大本における現在の多彩な芸術活動の祖型は、宗教家であると同時に多角的な芸術家であった出口王仁三郎聖師によってかたちづくられている。聖師は、青年時代から和歌・冠句等の文芸に熱心であって、成年期にあっては書・画をよくし、また陶芸にもひいでて、晩年には「耀盌」の制作などに新生命をひらくにいたった。他方、聖師は信徒の芸術開眼や芸術の生活化に意をもちいて、信徒にたいする芸術の指導におおいなる努力が傾注された。聖師は宗教と芸術の関係について、「現代の学者は『宗教は芸術の母なり』とか『宗教が芸術を生むのだ』と謂つておるさうである。私はそれは反対に『芸術は宗教の母なり、芸術は宗教を生む』と主張するのである。洪大無辺の大宇宙を創造したる神は、大芸術者でなければならぬ。天地創造の原動力、之れ大芸術の新芽である」とのべ、また「佯らず、飾らず惟神のまま」のものでなければならぬとして、「凡ての芸術作品は必然即ち巳むに止まれぬ要求と絶対の真実を持つてゐなければ成らぬ」(「月明」昭和2・5)とさとした。
さらに「私が、宗教が芸術を生むのではなく、芸術は宗教の母であると喝破したのは、今の人の云ふ芸術の事では無いのである。造化の芸術を指して云ふたのである。日月を師とする造化の芸術の謂ひである。現代人の云ふて居る芸術ならば、宗教は芸術の母なりと云ふ言葉が適して居る」(『月鏡』)と、真の芸術の意義にふれた注目すべき立場をとった。「芸術と宗教とは兄弟姉妹のごとく、親子のごとく、夫婦のごときもので、二つながら、人心の至情に根底をかため、ともに霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ちうつらしむる人生の大導師である。地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる饗導者である。故に吾々は左手を芸術にひかせ、右手を宗教にゆだねて、人生の逆旅を楽しく幸多く、辿り行かしめんと欲するのである」(『霊界物語』65巻、総説)などの指摘にも、芸術と宗教の関連についての独自の見解がしめされている。
一九二七(昭和二)年には、文芸運動の機関として明光社が創設され、短歌・俳句・冠句をふくむ文芸誌「明光」が創刊された。聖師は大本の文芸運動の陣頭にたって指導につとめ、いらい一九三五(昭和一〇)年一二月に第二次大本事件が勃発するまで、書画・陶芸・映画・演劇などの広汎な制作活動とともに、聖師の超人的な作歌活動はつづけられ、「明光」 の存在は歌壇における異彩をはなつにいたった。また信徒にたいする熱心なる指導がなされて、信徒のあいだにおける文芸への関心も急速にたかまって、年年、短歌や俳句の出詠・投句の数も増加して、大本における芸術活動がだんだん世の注目をあつめるようになった。
出口日出麿師も、「芸術は宗教の母なり」とする立場を推進して、「神に通ずる門戸として三つあります。それは善とか愛とかいふ方面から神を感ずる道、これは宗教或は道徳であります。真理、道理によつて神を感ずるのは、これは学問であります。美によつて神を感ずるのが、これが芸術であります。そしてそれぞれ特長がある。……美によつて神を感ずる者─これは誰でもはいれる。……この世の美を感じ、不思議を感じ、神秘を感じ、その奥の奥の本体たる神霊を感ずる、神を感ずるといふ行き方、これが一番万人共通の容易い道である。芸術は神様のお造りになつて居る美といふものを通して本体の神のお心、お力を思はし、そこへ行かすものであります。……高尚な芸術を次々覚えてゆけば心が高尚になる。高尚になつて行けば、終には神にまで行かねばならない様になるのであります。それで『芸術は宗教の母なり』といふ事になるものであります。………
要するに信仰は霊であり、芸術は早く云へば体である。……本当に信仰の人にならねば、本当に芸術的な人とはなれぬ。……昔は刀を鍛へるといふことに於いても必ず心身の潔斎精進をして、総てを清めに清めて着手したものであります。でありますから昔のものには魂が籠つて居る。絵をかくにしても必ず信仰的な気持をもち、一生懸命にさういふ守護神を念じてかいたものである。仏像を彫るにしても一刀三礼と云うて、一ペん小刀や、鑿を下す際にも三べん礼拝して彫る。それ位魂を籠めたものであります。つまり何事でも技術の極致に行けば、後は腹の問題になる。その腹は、信念、信仰によつてのみ出来上るのです。……で、芸術の人は必ず信仰に行き、信仰的の人は必ず芸術的な要素を、素因をもつて居る人であるといふ事は明かであります。
さういふ訳で信仰と芸術といふものは吾々の生活に……なくてはならぬ、一番大事なものである……。信仰がなかつたならば根のない草のやうなもので安心立命はないから……本当の生活ぢやない。……又生活に芸術がなかつたならば楽しみといふものがない。余裕といふものがない。……天地自然が絶大な芸術品であり、毎日が芸術の展覧会である。即ち神様御自身が最大な芸術家であらせられる……多忙な中に芸術が織り込まれ、又それ相応な余裕に於いて芸術が解し得られる。何も難かしい道理や、余計な金の要るやうな芸術に凝らなくても、その辺の調度品、あり合はせのものを如何にうまく活かして使ふか、美しく調和させるか、いかに自然、人事、風雅、景致を感受し勧賞、享楽するかといふところに芸術はある……芸術的な気持のある人は簡単な酔生夢死の生活でなしに非常に味はひあり、潤ひある生活が出来、非常に世界を沢山旅行し、奥深く世界を領有した事になる。趣味の豊な人、美を感ずる事の多い人はさういふ境地に居住し得る。又神様の神秘とか、世の中の微妙なこととかを、実によつて本能的に経験的に直ぐ自分が体得し得るやうになる。……信仰を一面やると共に又一面に芸術的な余裕ある生活を営むことが大切であります」(「神の国」昭和9・5)とのべ、芸術の生活化の重要性を指摘し、芸術が人間生活にうるおいをあたえ、人生をゆたかにするものであることをおしえた。日出麿師みずからも作歌や俳句にはげみ、「明光」誌の冠短句・自由句等の選にあたって、文芸運動の発展に尽力をおしまなかった。
さらに、一九二九(昭和四)年にいたって、聖師によって亀岡天恩郷に楽窯がきずかれ、楽焼による数々の茶碗・茶器が制作されるようになる。聖師はその論説のなかで、「裏表四十八手を叩き折る隻手の聞える人間で無ければ茶道の真髄は分らない。茶事は即ち禅の具体化、俳味の生活化で、そこに俳茶一味の響きが味へるのである。東漸して来た仏教が民族的体験、人格的発揮によつて原形を破壊し、新しい生命を生み出したのであつて、宗教であると共に芸術であり、又科学とも見られる。形の上から見て茶道と呼び、内容に聞いて俳味と称ふが、究毒すれば同根で、日本文化の洗練されたる紅白二種の色である。
維摩の方丈と月宮殿の宝座に大千世界を観ずるの人は、四畳半裡の閑寂を破る風炉の音に天地の父音母音を聞く人である。一句、一歌にして江山万里を髣髴せしむる大詩客である。紹鴎や利休は一代の詩客であり、躬恒や、西行は一世の茶人である。大威神力は凡て孤寂の相に潜んで居るものだ。孤節瓢然として、鴫立つ沢の秋の夕暮に寂蓼を歌った西行は、北面随一の荒武者宗清であつたでは無かつたか。無言の言に○○を跪かした国師大燈は、橋下塵上の流を枯木叫風と観じたる乞食である。豊公が撥乱反正の深謀秘策も利休の四畳半から叩き出したと云ふのも不可思議ではない。東風一度び荒野を撫すれば、千紫万紅一時に匂へど、九旬の春過ぐれば青一色で、只一月の天半にあつて然するのである。千億万を知るよりも此先覚の一事に参徴すれば足る。水泳は鱗族と競ひ泳ぐ為では無い。牛馬と駢馳してその健脚を誇つてはならぬ。
人世を茶化して一個半個を説得せんがために、茶を鬻ぎつつ御経の文句を書いて居た売茶翁の行為も余り徹底したとは云へないが、死に臨んで先づ茶器を茶毘に附した風懐や、十徳帮間とは云へ「浄らけき布巾だにあらば茶は飲めるものに候」と、茶器を購ひ呉れと其藩主から送ってきた三百金に添へて返した利休の風流にも、亦一顧の価値はあると思ふ。西行や、芭蕉の箕立相に捉へられて其残糟を啜るの徒や、達磨の不識や白隠の毒を喫するの輩や、道具好みに浮身をやつす成金茶客、皆形式に堕し言詮に弄ばれるの徒輩である……栂尾の明恵が茶を造つて弟子に飲ましたのは、千八百則の公案よりも一服の茶が正眼を開かしめたからである。栄西の「興禅護国論」よりも「喫茶養生記」の方が禅味があるやうである。
反省一番真の俳味を復活せんとして宗教家たる瑞月は、茶器を造り、茶道を奨励し、俳句、和歌、詩等を弘通し、花壇、温室を開いて真の宗教即ち俳道、茶道、芸術を専心唱導する所以である」(『日月日記三の巻「茶道」)とのべ、さらに俳道・茶道のあり方について、
「俳道は天地剖判の以前から流れている。森羅万象は悉皆俳的表現である。釈迦が女性醜と人間醜に中毒の結果は、ヒマラヤ山と云ふ小さい茶室に逃げ込んだ茶人であつた。『ソロモンの栄華も要らず百合の花』だの『陽炎や土にもの書く男あり』だのと発句つて居た耶蘇も、或る意味に於ける俳諧師である。
天地は其侭にして茶室である。自然の詠嘆はその侭にして天国の福音である。然しクリスチャンに耶蘇が解らないやうに、茶人は茶を知らず、俳人は俳道が分つて居ない。……千利休の如き俳人は、水呑百姓までが天下を奪はんと猛り狂つて居る真只中に、落葉の響き霜の声に耳を傾けて四畳半裡に大宇宙を包み、欠け茶碗に天地の幽寂を味つて、英雄の心事を憫れんで居た。……驕奢と栄華に耽溺し陶酔した豊臣氏に、荒壁造りの茅舎を見せ衒かして飛び付かせ、茶杓で丸木柱にフン縛つて了つた利休は俳諧史上の逸品である。外面的には利休は終に豊公に殺されたが、内部的精神的からみれば豊公は利休に殺されたのである。時めく天下の関白が、利休の為に四畳半裡に引摺りこまれて以来の豊公は、最早以前の豊公では無い。豊公は内部的に利休に殺されて、英雄の分際から只の凡爺に立還つて未見の世界が見られたのは、小不幸中の大幸福だったのである。又利休は豊公に殺されたお蔭で永遠の生命を獲得したのであつた」(『日月日記』三の巻「俳道」)等々としめし、利休と真実の茶の精神にもふれている。
こうして明光運動のめざす方向はしめされたが、その華を結実せぬままに一九三五(昭和一〇)年の第二次大本事件をむかえた。しかし弾圧の苦難のなかで、三代直日はみずから短歌・茶道・書道・謡曲・仕舞などへの精進をつづけるとともに、身内や信徒にはすすんで作歌をすすめ茶の指導にもあたった。「耀盌」制作への構想がねられ、二代すみ子の胸中には「機」への夢と工夫があたためられていた。一九四二(昭和一七)一方未決に拘留された出口聖師によって年八月、聖師夫妻が保釈出所されるや、中矢田農園を中心として芸術への活動がはやくも本格化し、一九四九(昭和二四)年一二月には大本楽天社が結成されて(七編四章五節)、大本の芸術活動は、出口直日を中心として飛躍的な発展の段階をむかえることになるのである。
三代直日ははやくから短歌・茶道にしたしみ、さらにすすんで書道・能・陶芸・草木染・手機など多方面にわたる精進をつづけた。また、植物、なかでも草花にたいする愛情はふかく、その写生画にも天性の芸術家としての能力が発揮され、多感な詩人としての才能は、世の識者の注目するところであった(八編一章一節)。
出口直日を中心的指導者とする大本楽天社の運動には、明光社時代の短歌・冠沓句等の文芸面の活動に、茶道・謡由・仕舞・能楽・陶芸・書道・美術・演劇・八雲琴などがくわえられ、その啓蒙と指導はいよいよさかんとなった。そしてさらに、花明山植物園の開設・歌祭りの復活・体道・木の花帯の普及など、幅ひろく多彩な芸術活動がくりひろげられた。たびたび本部・地方で研修講座がひらかれて、「信仰即芸術即生活」を一貫した理念とする指導がなされ、信仰とともに、いずれかの芸術に精進することによって、「信仰即芸術即生活」の境地を体得せしめることに重点がおかれた。
ことに機関誌「木の花」のはたした役割には顕著なものがある。「梅花一せいに開かんとして『木の花』は魁の一輪であり、芸術開眼の新しき光、神業の禁明を告げる雄鶏の叫び」(昭和25・1「創刊の辞」)として、霊性の向上と芸術の開眼をめざす綜合芸術雑誌を意図し、意欲的な編集がおこなわれた。芸術に関しては、出口聖師・三代教主・教主補の教示や論説が掲載されたほか寄稿もおおく、宝生流中野茗水の「能楽と大本信仰」、アララギ同人夏山茂樹の「短歌入門」(八回連載)・「短歌の手引き」(一四回)・「近代短歌の鑑賞」(一八回)、日本美術工芸主幹の加藤義一郎による「茶道読本」(二六回)、伝統工芸理事の宇野三吾による「日本の美」(一九回)、日本書院理事の綾村坦園による「書道の手引き」(一四回)・「文字の歴史」(一四回)、日本陶磁協会理事の佐藤進三による「焼物教室」(九回)、植物学者竹内敬の「草木記」(一一回)などのすぐれた論文が連載された。そのほか劇評家朝長耿英の演劇論や金沢美術工芸短期大学講師吉田彰一の絵画論、能画家松野奏風、美術評論家E・グリリなどの示唆にとんだ論評などが紹介されている。
また聖師や二代教主の道歌、三代教主の「私の手帖」、三代教主補の「覚書」などの教示、自叙伝として二代すみ子の「おさながたり」や三代直日の「谷間の流れ」、教主をかこんでの「花明山夜話」などがつぎつぎと掲載されて、霊性の糧となり人生の指針ともなる内容が豊富であった。また「木の花」は、信徒や同人の投稿にも門戸をひらき、創刊以来「木の花歌壇」をもうけて作歌の奨励につとめたほか、楽天社活動の方針や記事をも毎月報道して芸術運動の発展に尽力した。その後一九五六(昭和三一)年四月、教団の方針にしたがい綜合月刊誌「おほもと」に吸収された。
一方、対外的には一九五三(昭和二八)年一〇月二二日、東京にギャラリー「瓔珞」(神田区駿河台)を開設したのをはじめ、地方での作品展開催を積極的に推進した。本格的なものとしては、一九六〇(昭和三五)年六月に、大阪の大丸百貨店で六日間にわたり、筆先・耀盌・書画・陶芸作品など四九点を展示してひらかれた大本歴代教主作品展が注目される。入場者は一万五〇〇〇人といわれ、これを記念して『墨蹟・水墨・陶芸作品集』(A4判原色図版五、コロタイプ美術印刷、単色図版七三、紬布豪華装幀)が発行された。
この間運動の推進母体である大本楽天社の機構にも変遷があった。一九五二(昭和二七)年二月以来本部機構の一部門として活動してきたが、一九五八(昭和三三)年一〇月には教団一本化の線にそって、宣教部に芸術課がもうけられ、大本楽天社は教団の外廓団体となった。この機会にふたたび同人組織とし、地方の分社・支社を解消して社友による「集いの家」を設置したが、しかしその翌年八月の機構改革では本部の所属団体に指定された。
こうして大本の芸術活動は、大本楽天社の段階にはいってから、多方面にわたってよりふかまりをみせ、より視野をひろげていったが、その背景には、三代教主の無為にしておのずから化するところの芸術への精進があったことはいうまでもない。
〔写真〕
○大本文化は信仰即芸術即生活の理念でつらぬかれている 鶴山織草木染 p1222
○出口王仁三郎聖師筆 p1223
○写生をされる出口日出麿教主補 昭和14年 亀岡中矢田農園 p1225
○初窯の茶盌に絵付をされる出口すみ子二代教主 昭和25年 亀岡天恩郷 p1226
○天と…地と…人と… 出口直日三代教主 左はアララギ同人夏山茂樹 琵琶湖畔 p1229