このように複雑な様相を内包し、また政治的な緊張の極にある満蒙に、王仁三郎がその挙を進めてゆくためには、慎重な下準備が必要であった。この下工作のために活躍した中心人物が矢野祐太郎である。海軍大佐矢野はかなりまえからの大本信者であった。退職ののち大陸にわたって、上海で商館をひらいていたが、のちに張作霖としたしい間柄の人からのすすめをうけて、奉天にうつり、ここで三也商会という軍器販売の商店を経営していた。
矢野の工作がいつからはじめられたかはあきらかでないが、すでに一九二三(大正一二)年の暮には、盧占魁と連絡をつけて帰国しているので、それ以前から準備は進められていたであろう。矢野と手をくんで画策したもう一人の人物が、満州浪人の岡崎鉄首である。矢野と岡崎は旧知の間柄であったらしいが、一説によると、岡崎は「日地月合せて作る串団子星の胡麻かけ喰ふ王仁口」という王仁三郎の歌を矢野宅でみて、おおいに共鳴したという。岡崎鉄首は、以前に河南督軍顧問をしていたことがあり、当時は張作霖の内意をうけて祐東印刷所の技師長をつとめていた。彼は末永節の主宰する肇国会※の現地活動に従事していたともいわれていた典型的な満州浪人である。
※肇国会は一九二二(大正一一)年末永節を中心として組織された団体である。その目的は、国体観念を高唱し、ロシアならびに中国両国がたおれたとき、アジアを救うのは日本しかないから、全満州・内外蒙古・バイカル以東の地域をひとまとめにして、世界的中立国、(=高麗国)をつくろうとする点にあった。この会には、犬養毅・内田良平らもくわわっていた。
岡崎が祐東印刷所の技師長だったのは、ちょうどこのころ、奉天派と直隷派の第二次奉直戦争がおころうとしており、この印刷所は、じつはそのときにそなえて、張作霖が軍票をつくらせるためのものだったといわれる。しかし、岡崎にとっては、それはどうでもよいことであって、満州に流浪している朝鮮人の生活がたつようにしてやり、蒙古の荒野を開拓して日本の大植民地をつくったなら、国家のためになるであろう、そのような考えが岡崎の腹だったといわれている(『王仁蒙古入記』)。岡崎は、一九二五年におこった第二次奉直戦で、奉天側からその首に懸賞がかけられたというほどであるから、彼はかなりの「実力」そもった大陸浪人であったといえよう。
なお王仁三郎と行をともにした日本人らはどのような人々であったか。大石良は、貴志少将の腹心の部下で、奉天軍第三旅長張宗昌の軍事顧問兼教官であり、佐々木弥一は満州浪人であったし、井上兼吉は「第二次満蒙独立運動」に参加し、当時は陸軍の諜報任務についていた人物である。
王仁三郎に随行した信者の人々は、どういう面々であったか。それは松村真澄・植芝盛平・名田音吉の三人であり、松村は法学士で、植芝は式術(合気道)の達人、名田は理髪屋であった。
〔写真〕
○岡崎鉄首の名刺 p729