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おいたち

インフォメーション
題名:おいたち 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:968 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195402c8131
 三代教主補出口日出麿(元男)は、一八九七(明治三〇)年一二月二八日、岡山県倉敷市阿知町に住む呉服商の仁科清吉(父)・同秀野(母)の二男として出生した。しかし出生前から祖母の実家にあたる連島村西之浦の高見和平次の世嗣として約束されていた。高見家はもともと子宝にめぐまれず、清吉の弟政平が高見家の養子になっていたが、政平は妻世井をのこして二一才で世を去った。政平と世井のあいだには一女が生まれたが、政平のあとをおうようにして帰幽した。そこで政平の血をひく元男が養子としてむかえられることになったのである。ところが、その後世井は有井の浅野家より入夫として欽二をむかえ三鶴・政恵・一雄の二女一男をもうけた。
 元男は高見家にひきとられるとまもなく、鶴新田岡崎の谷口弥作の家にあずけられ、乳母のせんによって育てられていたが、世井が三鶴を生んでからは、高見の家につれかえられ、世井の乳で育てられた。そのため戸籍上では和平次の長男となっているが、和平次を祖父とよび、世井を母とよぶようになった。
 高見家は屋号を長尾屋といった。一八八四(明治一七)年の大水害にあって西之浦にうつるまでは、鶴新田にあって五、六〇〇石積みの和船を二艘ももち、綿袋をさかんに積みだして売りさばいた豪商であった。田地も四、五町はあり、和平次は戸長をつとめたこともあった。西之浦へきてからは質商その他いろいろとこころみられたか、家計はかならずしもゆたかにならず、和平次の晩年には心配ごとかたえなかった。
 世井は一九〇七(明治四〇)年夫の欽二の米国出稼中に帰幽した。そのため欽二は長女の三鶴だけは元男の嫁にすべく高見家にとどめ、後妻をむかえて分家した。一九〇九(明治四二)年三月には養父の和平次が帰幽し、さらに一九一六(大正五)年一一月、元男が第六高等学校一年生のとき、「この世において自分にとって一番大事な」和平次の妻の石および三鶴のあいつぐ帰幽をむかえた。後年の「思ひ出の記」のなかには「……病人、死人相次ぎ家庭つねに陰惨。華やかなるべき少年時代は自分には実に泣きの涙の時代なりき。顔青白く、丈細く炬燵にあたっては独りただ広くほの暗き家の中に八犬伝を耽読せし頃の如何に悲しかりき。祖父は病床に死を期し、祖母は台所に粥をかしぐ。自分の半生のどの場面をとりてもことごとく悲劇なり。しかし真に自分を愛しくれたるは祖父母なり……」とのべられているが、幼少から複雑きわまりない家族構成のなかで、深刻な人生体験がくりひろげられていたのである。
 元男は生まれたころから実にうつくしい子だと評判であった。だが体はかならずしも丈夫でなく、はたして育つのかどうかと心配されていた。二階から落ちて気絶したこともあったが、一九〇四(明治三七)年四月に、西之浦の連島尋常高等小学校に入ってからは壮健になり、毎年皆勤賞か精勤賞をもらった。
 学科のなかでは、算術と体操と手工はきらいであったが、読方と綴方はもっとも得意で、先生からよくほめられたという。副級長に二年つづけてなり、郡長から模範生として褒美の硯をおくられたこともある。五年生のときから新聞を読みはじめ、月刊雑誌「日本少年」を愛読していた。また祖父の代筆をして、諸請取から金銭借用証や質の帖面も書かされ、書信はもとより、年貢の帖面もひきうけさせられたという。
 一九一〇(明治四三)年四月、尋常科を卒業してそのまま高等科に進学したが、倉敷の実家からのすすめで、明治四四年四月には、定員一二〇人にたいして約八〇〇人という難関を突破して、県立岡山第一中学校に入学した。岡山市船着町の叔母の婚家佐藤米店に寄宿して通学するようになる。学業成績は、最初の学期をのぞいてあとは一〇番以内より下がったことはなかった。小学校のころから文学好きで、『八犬伝』や『椿説(ちんせつ)弓張月(ゆみはりづき)どちらも曲亭馬琴・著とか『東海道膝栗毛』十返舎一九・著などがこのんで読まれ、中学三、四年のころからは俳句にも関心がよせられた。「山蔭に白帆下すや春の雨」という俳句が、「学生」誌に二等で当選したこともある。佐藤家に寄宿中、県立商業に通学する実兄蒼一(後に清吉を襲名)と二年間同居したため、この兄とのあいだにはとくにふかい親愛の情がむすばれた。中学を卒業する前、家人のすすめでしかたなく神戸高等商業を受験したが失敗し、一九一六(大正五)年九月に岡山の第六高等学校へは、たいした準備もしないでよい成績で入学した。
 高等学校の二ヵ年間の寮生活は、とくに有意義なものであった。当時の高等学校生特有のバンカラ風潮にもごく自然にとけこみ、二年つづいて組長をつとめた。とりわけ国語と漢文が得意であった。文科にはいって心理学を専攻し、黒住教や金光教に関する文献をしらべて、校友会誌に「私のみた黒住宗忠」という論文が執筆されているのも興味ふかい。また一九一七(大正六)年の中寮の寮歌は元男の作が当選したものであった。三年生になると寮生活にわかれをつげ、岡山市門田町の藤原嵓三宅に下宿したが、このころから学校も欠席がちとなり、人生とは何かが真剣に模索されはじめた。
 高見家の宗旨は真言宗であって、古い不動明王の画像があり、神棚には土公神・成田不動・天神・稲荷・姫金神・暗剣殺の金神・宇津神社・夷子神等々がまつられていた。後年は黒住教に入信している。祖母の石は非常な信心家で、仏事に熱心であったが、とくに善覚稲荷を信仰した。元男は幼いときから信心ふかく、善覚稲荷には毎朝かかさず日参して、祈りをささげた。またちかくの篦取神社(もと海若宮ともいい、のち若宮ととなう。祭神は大海津見神・豊玉姫・玉依姫)へもしばしば参拝した。
 元男は幼いころからすぐれた霊覚をもち、子供心にも霊の実在を信じていたが、中学へすすんでからは霊についての疑問がふかまった。中学卒業前には、大阪の神秘会の通信教授によって催眠術をならい、また心理学の本をよみ、狐が憑るとか先祖が出てくるとかいう霊媒の実地にもたびたびたちよってみたが、潜在意識や二重人格という説明ではとけない疑問が続出し、心理学や心霊問題の研究を熱心につづけた。
 一一才の夏から二〇才の秋にかけて身内の人の臨終に六度もあったので、人生朝露のごとしという考えは胸のそこにふかく彫りつけられ、またはやくから家庭内のいんうつな破綻や、利己心をむきだしにしたいざこざを見せつけられて、つよい厭世思想におちいっていた時代もあったが、それもこれも、みな後年における大使命自覚のための準備であったといえるであろう。元男の育った家の付近は、昔は金神の住まい場所であったことや、また屋敷の隅に鎮守として、「丑寅の金神」が石の宮にまつられていたことなども注意される。
〔写真〕
○小学校入学当時の高見元男 p969
○県立岡山第一中学校時代 p971

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