盧占魁は、チャハル省豊鎮のうまれで、当時三九才であった。彼が活躍しはじめたのはかなりはやく、古く辛亥革命のとき、盟友バブチャップ(巴布札布)とともに庫倫によって清朝をたすけ、再興の軍をおこした。バブチャップは蒙古人であり、日露戦争の際には「義軍」をおこして日本軍に協力したといわれている。しかし清朝再興のくわだては破れ、盧は帰化城にひいたが、政府軍に招撫された。ついで一九一六年、ふたたびバブチャップが軍を南満にうどかすと、盧はふたたびこれに参加した。この軍事行動も清朝の再興をめざしたものである。そしてその裏には、日本軍部や満州浪人のあとおしがあった。いったいに、日本軍部による満蒙分離の政策はかなりさかのぼる。満州を日露戦争によって手にいれたとはいえ、まだそれは日本の完全な植民地ではない。満州は中華民国の領土であり、日本は種々の権益をとったにすぎない。だから、日本軍部は再三にわたって、満蒙を中国領土から分離させて、「独立」の植民地にしたてあげようと画策していた。その第一のチャンスが辛亥革命であった。そしてその後、第一次満蒙独立運動、さらに第二次満蒙独立運動とくり返しその画策がなされたが失敗におわった。盧の軍隊はそれらの画策にはつねに主要な役割をはたしていた。しかし第二次独立運動の挙にやぶれた盧は、五原で阿片の栽培などをおこなっていたが、中央政府軍におわれ、陜西にはいって土匪となった。ここで、陝西精国軍が組織されたさいに招かれて、耀州・同官・宣順の三県をえ、長安に依拠して、中央討伐軍に対抗したがふたたびやぶれ、常備軍に編入された。一九二一年のころ、雲南の葉荃とともに、四川省にはいって四川軍を組織し、ついで唐継堯のすすめで雲南におもむき、のち広東の孫文と合した。しかし、孫文と行動を同じくすることができず、天津に閑居し、こんどは張作霖と手をにぎった。そして第一次奉直戦争がおこると、帰化城を根城として三特別区で直隷派に対抗した。こののち、奉天にうつった盧は、張作霖の諮議として月俸三五〇元を給されていたという。こうした経歴をもつ盧占魁と王仁三郎の間に連絡をつけたのは、のちにのべるように矢野祐太郎と岡崎鉄首であった。
〔写真〕
○盧占魁とその子たち 盧の仮寓にて p726