一九三五(昭和一〇)年の一二月第二次大本事件が勃発し、大本教団は権力によって徹底的に壊滅させられた。事件の核心が、大本の教義思想にふれてくるにつれて、日出麿師にたいする警察の態度はきわめて苛酷なものになった。その後における異常な行為と精神虚脱の状態や経過については、六編の第二次大本事件の章にのべられているが、一九三九(昭和一四)年一〇月二七日、京大付属病院から亀岡市中矢田農園にかえってからもその状態はつづいていた。一九四二(昭和一七)年四月一八日には、穴太の長久館に居住し、さらに翌一九四三(昭和一八)年六月三〇日からは兵庫県但馬の竹田別院にうつった。最初神前の間にむかえられてしばらくいたが、のちにみずからのぞんで蔵のなかにうつった。一九四五(昭和二〇)年には事件も解決し、翌年には愛善苑として新発足したが、日出麿師の蔵住まいは、約八年間におよんでいる。
一九五一(昭和二六)年一月、急にはげしい咳におそわれ、食欲はおとろえ、衰弱がめだったので、二月三日に亀岡天恩郷照明館にうつった。一時小康をえていたが、六月に再発し、七~八月と七〇余日にわたって高熱と咳がつづき、一時はきわめて憂慮すべき状態であった。さいわい高須令三博士・京大医学部深瀬博士によりピルツ菌症(ドイツ語でカビの意。カビのため肺臓がおかされ、肺結核とおなじ症状をしめす)と診断され、療法よろしきをえてやがて快復し、ときには苑の内外を散歩する日出麿師の姿をみかけるようになった。一九五二(昭和二七)年四月一日には、前述のように三代教主によって道統が継承され、日出麿師も教主補に就任された。一九五六(昭和三一)年九月八日には、新築なった朝陽館に居がうつされた。穴太時代を頂点として、竹田時代・照明館時代としだいに快復にむかっていたが、朝陽館にうつってからは一段と神性がそえられている。
三代教主は、「日出麿先生の現在の状態は、わたしたちでは判断がつかないのが本当です。……わたしの、日出麿先生への切実な気持は、だれにも分かってもらえないように思いますが、ただ、夫としてでなくとも──大本事件解決の鍵を握り、大本のために、現在の状態に這入って行った偉大な人──としても、日出麿先生のために心をくばっていただきたいと思います(『私の手帖』「葉がくれ硯」昭和28・6)、また『続・私の手帖』には「昭和十年の大本事件がなければ、先生はさらに、人間的な境地を楽しまれつつ、世の常人の至り得ないすばらしい世界を、あの悠々とした歩みを以て開拓して下さったことでしょうに。それをおもいみますとき、まことに、かたじけなく、もったいない限りであります」とうったえられ、さらに「げんざいの日出麿先生のご状態は、やはり未決で苦しめられた日の傷手がのこっていられますが、それにしても、一ぱんの人には計り知れない神秘がその中に動いていることは事実であります。けれども、そのはかり知れないものを、人間心で迷信化することはさけたいものであります。あれだけ純粋な人としての偉大な過去をもつ人の、げんざいの苦悩は、やがて明日の光明となるものを生み出されるべきであることを信ずるからであります」(『続・私の手帖』「先生との結婚・それから」昭和32・12)とのべられているが、その生活は大本信徒にとっては意義ふかいものであるといえよう。
竹田時代からこのかた、ほとんど毎日、終日碁盤にむかい、側近の者との間に碁がうたれているが、その碁は普通の勝負をあらそう碁とはおおいにおもむきをことにしている。囲碁界の権威呉清源が一九五三(昭和二八)年四月一五日、照明館に教主補を見舞い、二局碁の相手をしたが、その感想を、「碁は本来中国の堯舜時代より盤を天地に、黒白の石を陰陽に象どり、無心の境地に入って卦をたてるために存在したもので、近代のような技術をこらし勝負を争うものではありません・運霊先生の碁は、本来の碁道である『易』を行っておられるものと見ました。それで世の常の囲碁のように碁譜をとるような必要はありませんし、囲碁の定石概念では理解できないものです。運霊先生の碁は、霊の動く態を陰陽の石によって表わされているもので、その中に天地の運行が示されています。初めの第一局は陰に陽がおおわれている相で終り、運霊先生の面が暗く陰気でありました。これは今の世界の相でありましょう。第二局はそれが変って、運霊先生の面の色がだんだん明るくなり、一たん地に降った陽が天に向う象か出て来ました。そしてこれは〈地天泰〉という最上の卦で終りました。運霊先生は、自意識外に立って易を運ぶ碁を打っておられるのです。同じように書も、それが文字として辞書になくても、深い密意の存することと思います」(「木の花」昭和28・5)とのべている。教主補みずからによっても時折、これは「卦」「啓示」であるという意味のことがもらされている。
一九五七(昭和三二)年一二月二八日、教主補は満六〇才になり、還暦をいわう祭典が天恩郷でおこなわれたが、そのときの信徒の慶祝歌に、〝道のため世人のためにゐます君のおほき御幸をただ祈るなり〟(土井靖都)、〝ちくらの座にゐませる君よ今日せめて夫と父の座に休みませ〟(金原シゲノ)、〝弾圧の日より忍びてひたすらに道守りますいのち尊し〟(加藤明夫)、〝生れまして六十一年の佳き日にち苦難に坐して道ひらく君〟(嵯峨保二)とうたわれているのも、日出麿師にたいする信徒の敬愛の情をものがたる。
第二次大本事件前の染筆・揮毫の数はきわめておおいが、一九三九(昭和一四)年一〇月、亀岡の中矢田農園にかえられてからは、つねに筆と硯を座右において、折にふれては半折・色紙・短冊・半紙などに書・画・歌・句などがものされ、その染筆もかなりの数に達する。
その書について、日本書院理事・毎日書道展審査員の綾村坦園は、「最近の先生の書には、線だけが生きて、形はあるが、筆の当りがなくなっている。これは中国の一番古い文字で……三千年も昔の殷の時代の甲骨文──文字の根本の世界──まで悟られ、そこまで自然に通じられたものである。…墨量は、あくまで少ないから、あたかも寒巌枯木のすがたをおもわすものがあり、また仙骨をおびたともいえようし、あるいは鶴のごとき気品をたもっているとでもたとえられようか。……ところが、ごく最近のものには、実にまるい……曲線ばかりのやわらかい線でかいておられる。その上まるみが出て、肉がついている。先生は、欧陽詢(中国初唐の書家)の世界から、甲骨文の世界までゆかれて、こんどはご自分の自由な、まるい世界へ入ってこられたように感じる」(「おほもと」昭和40・2)とのべ、またその俳句について、三代教主は、「空白の後に始まる二十四年からは、先生にははるかな神仙の境にあってのご作吟です。その境地はさらに淡々とした、うららかなこだわりのない、まことに高いご心境ではありますが、紙背には、人には告げがたい悲しみが刻まれています」(句集『山懐集』序、昭和39・12)とのべられているが、その作品の神韻ひょうびょうのおもむきは、まさに神仙の世界の君の姿をつたえている。
教主補の日課は、日の出とともにおき、日没とともにやすまれる。日中は碁盤にかかい端座してすごされ、門外にでられることはない。それはまた「維摩の方丈に大千世界「四畳半裡の閑寂を破る風炉の音に天地の父音母音を聞く」にもたとえられようか。さまざまな問題やねがいをかかえて面会にきた信徒が、教主補の端的な一言または一動作によって、複雑な問題の解答をあたえられ、または想念のなかで出麿師にうったえ祈ることにより、深刻な難局を救われるというような事例はかぞえきれないという。著書には『ひとむかし』『信仰叢話』『信仰雑話』『信仰覚書』などがある。
日出麿師の還暦をいわって、三代教主によってよまれた、〝神仙の世界に君はいましつつわがゆく道を照らしたまへる〟の歌には、日出麿師の今日における状態と使命が直截にしめされているということができるであろう。
〔写真〕
○15年ぶりに天恩郷にかえられた日出麿師 p981
○〈地天泰〉来訪した呉清源との対局 昭和28年 亀岡天恩郷 照明館 p982
○三代教主補 出口日出麿 亀岡天恩郷 朝陽館 p984