王仁三郎が二月一三日の未明に綾部を出発したことを綾部警察署がしったのは、三日後の一六日である。行き先は中国の済南道院であろうときいて、警察はまったくおどろいた。警察はあわててその手配をしたけれども、一ヵ月以上もその行方をつきとめることができなかった。しかし大本の本部へは、奉天からつぎつぎと連絡があり、三月二七日には王仁三郎より宇知丸にたいして、二代及び三代教主の補佐を命ずるとの通達がとどけられていた。そのころ綾部署が入手した情報によると
出口王仁三郎は一三日発、朝鮮普化教を訪ひ、三月六日ころ洮南城府に岡崎某、王某とともに向ふ。此のさき張作霖とも面会せり。赤軍駆除の目的にて新彊に向ふベく札薩克図府に滞在せるが、三月一五日急に青島に現はれたり。北京済南等を経て二〇日帰綾の予定
とされていたが、洮南のこと以外は事実と非常に相違しており、この情報はだれかの工作によったものであろうと推察される。
四月二〇日にいたって「大阪朝日新聞」は、入蒙問題をはじめて、「王仁の蒙古入り……大本教樹立の計画と豪語」という見出しで、「洮南を経て外蒙古に向ったらしい事実あり。その目的はラマ教と相携へて大本教を宣伝し、かたはら外蒙古の鉱物の発掘に従事し、やがて大本教国樹立せんとの計画なりとの由。同行者日支蒙古人二百余名。目下続々入蒙中」と報道した。
六月二一日のパインタラ事件は、六月二四日の「大阪都新聞」が報じた「王仁捕はる」の報道によって、教団もはじめてそのことをしったが、教団側は、それは誤報であるとして信じなかった。翌日さらに「王仁逮捕」のことが、全国の諸新聞で報道され、二六日には奉天から「瑞月先生いまパインタラにあり、身体安全」との入電があって、はじめて遭難の事実がたしかめられた。そこでみろく殿で安全祈願をおこなうとともに、とりあえず本部を代表し横尾敬義を奉天にむかわせることになった。その後奉天からの連絡がなく、その安否がきづかわれているうちに、満州に滞在していた間にこの事件をしって、パインタラに駆けつけた広瀬義邦が帰綾して、遭難についての事情をくわしく説明された。翌々日、役員・信者を代表して、中野岩太・北村隆光が見舞のため奉天へ出発することになる。この年の五月四日に西島宣道らによって設置されていた奉天支部では、六月三〇日、犠牲となった盧占魁以下一三七人の主を鎮祭慰霊し、さらに七月一〇日には二〇日祭をとりおこなっていることを付記しておこう。
これよりさき、大本事件控訴審は、五月一六日大阪控訴院で開廷された。花井・江木・平松・足立の各弁護士、井上・岩田らの特別弁護人などば協議の結果、王仁三郎が不在であることを理由にして公判延期を申請したが、新訴訟法により対質尋問にあらためられたので、一ヵ月以内に公判日を指定して、被告人の出頭がない場合には、被告人の陳述をきかずに審理をすすめ、判決をいいわたすことになった。そして浅野・吉田の両人だけの審理がおこなわれた。ついで六月一八日から控訴審開廷の通知がきたので、綾部町民の四方繁吉らが発起人となり、町民をはじめ近村の人々二一四人の連名で、横田司法大臣および大阪控訴院長あてに、王仁三郎不在中公判延期の歎願書が提出された。しかしこの歎願も採用されず、六月一八日には、出口王仁三郎および浅野和三郎に懲役五年、吉田祐定に禁銅一ヵ月罰金五〇円が求刑された。六月一九日には京都の代議士森田茂が弁護人としてくわわり、二五日までの間に弁護士と特別弁護人の弁論があった。
七月一七日にいたって、大阪控訴院は王仁三郎にたいし、刑事訴訟法第一一九条第一項により責付取消の通知がきた。そして七月二一日、王仁三郎は不在のままに懲役五年、浅野和三郎は同一〇ヵ月、吉田祐定は禁錮一ヵ月および罰金五〇円の判決いいわたしがおこなわれた。これにたいして弁護人側はただちに上告の手続をし、七月二二日に受理された。
王仁三郎は七月二一日、奉天総領事館から大連の水上署におくられ、警察官二人につきそわれてハルピン丸に乗船し、二五日には下関に上陸、ただちに下関から汽車で出発した。このときには三代教主直日・井上瑞祥会長ほか役員・信者約七〇人が、下関まででむかえている。王仁三郎は伝逓護送のために広島県の大竹署に一泊、二六日岡山県笠岡署で少憩、同夜兵庫県上郡署で一泊、二代教主すみ子、宇知丸そのほかの役員は上郡まででむかえた。
二七日神戸相生署にたちより、正午すぎに大阪駅に下車して、曽根崎暑をへて天満署におもむき、入監指揮をうけて午後二時一五分大阪刑務所北区支所未決監にはいった。下関以来各駅での信者のでむかえはさかんなものであったが、神戸・大阪ではことに多数の人々がでむかえ、各新聞社の写真班などがくわわり、一般群衆もたくさんにおしかけて、あたかも「がいせん将軍」をむかえるような大歓声がわきおこった。三年前は「不敬漢」とののしられた王仁三郎が、入蒙の壮図によって一転してあたかも英雄のようにむかえられた風景は皮肉というのほかはない。入蒙の同行者であった松村・植芝・名田の三人も、奉天出発から大阪まで王仁三郎と同行して帰国した。萩原は奉天からすこしおくれて帰国している。
〔写真〕
○王仁三郎の入蒙を報道した新聞記事 蚕都新聞・大阪朝日・大阪毎日・東京日日 p752
○満蒙よさらば!大連水上署前 大阪朝日新聞社提供 p753
○下関での再会 (左)王仁三郎 (中央)三代直日 大阪朝日新聞社提供 p753
○駅ごとにでむかえはさかんであった 大阪駅 (上)プラットホーム (下)駅前の雑踏 p754