責付出獄してきた王仁三郎が最初にぶっつかった難関は、墓地問題であった。
六月一九日、出獄後における第一回の役員会が招集された。今後の宣伝方針については、極力治安当局を刺激しないよう配慮することになったが、墓地問題については、自発的に改修するという六月五日の決定をかえ、あくまでも改修には反対する方針がうちだされた。そして翌二〇日、栗原白嶺らが陳情訴願することに決定した。その陳情訴願の内容は、出口すみ子名儀で提出され、「……右側の一端が官憲の指示せらるる通りとするも、既に四年前に於て制規の手続の下に建設致したるものに有之候、幸にもその跨り在りと仰せらるる該地域は、自分等の所有にも有之候へば、此の場合、墓地及埋葬取締規則第一条による行政上の手続を経る事を以て寛大の御処分にあづかり度……」というように、条理をつくしたものであった。京都府警は強硬な態度を維持してゆずらず、再度の歎願もむなしくはねつけられた。墓地改修の命令が文書によって示達されたものではなく、圧迫の手段としてとられたものであることはあきらかであったから、「冷酷無理解なる京都府警察部の官権濫用」であると信者は憤激したが、王仁三郎は事態の切迫をみてとって、「教祖奥都城取毀しは、信者の自発的改心を迫られての、教祖の神霊の最後的手段である。信者が自覚しないので、官憲の手をかりで改心を迫られているのである」(「神の国」大正10・9)と説得につとめた。
六月二六日、改修奉告祭が執行され、改修委員出口慶太郎・上倉三之助・岡田熊次郎らが立会のうえ、二八日に工事に着工し、七月二三日に域工した。墓は長さ三間、巾二間半、高さ八尺に縮少され、石垣で囲われた。しかし開祖の遺骸には全然手はつけられなかった。
なお八月二〇日には、奥都城背後の稚姫神社の祖霊は教祖殿に仮遷座され、二八日旧社殿は焼却された。これは本宮山神殿の完成をまって、国常立尊の神霊と合体して正式に遷座する予定のものであった。
あいつぐ圧迫のなかで、王仁三郎は、事件後のあたらしい情勢に即応するよう教団の改革に着手した。この改革の目的は、「大正十年立替え説」を中心とする現実の世界の改革ではなく、信者の信仰内容の改革にあった。
つまり、王仁三郎の理解によれば、大正一〇年の立替えは現実の世界ではなく、大本においてまずはじまったと説かれるのである。そして第一次大本事件は、「大本の立替え」を促進したものとうけとめられたのである。
まず、「神霊界」が六月をもって廃刊され、あらたに「神の国」が発刊されるようになった。編集人は近藤貞二から瓜生鑅吉にかわり、八月にはその創刊号が出版された。
発刊の辞に、「神霊界」は「主として神界霊界の消息を伝へ、国民に対して一大警鐘を乱打し来った」のであるが、その消息は、「幽玄窃冥であって、独り之を以て現実世界に臨むは、今後に処する所以にあらざる」ところだから、霊体一致、神人不離の活動に入り、神国建設の効をあげるために、「神の国」を発刊したといっている。これはたんなる名称の変更を意味するばかりではなく、従来の宣教方針があらためられたことを意味した。
こうして王仁三郎は信仰の立替えのための指導をつよめていった。八月一〇日、七夕祭において、本宮山に参拝して神様から聞いたことをお話しする、と前置きしたうえで、大本には大正五年以後参綾の知識階級の信者と、それ以前の旧役員の二派の対立があり、その両方から誤った言説がなされていたために信者を迷わせてきた。とくに旧役員の、変性女子の言動はみな逆であるからその裏をとったらいいという理解は誤りであることを指摘し、その態度の清算をうながした。また、鎮魂帰神の法は伝授してあるが、神憑りは許していない。旧役員の神憑りはすべて偽神術によるものであると警告して、興味本位で霊術に向う傾向を排除するように注意した。
そして、墓地改修はそのような古い信仰をすて、信者の改心をせまるための神霊の発動であるとのべ、改心とは本来、自他公私を明らかにすることで、その第一は敬神であると主張した。
このようにして王仁三郎は、「大本の立替え」のために信者の反省と身魂磨きをもとめる一方、七月一六日には、事件後二回目の大異動をおこない、大日本修斎会会長に湯川貫一、副会長に井上留五郎と篠原国彦をそれぞれに任命し、大道場長は湯川貫一が兼務することにした。公判の結果をおもんぱかったのであろうか、王仁三郎自身は役職にはつかず、教主輔としてとどまったが、この異動であらたな宣教体制がはやくもととのえられた。
八月二五日になって王仁三郎は、事件後の教団活動の中心舞台を亀岡にうつすという方針をうちだした。修斎会の亀岡移転と亀岡大道場の拡張をおこない、造営・財務・庶務の事務を亀岡でとりあつかうことなどを決定し、大道場の講師に森良仁・東尾吉三郎・土井靖都を任命した。また亀岡に万寿苑・月宮殿の造営に着手することをもあわせて決定し、七月一日には、瑞祥閣が竣工している。さらに九月三日には、修斎会と大道場の合併、出版局を事業体として独立させることとした。
事件でもっとも打撃をうけたのは「大正日日新聞」であったが、かたむいた社運は、とうてい挽回することはできそうにもなかった。八月の末には、その一部を残して社員の多数が大阪から引きあげてきた。
出獄いらい王仁三郎は、このような一連の改革をおこなったわけであるが、その「大本の立替え」によって、大本はどう変化したであろうか。それは、この改革に浅野がまったく参与していないことに端的に示されているように、「大正維新」および「大正十年立替え説」がもはや宣教の中心ではなくなり、鎮魂帰神が主たる布教手段ではなくなったことがまずあげられる。浅野和三郎は教団指導者の地位から完全にしりぞいていったのである。「浅野派」の信者の離脱が決定的になるのは、彼等が信じていた大正一〇年の立替えが実現されなかったことがだんだんとあきらかになり、それにつづいて、あたらしい教典として『霊界物語』が発表され、立替え立直しのあらたな解釈が成立してきたからである。
一九二一(大正一〇)年の七月二九日付の「大正日日新聞」には、浅野和三郎・岸一太らが発起人となって、現実社会に復帰し、社会的な事業経営をおこなうという宣言書が掲載されているが、「今正に一大方向転換を行はねばならぬ重大時機に際会して居る事を信ずるものであります」というように、それは言外に大本から独立して「社会事業経営」をおこなおうとする一部の離反のきざしを物語るものにほかならなかった。その動きが、いまや決定的となってきたのである。こうして「大本の立替え」の胎動が開始されるのである。
〔写真〕
○開祖奥都城取毀ち命令にたいする訴願 代筆 p620
○稚姫神社も焼却された p621
○神の国 創刊号 p621
○第2回改築後の開祖奥都城 p622
○(上)夏期講習会の参加者 後方は建設前の月照山と竣工した瑞祥閣 p623
○(下)月宮殿造営の整地作業 現在の月宮宝座付近 p623