をおしたとのべた後、緒論にはいり、一九世紀は物質万能で霊魂の存在を認めなかったが、二〇世紀になってから催眠術とラジュームが発見され、霊魂を科学的に説明しうる時代になったとして、一九世紀の科学と宗教、二〇世紀の科学と哲学を詳論し、神霊の存在を認めなければならぬと断じ、現実界と関係のない神霊界の組織や治教を論じても、現実世界の日本の法律をもって罰すべき理由はないとした。
そして、「新聞上の記事は性質上神霊界の事にして現世界と何等の関係なきのみならず、事実にも亦現世界にあらざるは被告の陳述及び被告が裁判所に提出せる弁明書によりて明白である」と前提して、予審における陳述の変更についてつぎのように弁じている。その要点をあげればこうである。
第一、予審において被告は記事の不敬たるを認むるが如きも、自白にあらず。
第二、被告は予審廷において新聞上の記事中にある文句は天皇を指すなりと陳述したりとするも、それは神諭の解釈である。神諭は凡人の解し得べきにあらず。
第三、抽象的文字を以て書かれた神諭「上から下まで」・「二度目の世の立替」「天と地とを揃へて」・「天より此の世を見渡せば」・「○○○」・「大将」これらのことが何の所を指し、何時を指し、何れの人を指したか、到底何人もこれを知り得べきではない。もし本件が成立する要素は、新聞紙に公にせることが不敬罪となり、新聞紙法違反といふものである。然るにその記事は普通の国語の意義以外に何等の意義あるべき筈がない。「大将」といへば陸海軍の大将で、これが「天皇」の意義にはならない。「○○○」に至りては日本語か外国語かわからない。
第四、仮りに被告が予審において「大将」といふ語は天皇を指したものと陳述したとしても、それは被告が予審において国語以外に新たに創造した事実である。陳述自体は独立して別に不敬罪を成立するかも知れないが、本件事案は新聞記事を罪とするもので、予審は陳述を罪とするものではない。
第五、被告が此公判廷において予審の陳述を変更したとしても、二者何れの陳述が真実かわからない。法律心理学よりいへば、所謂威圧力により妄断的心理作用に陥るものさへある。
そして予審決定については、「神霊世界と現世界とを混同するのみならず、徒らに漠然たる形容文学をもって構成せられ、殆んどその意を解することができない」と断じ、八事実について左のごとき批評をこころみている。
第一、第七・第八事実は、天皇陛下の御行動を妄評したものとされるが、妄評の妄とは如何なることか、一つの形容詞に過ぎない。
第二、第二事実は、御叡慮を干犯するものとされているが、御叡慮とはそれがどうして明白になるか、予審決定には、その御意思の何物たるか、事実を示してない。それを干犯したりといふは妄断で、何かの感情が幻覚となったのではないか。
第三、第四・第五の事実は、天皇陛下の統治権を無視せるものとされているが、無視とはどういふ意か。統治権は政治問題に属し、これを皇室に関係あるものとはいへない。統治権を無視するのが不敬とは奇想天外である。
第四、第三・第六の事実は、天皇陛下の御威徳を冒涜したものとされてあるが、それは一体どういふ意か。威とは己の心にのみ存する感情で、客観的に存在するものではない。徳は、所謂君徳といふものであらうか、これは全然道徳的感情の問題である。東洋では、諌を容るるといふことが最も主なる君徳とされているが、起訴はよほど慎重に、確実な事実に基かないと、かへって君主に累を及ぼすことになる。
本件事案の全体を観察すると、予審決定は、
第一、霊魂と現世界とを混同し、
第二、刑法及び新聞紙法の根本観念を誤り、
第三、法律問題を感情問題と誤認し、
事実証拠を度外視したもので、無罪を確信するものである。もし大本が宗教として脱線する恐れがありとすれば、行政官庁は宗教行政の上で充分これを指導しうる権能をあたへられているのだから、その面からとりしまったらよいのであって、その責任を司法権に移転せんとするのが今日の情弊である。
というのが江木の結論であった。二一日午後・二二日・二四日の三日間は、特別弁護人が弁論にたち、二六・二七日には松岡・渡辺・足立がそれぞれに弁論を展開し、無罪を主張した。
こえて一〇月五日、裁定がおこなわれ、王仁三郎にたいしては、懲役五年(不敬罪)、浅野にたいしては懲役一〇ヵ月(不敬罪)、吉田には禁錮三ヵ月・罰金一五〇円(神霊界編輯・発行兼印刷人として各禁錮一ヵ月、罰金五〇円宛、未決拘留四〇日通算)の判決がなされた。
予想されないことではなかったが、この判決によって大本は、「邪教」としての地位を法的にあたえられることとなったのである。大本側では、この判決を不満として即日控訴の手続きをとった。検事側も、浅野の科刑軽きに失するとして同様に控訴した。こうして裁判は、その後昭和二年に免訴の判決が下るまで継続されることになった。
「邪教」の刻印を法的におされた一〇月五日をもって、第一次大本事件は、いちおう社会的にはおわりをつげた。その日から大本は、その刻印をせおって苦難の宣教の道をあゆまなければならなくなったのである。
〔写真〕
○京都地方裁判所 1922─大正11年改築され 門だけが現存している p625
○江木哀 p626
○大本消防隊 1921─大正10年1月編成替え 大正14年1月解散 p627