六月三日、西北興安嶺にむけて行軍を開始した。しかし、非戦行動に反対であった大英子児らは、部下とともについに脱退してしまった。のこったものは騎馬兵五〇〇と歩兵三〇〇とである。行軍はつづいたが、五日になると針路はにわかに南方にかえられた。そして七日には、王仁三郎が途上の岩窟でにわかに神懸りとなった。
八日にいたって、盧占魁の命令はもう全軍に権威をうしなって、脱走者が続出した。岡崎鉄首は、これではあぶないと考えて、方法を講ずるためにいずこかへ出発していった。こえて一一日には、熱河区内にはいり、ここから東南にむかうことになったが、したがうものは、すでに騎馬兵五〇〇だけになっていた。
一六日、達頼汗王府の兵から狙撃をうけ、マンダハンが死んだ。事態はすでにただごとでなくなっていた。軍はパインタラにむかうこととなる。一九日になって猪野が脱走した。
こうして二〇日には、ついに奉天軍に包囲されたのである。翌日、盧にあてたパインタラの闞中将からの書翰がとどき、武装解除のうえでなければ、パインタラにはいれないといってきた。そのために盧軍は式装解除されることになった。パインタラにはいった王仁三郎・盧の一行は、その後どうなったであろうか。
王仁三郎は鴻賓館に案内されたが、その夜、盧占魁は、身に危険がせまっているから、脱出して再挙をはかることを王仁三郎につげた。だがしかし、全員は就寝中をおこされ、一行中の日本人らも捕縛された。そして町中をひきまわされたのち、ふたたび兵営につれてゆかれた。一行はそこで、道に盧の部下が血潮にそまってたおれているのをみた。盧占魁も銃殺されたのである。王仁三郎らにも銃殺の刑がまちかまえていた。松村・王仁三郎・萩原・井上・坂本・植芝の順にならばせられ、機関銃がむけられた。
このとき王仁三郎は、つぎのような辞世の歌をよんだという。
身はたとへ蒙古の野辺にさらすとも 日本男子の品はおとさじ
いざさらば天津御国にかけ上り 日の本のみか世界まもらん
日の本を遠く離れて吾は今 蒙古の空に神となりなむ
銃殺が執行されようとする寸前になって、突如銃殺は中止となり、通遼(パインタラ)公暑の監獄に投ぜられることになった。彼らは足枷・手枷をはめられ二人づつつながれて、一組の麻縄でしばられた。まさしく死刑囚のあつかいである。『王仁蒙古入記』によると、この間の事情について下記のように記されている。
「王仁が六月二一日の夜、白音太拉の鴻賓館で寝込を捕縛された時、折よく其処に宿ってゐた日本人某が、朝になって庭を見ると、大本教の神器として病者の祈願に用ひる杓子が一本遺棄されてあった。其杓子には、〝天地の身魂を救ふ此の杓子心のままに世人救はん〟と表にしるし、其裏には〝この杓子我生れたる十二夜の月の姿にさも似たるかな 王仁〟と誌し、スの拇印が押捺してあったのを見つけ出し、驚いて王仁一行の遭難を知り、白音太拉から一番汽車にのり、鄭家屯の日本領事館に届け出た」。その結果、二三日には鄭家屯日本領事館の土屋書記生がきて、通遼公署で知事に面会し、日本人の引渡しを要求してきたのである。その要求によって麻縄はとかれることになり、また居留日本人会長太田勤・満鉄公所志賀秀二の二人がやってきて、官憲に交渉して手枷もまたとりのぞかれた。二七日には広瀬義邦・三也商会矢野が奉天からやってきて差入れをしている。
二八日には、通遼県知事法廷でとりしらべをうけ、さらに三〇日には、鄭家屯道尹に護送された。
七月三日、公文四八七号をもって奉天総領事から奉天交渉署長あてに、「査するに出口王仁三郎は不敬事件刑事被告人として現に大阪控訴院に継続責付中に依るものに有之……此際同人を至急我方に御引渡相成度」との申しいれがあり、五日には鄭家屯領事館にひきわたされ、翌日奉天総領事館にうつされて、三ヵ年の退支処分となった。このようにして、波乱にみちみちた「入蒙」はおわりをつけるのである。
〔写真〕
○蒙古の玄関パインタラ─通遼 (上)駅の遠望 市街地まで約6丁 人口約4万5000人でほとんどが漢人 (下)市街の中心部日本の露店商ににて取引方法が面白い p747
○一行は逮捕され足枷をはめられた 左より 松村 王仁三郎 植芝 荻原 井上 坂本 p748
○(上)居留日本人会長太田勤 (下)鄭家屯日本領事館職員 p749
○奉天総領事から奉天交渉署長にあてた引渡依頼書 出口王仁三郎ハ匪賊盧占魁等ト勾結シ蒙境ヲ擾乱シ邪教ヲ流布シテ蒙民ヲ収攬スル不良分子ニ属シ邦交ヲ破壊スルモノナルニ付速ニ逮捕処分方ノ件ニ関シ……何分同人等ハ已テニ深ク蒙境ニ入リテ検挙上ニ困難致居リ候……就テハ此際同人等ヲ至急我方ニ御引渡相成様…… p750