〈人類愛善会の動き〉 一九三二(昭和七)年八月三一日人類愛善会は東洋本部を亜細亜本部と改称し、亜細亜本部長出口日出麿、次長御田村竜吉・米倉嘉兵衛、理事三三人などの新役員を任命した。そして愛善運動の基本方針として、愛善運動は大本運動の外郭であるが、精神においては大本運動であり、この運動は海外により多く活動することとし、大本の諸運動と背馳せぬよう連絡協力することになった。会員は会友(人類愛善新聞の継続購読者)・正会員(継続購読者で入会手続をした者・大本更始会員)・維持会員(維持費として毎年五円以上納入の者)・特別会員(一時一〇〇円以上、または維持費通算一〇〇円以上の者)・名誉会員(特別功労者)とする、支部は各市町村ごとに設置し大本瑞祥会支部の所在地にはかならず支部をもうける、連合会は内地各道府県・台湾・朝鮮・満州国ならびにアジアの各国を一区域として設置することなどがさだめられた。そして一〇月三〇日からその目標にむかって活動をはじめた。また時局の変遷にともない、大本諸運動団体との連絡を密にし調査機能を充実するため、一二月二四日には総本部に事務局と調査局がおかれることになり、事務局長には岩田久太郎・次長中山勇次郎、調査局長には出口宇知麿・次長には大国以都雄が任命された。
一九三二(昭和七)年一一月六日には、張海鵬(当時「満州国」待従武官長・世界紅卍字会洮南会長)が陸軍大演習参観をかねて日本をおとずれたさい、亀岡天恩郷をたすね、聖師と面会し、「人類愛善会即ち大本と紅卍字会とは既に一身同体であって、日満の真の平和は両教の堅き合体によるものであることを私は深く信ずる」と挨拶した。聖師は張を人類愛善会の宣伝使に任じ亜細亜本部の顧問に嘱託した。なお昭和一〇年一〇月一七日、「満州国皇帝」に随行して再び張が日本にきたときにも、副官の李香洲大佐がその代理として天恩郷を訪問し、聖師に面会している。一九三三(昭和八)年七月一一日には在理・在家裡代表の会長祖憲庭ほか八人が亜細亜本部をおとずれ日出麿本部長と面談した(五編二章)。
一九三四(昭和九)年四月一日、総本部に海外宣伝局を新設、局長に西村光月を任命してエスペラント、ローマ字普及の業務を吸収し、実質的に大本海外宣伝課をうつしたかたちとなった。
同年八月二四日、昭和神聖会の結成にともない、総本部に設置されていた調査局を東京にうつし、総本部は事務局と海外宣伝局の二局とし、大本本部にあった道慈課を総本部事務局に吸収した。ついで九月一八日、東京にあった人類愛善会亜細亜本部の組織を解体して亀岡の総本部に吸収し、東京には東京事務所をもうけて必要な連絡事務をおこなうことにした。一方各種展覧会への出品はつづけられ、昭和八年五月、東京丸ノ内府立東京商工奨励館でひらかれた建築大博覧会には、綾部・亀岡両聖地の設計図一模型・写真が出陳され、昭和一〇年四月、東京朝日新聞社が主催して東京上野の松阪屋でひらかれた大満州国展覧会には、人類愛善会は唯一の民問団体として参加している。
一九三五(昭和一〇)年八月一二日、亀岡における人類愛善会創立十周平記念大会において日出府総裁補は「現在愛善会支部総数は一千二百四十一あります。その中で内地が九百六十二、それから満蒙が二百七、民国が六、シヤムが一、南洋二十、東印度に一、ペルシヤ二、南米が一九、メキシコ六、北米六、ブルガリヤニ、チエツコスロヴァキア三、ドイツ四、イタリー三、スイス一、ハンガリー一、スペイン一、フランス一、ポーランド一といふやうな分布になつてをります。……人類愛善即ち大本主義でありまして、これは永遠不動の目標であります」と報告し、宇知麿会長は「十周年を迎へましたのを契機としまして、更に海外に向つてこの運動には今より以上に力を加へ、積極的に歩を進めて行くことになつてをります」と海外への活動方針を指示した。聖師も「この人類愛善の精神は、皇道大本の精神と同じことで、……愛悪にならぬやう、偏狭愛にならぬやう自己愛にならぬやうに、国民といはず、世界人類一般に向つて働きかけてもらひたい」とかたり、愛善精神のあり方が訓話された。そして八月二八日には総本部機構の大巾な改正がおこなわれ、総本部主事西村光月・主事補出口五十麿のもとに、亜細亜部・欧米部・編集部・時習部・庶務部がもうけられた。
〈災害救援慰問活動〉 昭和七年から一〇年にかけて大災害が頻発した。これにたいし本部・人類愛善会・大本諸団体は協力して、慰問・救援や復旧に積極的に活動した。
一九三一(昭和六)年一二月、東北・北海道の冷害による食糧窮乏にたいし、大本本部・人類愛善会は、全国信者会員に慰問活動を指示するとともに、貨車二輛の慰問品を北海道・青森の各知事あてに発送し、慰問使を特派して各災害現地を慰問せしめた。
一九三二(昭和七)年二月、青森県鰺ケ沢町の大火(二六〇焼失)には見舞金をおくり、青森主会に指令して慰問させた。同月尼ケ畸市の朝鮮人居住地大火(三〇〇人罹災)には、金一封と衣類二〇〇〇点をおくり、大阪府下亀ケ瀬地帯の地辷りにたいしては、宇知麿会長を派遣し、大阪・和歌山主会と協力して慰問に従事した。四月の静岡県大宮町の大火には東海主会を慰問にあたらせ、一〇月石川県小松町の大火には、北陸主会に指令するとともに見舞金を寄託した。しかし本部の指令をまつまでもなく、北陸主会および小松支部は消火・避難民の救援に活動した。一二月秋田県能代町の大火(三〇〇戸焼失)には、主会に救援を指令して慰問にあたった。
一九三三(昭和八)年一月新潟県糸魚川町の大火には、主会に指令して救援に活躍した。同年三月三陸地方に大地震・大津波がおき、焼失・流失家屋はおどろくべき多数にのぼった。人類愛善会は義捐金品の募集を全国によびかけるとともに、慰問使をつぎつぎと派遣し、宮城・岩手・青森の三県下の各町村を慰問させ、昭和坤生会は全会員に慰問袋を作製させた。一方大本本部は森宣伝使を特派した。森特派は黒沢尻支部に「三陸沿岸大震火災救援事務所」を設置し、昭和青年会の各部隊を五班に編成して釜石・宮古等の激甚地に急行させ、労役・救援・慰問の活動をおこなった。手不足であった釜石では町長の要請で全国よりあつまる慰問品の整理配給を委嘱された。三月二一日には人類愛善会三陸連合会主催で、仙台市五城館において三陸地方大震災慰雲祭を挙行したが、県や市町村の当局者も参列した。世界紅卍字会では三月に一万円の救援金を人類愛善会におくってきたが、五月には中華総会代表の王性真が救恤金二万円をたずさえてきたので、各県知事に伝達した。また北海道日高地方にたいしては、大災害発生の翌日人類愛善会北海道連合会に指令して、被害者に救援慰問の手をさしのべた。
一九三四(昭和九)年一月一二日には、京都駅での出征軍人送迎のさい群衆による多数の死者を出した犠牲者慰霊祭が、京都岡崎公会堂でおこなわれたが、昭和青年会・昭和坤生会は合同で参加し、遺族に弔慰金をおくった。三月函館に大火災がおこり、家屋三万戸焼失・死者二〇〇〇人を出し、市の八割が焼野原となり、大本の三支部も焼失した災害にたいし、慰問使を特派して慰問金品をおくり、北海別院に指令して救援活動のため昭和青年部隊を出動させた。四月一日には昭和青年会・坤生会が共催し函館大火遭難者慰霊祭を函館市でおこない、市当局者・各関係機関の当事者や遺族が参列した。
七月北陸地方に大水害がおこり、手取川の氾濫による洪水はことに激甚であった石川・富山両県下の一市七郡におよび、罹災者二万六〇〇〇人・水田埋没四三〇〇町歩にたっした。本部は北陸主会に指令し部隊を編成、被災地に出動して救援活動にあたらせ、また被服・野菜等の贈与、慰問金品の分配をしたが、さらに同月二六日には再び全国に通達して慰問救恤を促進した。九月台風の襲来によって近畿地方に風水害をもたらし、家屋倒壊二万余、死傷五〇〇人にのぼった。本部はただちに救援にあたり、白米・缶詰などを送るとともに弁当をたきだし、トラック二台で食糧を配分し慰問金をおくった。また昭和神聖会総本部は当局にたいし今後の救援策を陳情要請し、各新聞社にはたらきかけて救恤の世論喚起を要請した。三〇日に綾部五六七殿では遭難者慰霊祭を執行した。
昭和九年には、東北地方に冷害がおきた。内務省調査によると二〇〇町歩以上の町村で七割以上減収の町村は、東北五県で六六にもおよび、窮乏した農家は娘をうり、欠食児童のために学校は休校するありさまであった。昭和青年会・坤生会では慰問使を派遣し、白米一〇〇俵を購入して困憊せる農家・欠食児童に配給し、全国に指令して物資の救援に力をそそいだ。なお昭和神聖会は「人類愛善新聞」によって現地の悲惨な実情を報道して世論の喚起につとめ、各農村組合・在郷軍人会の請願を政府当局にあっせんするなど、真剣に農村救済の運動を展開した。
一九三五(昭和一〇)年四月の台湾新竹州・台中州を中心にした大地震や六月の西日本一帯の大洪水にたいしては、本部は関係主会・連合会に緊急救援・慰問の指令を発し、本部より救援物資を急送、昭和青年部隊を出動させ復旧作業や慰問などに活躍した。一〇月には静岡地方に震災がおこり相当の災害があった。また新潟県新発田町に大火おこり一〇〇〇余戸を焼失した。本部はそれぞれ物資を急送し、昭和青年部隊を出動させ、跡かたづけや復興に協力させるとともに見舞の金品を罹災者に配分した。これらは主として本部を中心におこなわれたものであるが、このほか各地方の災害にたいしても、大本の地方諸機関が自主的に救援活動をおこなったことはいうまでもない。
このような活動は国内のみならず中国の災害にたいしてもおこなわれていた。一九三〇(昭和五)年五月、中国西北地方(甘粛・陜西・河南・綏遠・山東)でおこった三ヵ年にわたる大旱魃・大飢饉にたいし、人類愛善会の名によって全国より義捐金を募集し、世界紅卍字会に委嘱して送達した。昭和六年一一月、中国に大洪水があったので、人類愛善会・世界紅卍字会日本総会は共同して義捐金を募集し、紅卍字会中華総会に送達した。昭和七年四月、上海事変以来激増した上海における窮民の救済のため、人類愛善会は義捐金を世界紅卍字会東南主会に委嘱送達した。また同年、北満(東北)の水害にたいし、人類愛善会満州連合会は日本総領事館をへて義捐金を送達した。昭和九年七月、中国寧夏省の戦禍・災害による飢饉民救済にたいし世界紅卍字会に委嘱して救恤援助した。
このように、災害救援活動にも注目すべき役割をはたしたのである。
〈エスペラント、ローマ字運動〉 一九三一(昭和六)年一〇月、京都市において第一九回日本エスペラント大会が開催され、人類愛善会分科会では、各民族間の友愛を強固にするため、欧州における愛善堂の建設促進と、国際愛善美術展覧会の開催が決議された。この美術展覧会は人類愛善新聞社が主催し、大本エスペラント普及会の後援で、昭和七年四月二一日から四日間東京丸ノ内の丸ビルで開催された。全国の高等女学校から五〇〇点余の作品がよせられ、津田青楓・鈴木信太郎・小室翠雲・石山太伯らが審査にあたり、展覧会後欧米各国におくられた。
昭和七年二月にはパリ商科大学卒業のハンガリー人で人類愛善会の宣伝使に任命されたヨセフ・マヨールが来日し、本部の海外宣伝部員として奉仕することになった。一〇月、第二〇回日本エスペラント大会は東京においてひらかれたか、大本分科会がもたれ、大本を外国に紹介するさいはエスペラントを利用すること、および愛国的見解と情熱をもってエスペラント運動を指導することが決定された。また大本のエスペラント採用十周年記念として、昭和八年に日本エスペラント大会を京都と亀岡でもよおすこととなった。一方七月からはじめられていたエスペラント採用の陳情運動には、知名士の賛同者五六二人をえていた。そこで「我々がエスペラントの普及を冀ひまた努力する所以は、エスペラントが人類の文化に大なる貢献をなせるものなると共に、我日本に対して外交に学術に通商に教育に莫大なる利益を齎すものなるを信ずる愛国の至情に出たものであります」との陳情書がつくられ、内務大臣あてに提出され、また「此際貴省にエスペラント調査会の如きものを設けられ、該語を小学校の上級及び中学校の科程に編入する事に就て調査を開始せしめられ度く」との陳情書が文部大臣あてに提出された。
さらに一九三三(昭和八)年一月には、海外宣伝課長西村光月は渡満して、「満州国」国務総理および民政・外交・実業・交通各部あてにエスペラント採用についての陳情書をそれぞれ提出した。このころエスペラントにたいする一般の関心もしだいにたかまり、同年一月四日、東京市長永田秀次郎はラジオの全国放送で、エスペラントを「各国に使用せしめることを日本から主張せよ」と提案している。
三月二七日第二回信者総会でエスペラント運動の普及拡大が本部から指示されたが、同日エスペラント・ローマ字の夕べを亀岡天恩郷で開催したさい、聖師によって「世界中をいろは四十八文字を使って日本語をもって統一すると右筆先にも出てをります。しかしこれは容易なことではなく余程の時日を要するのでありますから、どうしてもその間はエスペラントによらなければならないのであります」と、エスペラント採用の意義があきらかにされている。
一一月五日、大本エスペラント普及会創立十周年記念の行事が亀岡天恩郷でもよおされた。この日は京都で開催されていた第二一回日本エスペラント大会の第三日目にあたり、大会参加の全員が亀岡に移動してきた。記念式典は医学博士八木日出雄・由里忠勝・重松太喜三らの挨拶や、世界二〇ヵ国からよせられた五四通の祝文の朗読などがあって盛大であった。
一九三四(昭和九)年春、第二二回日本エスペラント大会が長崎において開催され、大本エスペラント普及会よりの「全国中学校にエス語を採用せしむる事、及びそれに関する資料蒐集委員会を設置する件」の提案が決議され、西村光月らが委員にえらばれた。そして五月一六日、大本海外宣伝課に委員会の事務所が設置され具体案の作製にとりかかった。八月二四日人類愛善会総会において西村はエスペラント運動に関して報告した。その内容は、エスペラントの講習会は過去一ヵ年の実績で開催数二五回・聴講者一万三〇〇〇人、エスペラント普及会支部は一〇〇ヵ所で、地方講師は五〇人、「国際大本」の発行部数は一〇〇〇部、「緑の世界」の購読者は五〇〇人以上、最近のエス文出版物としては『大本の大要』『大本及び愛善会の概要』『実用エスペラント会話』『エス和作歌辞典(第三版)』『基本エスペラント講話』、またマヨールの吹込みレコードとして「エスペラントの発音法」「何故日本人はエスペラントを学ぶべきか」の四枚一組を作製したことなどであった。また日本ではじめての『日本エスペランチスト住所録』(約二〇〇〇人掲載)が出版された。本部での大祭にはかならず「エスペラント・ローマ字の夕べ」がもよおされ、マヨールをはじめ本部講師の精力的な講習行脚をはじめとして、講習会やエスペラント展覧会の開催等を各主会・連合会・支部が主催し、啓発・普及に不断の努力がつづけられた。
こうした諸活動が日本におけるエスペラントの普及におおきな貢献をしたことはいうまでもない。
ローマ字の普及活動については、一九三四(昭和九)年四月が日本におけるローマ字普及会創立五十周年記念にあたるので、それにちなんで関西ローマ字連盟春期総会が四月二二日に亀岡天恩郷光照殿で開催され、同時に大本のローマ字普及会創立十周年の記念式典もおこなわれた。この日西村光月の提案によって斎藤総理大臣にあて、日本式ローマ字採用の要請電文を満場一致可決し、各新聞社へも日本式ローマ字採用を要請した。そして記念出版の出口聖師著『四季誌満』や「日本」の特別号、ローマ字の手旗などを頒布した。なおローマ字出版物としては月刊誌「日本」のほか、日出麿著『へちまのねごと』かおり、昭和一〇年一〇月には『大本祝詞』が出版されている。
一九三五(昭和一〇)年一一月一五日、大本のローマ字普及会は、日本式ローマ字を採用せよとの要望書を、ふたたび文部省その他関係方面に送達し、各支部にたいし世論の喚起につとめるよう要請した。ローマ字普及会は全国に講師を派遣し、とくに小中学生を対象とする講習会を開き、その普及に努力した。
〈大日本武道宣揚会〉 大日本武道宣揚会は、一九三三(昭和八)年一月東京に関東出張所を設け、大本紫雲郷別院には仮道場をおいた。同年二月からは本部講習会が開催されることとなり、また亀岡天恩郷中之島には聖師の命で弓道部道場が完成された。
同年五月一日には、大日本武道宣揚会の本部が兵庫県竹田町に移転された。一九三五(昭和一〇)年七月一日、会長に出口日出麿、範主に植芝守高が新任された。大本大祭第五日目の一〇月三一日には、亀岡天恩郷で奉納武道大会がもよおされ、各教士練士の模範試合・個人試合・対抗試合があって盛大であった。
また要請によって、名古屋や仙台の憲兵隊・海軍大学・舞鶴要港部防備隊・横須賀海軍砲術学校・神奈川県警察部・警察練習所・大津警察署・在郷軍人会や中学校などでも講習会をひらいて指導にあたった。
〈明光運動〉 文芸運動としての明光社の活動はその後も順調に発展した。一九三三(昭和八)年からは聖師の歌日記のつづきをすべて「明光」に掲載することとなり、「明光」の内容が一段と充実した。八月五日、寿賀麿にかわって大国以都雄が社長に、次長に井上荘三郎・奥村芳夫が就任したが、一〇月四日奥村にかわって森良仁が次長に就任した。一一月の大本大祭には明光運動の社友数一五〇〇人を春の大祭までに倍加する運動をよびかけ、第一回全国支社冠句大会が五六七殿で開催された。参加支社五八、応募句数二万五〇〇〇句であった。その後毎年一回全国支社冠句大会がひらかれている。昭和九年四月には社友は二五〇〇人となり、毎月本社へ投稿してくる句数も八万をこえる盛況となった。したがって全国支社冠句大会の投稿句数も増加し、同年八月の第三回の大会には応募句数六万に達している。「明光」は昭和九年一二月号で第一〇〇号となり、これを記念して翌年一月より短歌は同人組織にあらためた。
一九三五(昭和一〇)年一〇月三一日大本の秋の大祭に明光社において第一回の「歌祭り」が盛大にもよおされた。歌祭りについては「明光」(昭和10・12)に、大要聖師の次のような談話がのっている。「仁徳天皇の御宇までの古典を調べますと『歌垣に立つ』といふことが時々見当る。……歌垣といふのは、歌を書いて、それを垣にしてあるもので、……歌祭といふのは、この歌垣を中心として自分の村々で年に一遍づつ行つたのである。平素から村人間の怨み妬み、また一家のもめごと、一切のいざこざを歌祭によって、神様の御心を和めると共に村人の心持をも和め、一切の罪悪を清め、八重垣を払ひ去る平和な祭である。……この歌祭も源頼朝が鎌倉に幕府を開き、武家の世になってから絶えてしまって、宮中に歌会が残ってゐたくらいである。私の二十三才(満二二才)の時に園部の岡田惟平翁といふ国学者に歌垣の作り方、祭りの仕方とその歴史を聞かされた。弓太鼓は、素盞嗚尊が八十国の雲霧を払ひ、八重垣を取払ふにはどうしたらよからうかと心を痛め沈んでゐられる時、櫛稲田姫が、弓を桶にくゝり付けて叩かれた。それが弓太鼓の濫觴である。それが後には一絃琴になり、二絃琴になり、今日の沢山絃のある琴ができた。更に右と左に侍女神がいるが、これは手撫槌と足撫槌になぞらへたもので、弓太鼓を鳴らす役は櫛稲田姫になぞらへるのです」。明光社でおこなった歌祭りは古事にのっとっておこなわれたものであるが、そこには聖師による創意も加味されている。同年一一月一七日、北陸別院にて聖師臨席のもとでおこなわれた歌祭りが、地方における歌祭りの最初で、ついで一二月八日島根別院でもおこなわれた。
「明光」に掲載された短歌は一〇五回・冠沓句一一一回・冠短句八〇回・随意句八六回・川柳二九回、その他自由律短歌・詩歌・随筆等であったが、地方の各支社で募集した短歌・冠沓句などもことごとく掲載されたので、毎月大冊となった。会員は全国の信者はもちろん同好のものが参加した関係から、「明光」と友誼交流し支援する歌壇・文芸社がおおく、こうして明光運動は全国に波及した。
〈出口聖師の歌集〉 一九三一(昭和六)年五月、聖師の歌集『花明山』が発行されたが、歌人尾山篤二郎はその序文で聖師の歌はその様式が多種多様であり、大体三つにわけることができるとして「第一は、日常の歌及び自然諷詠の歌である。第二は自伝歌集である。少青年期よりはじまり、大本の樹立と開展と受難その他に就いて、歌で物語を作るといふ行き方である。第三は道歌集である。即ち道歌であると同時に不平歌であり、自省歌であり、警世歌である。……飾気なく、衒気なく、卒直に真直ぐに歌つてゐる。……歌詞、歌語、はなはだ豊富であり且つ自在である。古記神典に対する素養はこれはもともと宗教者であるから当然のこととして、古語雅言の駆使の自由自在なるは、駆出しの歌人輩の及ぶ処ではない」と評している。
歌集『花明山』にはじまり昭和八年六月にいたる二年余の間に『彗星』『故山の夢』『霞の奥』『東の光』『霧の海』『白童子』『青嵐』『公孫樹』『浪の音』『山と海』などが次々と公刊された。これら一一の歌集におさめられた短歌は三万五〇〇〇余首、詩・童謡数編で、一冊平均三〇〇〇余首、いずれも五〇〇頁前後のもので当時の歌集としては型破りの大冊であった。これらの歌集を大別すると『東の光』は道歌、『故山の夢』『霧の海』『青嵐』『浪の音』は聖師四才より三〇才ころまでの自伝回顧歌、その他は昭和五年五月から昭和八年四月にいたるまでの生活に即した歌、自然観景や時流をうたったものである。そのなかには他の歌誌へ投稿されたものも集録されてある。そしてこれらの序文は尾山篤二郎・尾上柴舟・若山喜志子・前田夕暮・生田蝶介・飯田兼次郎らによってかかれている。
各歌壇はいっせいに評論した。それは三〇社にもおよぶが、その二、三の例を引用すると「作品は芸術的価値に乏しいか作者の抱負と天稟の経綸を伝へるに遺憾なく成功してゐる」(「情脈」)、「著者は全国各地の結社に関係すること百有余、一夜よく数百首をものにして尚余裕綽々、歌集といへば刻苦精励十年或は二十年の後、一生一代の事業の如く考へてゐる歌人達に対してあまりにも鮮かな側射である、桃源長夜の惰眼をつゞけてゐる歌壇に、断然センセーションを捲き起したのもあながち不思議ではない」(「影廊」)、「先づ歌壇始まつて以来、かくも華々しく武者振り勇ましく進出を企だてた人もないであらう。今年六十一才、還暦の好々爺で、童顔巨躯の持主である」(「短歌月刊」)、「驚くべきは、著者は自由定型は勿論、プロ歌或は芸術派にまで及んでゐることである。かくの如く多能多技にして清濁併せ呑むの巨人であるを覗ひ知り得る」(「短歌」)とのべており、歌集発刊の波紋のほどがうかがわれる。
つづいて聖師作『十万歌集』の出版が企図され、その編纂に着手された。
〔写真〕
○人類愛善会旗 p260
○創刊満10年をむかえた人類愛善新聞 p262
○続発する災害には本部・地方諸機関が機敏に救援活動をおこした p264
○大本エスペラント普及会創立10周年記念大会の参加者 亀岡天恩郷 p267
○ローマ字雑誌NIPPON 日本とアメリカを改題 p269
○明光社旗 p270
○第一回歌祭 〝敷島の大和みうたをよみよみ神素盞嗚の神偲ぶかな〟朗詠される出口聖師 弾奏の弓太鼓と八雲琴 p271
○出口王仁三郎歌集 昭和6年5月から昭和8年6月まで p273