有罪の判決は信者にとってはこのうえもない不満であった。一〇月一一日、すみ子は、「今回無罪にでもなって信者が有頂天になり、高い鼻をますます高くしては、神の教はまるつぶれになってしまいます。苦労なしで三千世界の立替えができる道理はありません。ここをこばりぬいて苦労のかたまりの花が咲くのです」といって信者を激励したが、信者をさらに苦悩へとおいこむ事件がおこった。というのは、その一一日にいたって、王仁三郎と湯川が京都府庁に召喚され、高橋内務部長・宮脇警察部長から本宮山神殿のとりこわしを命じられたからである。その命令要旨はつぎのとおりである。
明治五年太政官達に「神殿は無願にて建築することを得ず」又大正二年内務省令神社創立に関する布達第三十一条に「神社は祭神の事蹟極めて顕著にして地方の状況又は縁故等特別の事由にあらざれば創立することを得ず」又同第二条には、「その創立せんとするものは一定の内容を備へたるものが一定の形式に依りてこれを出願しその許可を受くべし」とあり、この条項に違反したる不法の建物は公認する能はざるを以つて、大本教本宮山の神殿は本月三十一日迄に全部取毀すべきを命ず、若しこの命令に服せざる場合は官憲の手に依り取毀し、その費用は大本教より徴収す。
かねてから宮脇らは、判決がなされたときこそ、とりこわしの好機であると揚言してきたが、はたしてその挙にでてきたのである。命令要旨にも示されているように、この日の宮脇らの態度はきわめて高圧的であった。大本としては受諾するより方法はなく、信者大会をひらいても、信者の手でこわすことは承知しないだろうという理由で、官憲の手で破壊するように依頼した。
責付によって、一時再出発の準備がととのえられたかに思われたが、不敬罪としては極刑の懲役五年を宣告されたばかりか、ついで本宮山神殿のとりこわしを命じられるにいたって、教団は最悪の事態をむかえた。そして事件後三回目のおおはばな改革がおこなわれたのである。
一〇月一三日、修斎会の役員、幹部は責任をとって総辞職し、翌一四日には、二代教主すみ子・教主輔王仁三郎は引退のやむなきにいたった。こうして、三代教主直日・教主補大二がそのあとを継承することになった。
また「皇道大本」の名称は、たんに「大本」と改称された。同時に、皇道大本の役員であった教監と教諭は廃され、大教統・権大教統・教統・大教監・権大教監・教監・教諭・訓導・権訓導・舎監・参与・督事・録事・出仕・顧問・相談役も解消されて、大日本修斎会の一六階級は廃止することになった。
そしてあらたに大本役員として、みろく殿取締に井上留五郎、同世話係に森速雄、内事取締に桑原道喜、副取締に出口慶太郎、同世話係に松村仙造、農園世話係に植芝盛平、機械世話係に大槻伝吉、裁縫部世話係に真金庚が任命された。
さらに大日本修斎会の本部は、さきの決定にしたがって亀岡にうつされ、会長に湯川貫一、取締兼財務世話係に東尾吉三郎、以綿に高橋常吉、祭務世話係に浅野遙、教務世話係に土井靖都、庶務世話係に河津雄次郎、出版世話係に近藤貞二、造営世話係に岡田瑞穂(熊次郎)らがそれぞれ任命され、これまでの部局長にかわって「世話係」がおかれた。
教団の組織や人事の立替えについて当面している事態は、本宮山神殿のとりこわしであった。本宮山上の本殿は神明造りで、すべて最良の飛州桧材をもちい、屋根は千石萱の太古ぶきであった。建物の高さは三一尺、その正面は巾一六尺二寸、その側面は一二尺六寸よりなる。左右の脇社は高さ二四尺・正面八尺・側面七尺で、本殿と脇社とは高欄つきの廻廊でつながれている。拝殿は伽藍づくりで、建物の高さ三七尺・正面の間口七間・側面も七間であって、本殿と拝殿のあいだには中門と透し塀がたてられていて、その全体の構造と配置は、きわめて荘厳清麗の気をただよわしていた。本殿と脇社の仮鎮座祭は、すでに七月二七日におこなわれ、一〇月一五日には最後の月次祭がいとなまれていたが、そのとりとわしはあまりにも突然のことであったので、全国の信者への連絡もとれぬまま、一八日には三代教主出口直日が祭主となり、綾部在住の役員・信者のみが参列して、本宮山神殿告別式と昇神祭が、感慨ふかくとりおこなわれたのである。そのときの感懐は、三代直日の
おろがむも今しばしぞと本宮山の峰をあほげば月はくまなき
天地のしじまの中に虫の声わがすすり泣き川のせせらぎ
という歌意にもよくうたいあげられている。
信者のかなしみのうちに、一〇月二〇日、ついに本宮山神殿の破壊がはじめられた。京都府警察部から今江警部が一〇人の警官をひきいて警戒にあたるなかを、赤手拭で鉢まきをした五〇人あまりの大丸組(洛北嵯峨の鈴木久経営の建築請負業─七五〇円で取毀工事落札)の人夫によってその破壊に着手された。神殿は土足でふみにじられ、銅板からはがしはじめ、またたくまに長さ五九間の透し塀、三棟の神明殿、十旺金色の定紋のついた内陣の扉、あわせて拝殿や門がつぎつぎとこわされていった。これを見守る信者の人々にとっては、それがいかに悲痛なことであったか。破壊の音の間隙をぬってこだまする信者の祝詞奏上の声のひびきは、あくなき弾圧の実相をまざまざと描きだしていた。
工事は一週間にわたってつづけられたが、その間、警官が厳重警戒にあたったほか、第一日は、何鹿郡から総動員された三五〇〇人の在郷軍人が、第三日目には、篠山歩兵第七連隊の一個中隊が武装して綾部にあらわれ、見学と称して現場に休憩し、その後苑内を示威的に行進したほか、さらに同連隊のほかの一個中隊、福知山歩兵連隊の一個中隊がやってきたという(「大阪朝日」大正10・10・24)。
こうした情景には、むきだしにされた同家権力の狂暴な姿勢がひしひしとうかびあがっている。だが、権力の力をもってしでも人間の心を破壊することはできない。とりこわされた神殿の残骸をみて幹部・信者の人々は、いっそう信仰へのはげみを決志したであろう。その心情は
よしやこの神の宮居をこわすとも胸にいつける宮はこはれじ
という直日教主の歌に、こよなくもはっきりとうたいあげられているといってよい。
五六七殿取締の備忘録によると、「大正十年十月二十日旧九月二十日、此日、本宮山大神殿取毀ちの手は官憲によって下されたり。実に日本神国未曽有の珍事、我等は御神業の転々切迫せるを痛感すると同時に、皇国歴史上の一大記念日たるを銘記するもの也」と表紙裏に大書されている。また二〇日の項には、「連日の晴天、夜間は殊に月光のみづみづしさに一層の爽快を覚へしが、此の日午前より降雨粛々、暗雲惨々、秋思転々と深きを覚ゆ。午前十一時半頃より本宮山の神殿をとりこぼつくべく、官憲の手は下されたり。信者は極めて平静。二十一日、昨日来の降雨やまず、午後山上の工事を中止せし模様也」と当日の模様が記されている。
神殿については建築の専門家たちは、「神明造りの構造がいけないといふことはない。神明造りは宮中賢所、伊勢神宮にかぎったわけではない。京都にも彼方此方にある。だから大本教が自分の庭内に其建築したのも法規に触れるといふことはできない」(「大阪朝日」大正10・6・28)といっていたものである。また信者の間には、「本宮山神殿が完成した時に破壊される」とか、「お宮が二度壊され、三度目に政府から建てもどしてもらえる」とかの、ひそかな流言がつたえられていたともいう。新聞は大々的に、「先づ玉垣の鋼板から、剥し始めた本宮山神殿」、「柱を抱いて泣き狂ふ信者の群」・「三千五百の在郷軍人が示威警戒」・「宛然吉良邸の討入り、光景はむしろ悲惨」などとかきたてて、信者が狼狽したかに報道しているが、事実はまったく逆であって、幹部も信者も冷静に、破壊の音を傷心の思いで聞いていたという方が真実である。そしてそのいきどおりが、信仰への沈潜となり、あらたな決意となってもえひろがっていった。
神殿破壊にたいする社会の関心はかなりつよく、当局のとった処置にたいする批判はきびしかった。当時法律界の専門紙であった、「法律新日」(大正10・10・28)の論説欄で、弁護士播磨竜城はつぎのようにのべている。
今朝(一二日)東京法律事務所の吉田弁護士より電話が掛かり、官権が大本教神殿取潰しと云ふことは事実なりや、法律の根拠ありや。余は因より信者では無いが随分乱暴なことで、時々世の問題となる人権蹂躙以上憲法上の信教の自由に関する重大なる問題で、苟も弁護士なるものの座視黙過すべき事柄で無い様に思ふが……とのことであった……。
サテ京都府の当局が今度大本教の神殿取潰しの為舁ぎ出したのは、明治五年の無願社寺創立禁制に関する大蔵省第百十八号達である、と云ふのであるが、之を根拠とするのは大ソレタ間違であると思ふ。一体全体其んな達があるか如何、何人も先づ奇異の感を抱くは太政官の布告でもなく又神祇省や教部省の達でも無い、縁もゆかりも無い大蔵省の達と云ふことであるが、大蔵省が何故ソンナ達を出したか其動機は其達の趣旨を調べて見れば、ソレハスグ合点の行くことである。元来大蔵省がソンナ無願社寺の禁制法を発したのではない。……(大蔵省第百十八号達、明治五年八月晦日の全文引用)……と云ふのであって一種の論告訓示見た様なものである……。
大蔵省の達はモトモ卜法律ではない。法律の性質あるは太政官の布告のみである。ご尤も各省の達にも法律の効力に等しいものはあったが、概して其名の通り諭達である。右第百十八号の達の如き其全文から見ても其前後の達から見ても其性質趣旨明々白々である。然らば何故に京都府の内務部長・警察部長・保安課長乃至内務省や法制局の連中が間違へた乎と云ふに、此等の人々は恐らくは該達が発せられた動機や趣旨を究めず、又達の全文を見たこともないのであらふ。即ち社寺法規とか其他布達を類聚編纂したものには
○無願社寺創立禁制ニ関スル件(明治五年八月晦日大蔵省達第百十八号)
の標題を掲げ
○無願ニシテ社寺
(地蔵堂稲荷ノ類)創立致候儀従前ノ通禁制タルベキ事と抽象して恰も右の如き独立したる達があるかの如くに記載してある。
が併し之は新聞紙の見出しに二号活字で読者の注意を惹く手段と同じく法令編纂者の手品である。ソレヲ一目して之を早呑み込みに丸呑みにしてこんな単行法があるもの如く速了したのであらふ……。
サテ社寺の創建に就ては寧ろ社寺取扱概則(明治一一年九月廿日内務省乙第五十七号)及び明治十九年六月八日内務省訓令第三九七号等ありて、容易に創設を許さぬ事にしてはあるが、ソコデ事実建設したものを取潰すと云ふことまで拡張発展する事が出来るや否や。殊に又右明治五年大蔵省第百十八号達及び内務省の明治十一年社寺取扱概則及び十九年の内務省訓令第三百九十七号等にしても明治二十三年発布の憲法以前のものであるから、タトヒ今日生きて居るにしても憲法を以て信教自由や所有権の確保された後には、其適用の範囲を趣旨に於て大に変化するところなくては叶はぬ理窟である。
また「大本事件ノ経過」と題して謄写印刷し配布された冊子には
猶神殿破壊ノ一事ハ、出口家個人ノ庭宅内ニ建テタル建造物ヲ法律ヲ無理ニ曲解シテ私有ノ財産ヲ強制破壊シタル結果ヲ来シタリ。当該者ハ大本教信仰ノ標的物ヲ破壊シテ、信者ノ集団ヲ離散セシメン目的ヲ以テ斯カル無謀ヲ敢テシ、官憲自ラ法ヲ曲解無視蹂躙シテ不敬ヲ敢行シタル結果ヲ生ジタリ。政府ハ果シテ此結果ヲ如何ニ処セントスルヤ聞カマホシキ処ナリ。
と、当局の不法をつよく攻撃している。こうした事実を反映して、一九二二(大正二)年三月、第四五議会の治安警察法委員会において「大本教の建築物を破壊したる法律の根拠何れにありや」との質問がなされているが、これにたいして「大正日日新聞」は「松田参事官の答弁あり、尚二、三の問答あり」とだけ報道し、答弁の内容はあきらかではない。しかし、神殿破壊にたいするわりきれない気持は、大本の信者だけでなく、世間一般にとっても共通のものがあったと思われる。いずれにしても、判決につづく神殿破壊という暴挙によって、教団のうけた打撃はすくなくなかった。食堂は閉鎖され、青年隊は事実上解散して、幹部および残留奉仕者は、それぞれの生計をたてるための業務につき、その余暇に本部執務や神苑清掃にあたらねばならなくなった。
大本はいまや事実上解体したかにみえた。本宮山神殿の破壊の槌音は、その解体の合図とさえうけとられた。しかし信仰の純粋性はかえって、そのようなときにかがやくものである。じつは、そのとき、その槌音のなかから教団再建の準備がすでにはじめられつつあったのである。筆先にかわる教典すなわち『霊界物語』の口述は、そのような状況下にはじまったのである。
大阪控訴院では、一九二四(大正一三)年の七月二一日、天野裁判長によって第一審どおり有罪の判決言渡しがあった。そして事件はそのまま上告された。大審院では横田裁判長によって、一九二五(大正一四)年七月一〇日の公判で王仁三郎にたいする原判決は事実の誤認を事由としてこれを破棄し、事実審理をすることに決定した。その審理中に大正天皇の崩御があり、一九二七(昭和二)年五月一七日、王仁三郎・浅野・吉田の三人は、「大赦令」で免訴の判決をうけた。六ヵ年余にわたるこの事件はいちおう解消したが、それはつぎの第二次大本事件の遠因ともなってゆく。
〔写真〕
○本宮山神殿の破壊に着手せんとする警官と人夫たち p630
○本宮山神殿 拝殿(左)本殿(右) p631
○本宮山神応最初の月次祭 p632
○憤!信者の悲しみのうちに神殿は破壊された p633
○破壊の音をききつつ五六七殿取締のしるした備忘録 p634
○寂漠!本宮山神殿破壊のあと 神饌所と礎石だけがのこった p635
○神殿破壊への批判と抗議 法律新聞・大正日日新聞 p637
○のこされていた本宮山神殿破壊・開祖墳墓発掘質問演説の草稿 p638
○事件はまた栄達へのみちでもあった p638