掬水荘に住んでいた出口直日のところへもときおり出入していた元男は、一九二七(昭和二)年七月から、本部の仕事のかたわら、直日に国文学や東洋史の講義をすることになった。その以前に京都から「高見元男」の名で『万葉集』がとどけられたこともあるという。やがて純真な二つの魂は信頼と敬愛の情にむすばれ、二代教主のすすめによって婚約がととのい、一一月一日みろく殿でそのことが発表された。
翌一九二八(昭和三)年二月一日、綾部の統務閣において、簡素な結婚式がおこなわれ、その夜教主殿における内祝宴の席上、聖師から「日出麿」の命名があり、ここに高見元男の時代はおわる。出口日出麿としての活動がはじまるのである。つづいて二月六日には大宣伝使に昇任され、教主補に就任した。結婚にいたるまでの経過については、三代直日によって後年つぎのようにのべられている。
日出麿先生と私の結婚について、何か特別の神秘が動機になっているように考えられている向もありますが、私自身には、それはどのことはなかったので、ただ、好ましい気持が、時間をへて、厚みをまし、信頼を固めていつたことによるものであります。亡くなった妹の一二三がすでに病いがちの頃「お姉さん、高見さんつて、面白い人やなア、うちとこへよく見舞にきてくれてやで。こんど見えたとき、一ぺんいうたげるさかい遊びにきなよ」といってくれたのが縁で、一二三のところで会ったのが初めてであったように記憶しています。……つき合っているうちに、私の感心させられたことは、非常にこまやかな神経をもった、人の気持の分る方であることに気づいたことでありました。皆は阿呆だとか、気がふれているとかいっていたようでしたが、ジーッと見ていますと、一ぱんの人よりもはるかに円満な、深い常識をもっている人であることに驚かされるのでした。それに、誰よりも無慾な超然としたところがありました。……超然とした態度の中に礼儀正しい人がらが感ぜられ、それがあたたかい心遣いからであり、そこに、信頼すべき高潔なものを感じ、しだいに私の心は尊敬の念いをよせるようになったのであります(『続・私の手帖』・「先生との結婚・それから」昭和32・12)。
また、日出麿師も当時を回想して、「その時分はやせこけた青白い名もない青年でした。その私を特に見込んだといふのは、一つには前生の因縁でもあらうが、彼女の目のつけ所が世間普通でなかつたからでせう。何等の望みもなく、頼りもなく、心身共に疲弊し切った私を認めてくれた、知つてゐてくれたといふだけでも、私にとつては終生忘れることのできぬ恩義である。いはんや一生の夫として、一教の後継者たるべき彼女が、私を見出したといふことにおいてをやである。形にとらはれ、背景に衒じやすいのが、人間の常である。かかるものを真に度外視してよくその人を視、その霊を知るといふことは至難である」(「神の国」昭和7・1、「光明国道中記」)とのべられているが、それはまさしく、己を知る人の自由なる魂と魂のでおいであったということができよう。
婚約が発表されてから1ヵ月半ばかりたった昭和二年一二月一八日の夜、日出麿は二代教主をたずねて「私の御用はどういう役でありますか」とたずね、自分の考えをのべた。あとで二代教主は真剣に神に祈って、彦火々出見尊と日の出の神の因縁や、直日と元男の夫婦がそろって日の出の神の御用をされるのであるとの神示があった。このことが日出麿に告げられた。日の出の神については、神諭にたびたびだされているが、出口清吉が出征して台湾で戦死したことや福島久子のこともあって、二代教主の心には、誰がこの御用をされるのかと日ごろから注意されていたのであろう。
日出麿師の教主補としての生活は、仮神号のご用・朝夕の礼拝の先達等々の神務、あるいは信者への面会・講話・執筆・病気祈願など多忙であったが、相変わらず悠々たる風格をもって物事に処していった。昭和三年三月のみろく大祭以後、教団の活動がしだいに活発となるにつれて、結婚後間もない教主補(昭和五年四月からは総統補要にと改称)の巡教の旅があいつぎ、国内はもとより海外へもおよんだ。東奔西走される聖師の留守をまもって、東京愛信会会長・人類愛善会総裁補・人類愛善新聞社社長・明光社副総裁・昭和青年会総裁補・昭和坤生会顧問・大日本武道宣揚会会長・大本本部統理・更始会会長の要職をつぎつぎに兼任し、内外の宣教・人類愛善運動・明光運動につとめた。その状況の大略はすでに五編にのべたとおりである。
〔写真〕
○教主補はおおくの要職を兼任して多忙をきわめ そのすぐれた霊能と風格は信者にしたわれていた 自筆の総務会提出案 p979