中矢田農園では、愛善苑の新発足前から出口家を中心として歌会がおこなわれ、また謡曲・仕舞(宝生流)は中野岩太(茗水)、茶道は裏干家流の川那辺宗貴の指導をうけて、稽古がつづけられていた。一九四五(昭和二〇)年の春からは、聖師によって「楽天社」の名をあたえられ、さらに芸術への道に精進することになった(「愛善時報」昭和22・5)。
昭和二一年四月二五日、中矢田農園で楽天社第一回の謡曲・仕舞の会をもよおし、五月二九日には短歌会をひらいた。その後八月からは「アララギ」同人の夏山茂樹をむかえて毎月歌会をおこない、「愛善苑」には第二号以下毎月愛善歌壇・愛善俳壇をもうけた。第八号以下、歌壇の選者は夏山茂樹に、俳壇の選者は矢田挿雲に依頼した。「愛善時報」では第二号(昭和21・12・18)から冠句・沓句を募集して楽天社で選をおこなった。一二月八日には瑞祥館・道場完成祭を記念して、楽天社主催で「芸能の夕」がもよおされ、謡曲・仕舞・舞踊・朗詠・即席冠沓句などでにぎわった。同日愛善苑事務規定がはじめて制定され、楽天社にかんする事項は教務部の芸能課(昭和22・1・22、愛善苑事務規定の改正により芸術課と改称)で担当することになった。課長には出口貞四郎が就任し、昭和二二年二月からは出口虎雄がそのあとをついだ。
一九四七(昭和二二)年三月、楽天社の会合で、「偉大なる芸術は偉大なる宗教である。真善美の世界へ無限に展開せんとする道程に芸術と宗教はともに表裏の大道であり、車の両輪でありうる」との主張にもとづいて、楽天社に文芸・美術・工芸・演能・音楽・演劇・理論の各部門をおき、生活の芸術化につとめることとした。同月二三日には演劇部の第一回試演として、「狸の改心」などがおこなわれた。五月八日には本部道場の神前で、裏千家家元の千宗室により献茶式がおこなわれ、中野岩太の素謡・仕舞の奉納があった。来賓はじめ約四〇〇人が参列した。
同日、苑主の歌集『愛善の道』のなかからえらんだ歌を同志社高女教諭野村芳雄が作曲した。そして六曲の発表が本部青少年の合唱によっておこなわれた。一〇月三〇日には、四〇人の青年男女により愛善合唱団が結成され、のち本部芸術課に属して活動をつづけた。
〔写真〕
○楽天社の第1回謡曲 仕舞の会 前列左三代目から 直日夫人 すみ子夫人 p775
○新緑にはえる天恩郷での歓談 左から干宗室と出口委員長 p776