占領軍は、占領当初の一九四五(昭和二〇)年一〇月四日に、「政治、信教並に民権の自由に対する制限の除去」の指令を発して、信教の自由を保障し、宗教弾圧による被検挙者の釈放を命じた。つづいて一二月一五日、日本政府にたいして、「国家神道、神社神道にたいする政府の保障、支援、保全、監督及び弘布の廃止に関する件」の覚書(神道指令)を発した。占領軍は、日本軍国主義の精神的支柱であった国家神道を無力化する方針をとり、この指令によって国家神道を禁止したが、同時に、神社神道が軍国主義ないし過激な国家主義の要素をとりのぞいたのち、国家と関係ない一宗教として存続するよう示唆した。
占領下の政府は、神道指令の二週間後、治安維持法とともに廃止された宗教団体法にかわる宗教法人令を、緊急勅令として公布施行した。これは信教の自由、政教の分離の大原則にたって、届出制度による宗教活動の完全な自由を保障するものであった。翌一九四六(昭和二一)年元旦には、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」とのいわゆる人間宣言の詔書がだされた。天皇を超絶的権威とする国家神道体制は、ここに崩れ去ったのである。
占領軍による民主化によって、国家神道の禁止と、信教の自由が実現したことは、日本の宗教史のうえでの画期的な出来事であった。近代日本の諸宗教は、国家神道体制のもとで、天皇崇拝の受容を強制され、国家への奉仕を義務づけられていた。
しかしそうした困難な条件のもとでも、信教の自由をもとめる信仰者の運動がなかったわけではない。ファシズムが制覇した時期には、大本はじめ、ひとのみち教団、天理ほんみち、仏教の法華信仰系・念仏系諸宗、キリスト教のホーリネス・救世軍・無教会主義などが、はげしい迫害のなかで信仰をまもりつづけた。教団が経営していた私立学校も、各宗教と同じく、弾圧の下にくるしい抵抗をつづけていた。信教自由の実現は、単に占領軍によってのみあたえられたものではなく、日本国民の信教自由をもとめるながいあゆみの帰結として、すなわち日本国民の間に根づよくながれていた「民主主義的傾向ノ復活強化」(ポツダム宣言)としての意味をもっていたこともみうしなうわけにはいかない。
一九四七(昭和二二)年五月三日には、国民主権と戦争放棄をあきらかにした「日本国憲法」が施行された。その第二十条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とさだめた。信教の自由は、近代社会における国民の基本的権利であり、政治と宗教の分離は、この権利のもっとも重要な前提となった。日本国民はこの憲法において、はじめて完全な信教の自由を獲得したのである。
しかし、民主化の発展に直面した支配層の間では、宗教を国民の間での民主主義の前進にたいする防壁とみなして、政策的に宗教の権威復活を望む意向が、露骨に表明された。議会は、敗戦一周年の日に宗教教育の振興、宗教情操の涵養を決議した。また、敗戦直後の天皇の伊勢神宮への「終戦奉告」参拝をはじめとして、天皇と神社神道との関係を保持する工作が重ねられた。占領軍は、天皇の個人の資格での行動であるとして、この方向を黙認した。アメリカ占領軍は、ソ連との対立の表面化とともに、日本支配のために天皇の存在をますます重視し、天皇の権威の温存復活を配慮して、極東軍事裁判では天皇の戦争責任の追及を不十分なものとした。占領軍当局は、軍国主義と極端な国家主義思想の根絶を理由に、宗教団体を監視し、諸宗教にたいして、占領政策への忠実な協力と支持を要求した。惟神連盟・天津教など八つの神道系の地方的小教団などには、団体等規正令(昭和24・4・4公布施行)が適用され、国家主義的教義を宣伝し、占領軍を批判したなどの理由によって解散を命じている。
宗教界にたいする占領軍の有形無形の圧力は、占領政策の反動化の進行とともに、信教自由の実現に対応する日本の宗教の自主的な発展を抑制する役割を果した。
〔写真〕
○弾圧をこえて…… p722