大本は伝統的に文書宣伝に力をいれることが特色の一つであった。愛善苑の発足にあたっても、出版活動を宣教企画の第一に取りあげた。まず機関誌を発行することにし、教団の名称が愛善苑と決定されるとともに、機関誌も「愛善苑」とすることに決めた。創刊号の編集会議は事件解決後まもない一九四五(昭和二〇)年一一月一一日からはじめられ、原稿についてはことごとく会議にかけて検討し、慎重を期して準備をすすめた。これよりさき中外日報社主真渓涙骨からの申出によって、一一月一四日中外日報社の印刷所をゆずりうけることとなった(六編五章三節)。かねてより中外日報社と教団は密接なつながりがあったので、「中外日報」はその年の一二月ころから毎号特別欄を設けて愛善苑の動きを速報し、全国信徒への連絡に資することがおおかった。
機関誌「愛善苑」(B5判)の発行については、編集責任者を桜井重雄、発行責任者を土井三郎とし、編集部は中矢田農園に、出版部は横町の東風荘において作業をはじめた。一九四六(昭和二一)年二月に創刊号発行の予定であったが、戦災によって印刷工場のおおくが焼失し、くわえて用紙・印刷資材が統制で配給になっていたので入手か困難をきわめ、新規の発行はきわめてむつかしい状況であった。しかし百方手をつくし、西村久吉らの奔走によって紙型を淡路島志筑町の井村印刷所でつくらせ、用紙は闇値で統制外の仙花紙を手にいれ、戦災をまぬがれた大阪の印刷工場で印刷して、ようやく四月一日に創刊号一万部を発行するにいたった。題字は聖師の筆である。
創刊の辞では「平和な民主主義的新しき道義の国日本を建設し、人種や国籍や宗教の差別を超越して人類共存共栄の永遠に平和と幸福に充てる世界を実現せしめる要訣」として愛善精神の普及徹底を強調し、「独善と偏狭を戒め、互に胸襟を開いて共に語り共に研鑚し、愛善世界の実現に邁進したい」とその抱負をのべている。しかし用紙の不足と占領軍による事前検閲のため、編集はかなり制約されていた。とくに占領軍や極東軍事裁判にたいする批難、天皇の神聖化・大和民族の優秀性・軍国主義・財閥・大東亜共栄圈などを擁護・弁護した記事が禁止されたのはもちろんであるが、食糧飢饉・インフレーションにより窮乏した世相についてのくわしい報道などもゆるされず、検閲はきびしかった。
四月四日、すでに入手していた中外日報社の印刷所を愛善苑で経営することとなったので、ここに愛善苑中外印制所(主任土井三郎、京都市東山区一橋宮ノ内七)をもうけ、「愛善苑」第二号より第四号までは井村印刷所で整版のうえ、紙型としてこれを中外印刷所で印刷した。しかしその間、瀬尾晶彦をはじめ信徒の子弟の入所をもとめて印刷技術の修得につとめ、設備の改善をはかって、第五号からは全面的に中外印刷所で整版し印刷・発行することができるようになった。聖師は昭和二一年三月一五日から歌日記をふたたびはじめられたが、第三号(昭和21・7)から「愛善苑」に掲載され精彩をくわえた。製本については、創刊号は中矢田農園の聖師の居宅、第二号からは東風荘で信徒の奉仕によっておこなわれていたが、一二月には道場(西光館)の完成とともに編集部と出版部は道場内の仮事務所にうつり、事務規定の改正によって教務部編集課、総務部出版課となった。
一二月八日には旬刊「愛善時報」を創刊した。これは全国の会員にたいする連絡機関紙であるとともに、ひろく社会によびかける宣伝普及紙をもかねた、タブロイド型二頁の新聞である。のちには四頁月ニ回発行とした。
一九四七(昭和二二)年四月一日から「愛善こども新聞」(タブロイド判二頁、月刊)を発行し、五月からは「愛善苑」を月ニ回発行となし、そのなかに「愛善時報」の記事を吸収した。「愛善時報」は六月より「愛善新聞」(タブロイド判二頁)と改題し、月一回発行となり、「愛善こども新聞」の内容を吸収して青年と子供むきの新聞になった。のち、農事向機関誌とされた。
六月五日には、瑞月文庫第一編として、『愛善の道』が発行された。『愛善の道』は新発足してからのはじめての単行本出版であった。『愛善の道』は、かつて聖師によって詠まれた数おおくの歌のなかから、教えに関するもの五〇〇首を厳選し編纂したものである。用紙は、困難な輸送事情のもと非常な苦心をはらつて、手漉の和紙を産地の土佐からひき、心血をそそいでの立派なできばえに、このころすでに病床にあった聖師は、手をうってよろこばれたという。ついで九月、伊藤栄蔵著『愛善苑を語る』が発行された。これは新発足した愛善苑の概要を紹介したものであった。
一九四八(昭和二三)年一月「愛善新聞」を一五号で廃刊し、農事指導のための「愛善新聞」(旬刊)が発行された。一月八日には不定期刊として「愛善教報」(B5判)を発行した。これは地方各機関との連絡を主とし、従来の「愛善苑」は主に宣伝機関誌とした。なお、この年の一月一日には、これまで総務部と教務部にわかれていた、編集・印刷・出版を統合して瑞光社を新設し、社長には東尾吉三郎、副社長には土井三郎が就任して、中外印刷所は瑞光社出版課の下におくこととした。
「愛善苑」は、創刊号以来一万部以上の発行をつづけ、短時日のあいだに機関誌・単行本も出版され、文書活動は宣教の第一線的役割をはたしていた。しかし用紙や資材の入手には血のにじむような苦心と努力がはらわれたのである。当時はすべて割当制度で、用紙は日本出版協会、資材は京都府印刷協同組合に加入して配給をうける仕組みになっていたが、実績をもたない新規加入者への割当はなかった。いきおい「ヤミ」にたよるほかはなかったのが実情で、その間の苦衷を土井は「その獲得にはほんめいに疲れ果てたと申すのが当時の事情であり……事業推進のためには値段や品質は問題でなく……かかる状勢の裡にあって愛善苑誌の発行をつづけ、次々に単行本を発行し得たことは全く神助と申す外無く」としるしている。また電力事情もわるかった。とくに一、二月の厳寒期や、渇水期は最悪の状態で、作業はほとんど深夜というときもあり、それも波状停電のため、のべ三、四時間に、愛善苑の機関誌・単行本のほか、「中外日報」の印刷もおこなったのである。
〔写真〕
○愛善苑 月刊 いちはやく出版体制を確立して教団の新発足と主張が全国につたえられた 右は検閲のため陽のめをみなかった創刊号 p771
○愛善時報と愛善こども新聞 p772
○愛善の道 はじめての単行本 p773
○愛善教報 愛善苑を語る p773
○文書宣教に大きな役割りをはたした愛善苑中外印刷所 当時の印刷部員と標札 後方は社屋 京都 p774