かつての「明光」は、短歌・自由句・冠沓句等をふくめた文芸誌として異色の存在であった。前述したように、聖師は「明光」に月々数十首の詠草を発表するとともに、短歌・冠沓句等の選をおこなった。しかも、みずから染筆した色紙・短冊を賞として入選者にあたえて奨励したので、信徒はこぞって作歌・作句にはげむようになり、月々の投歌・句も数千のおおきにたっした。聖師の超人的作歌活動は一九三一(昭和六)年-一九三五(昭和一〇)年当時、全国一一〇余におよぶ歌壇に同人として参加し、しかも毎月それぞれの歌誌に作品を発表した事実にもはっきりとしめされている。歌壇の人々はその超人ぶりにおどろき、今日においても語りぐさになっているほどである。そのためおおくの歌人がしばしば亀岡天恩郷をおとずれ、明光社歌壇発展の気運をもりあげるのに寄与した。しかし「明光」に発表された一般・信徒出詠者の詠草は、のびのびとおおらかにうたわれてはいたが、その作歌態度におけるあまさはいなめなかった。「木の花」になってからは、アララギ派の歌人・夏山茂樹の主宰する「はにつち」の同人になっていた出口直日が中心にたった。それ以来出詠者の歌風も、漸次、写生を骨子とするきびしさをくわえて、作風・内容ともに質的な充実とおちつきをみせるようになった。
〈三代教主と作歌〉 一九五二(昭和二七)年の五月三〇日、一代を継承して間もない直日は、島根別院(現島根本苑)の大祭に臨席した。そのおりにのべた「作歌の心がまえについて」には、つぎのようにしめされている。
短歌は感激から湧き出たと乙ろの真言であって、腹を打ちわって出てくる言葉でなくてはならない。それでいつわりはもちろん、飾りや誇張に過ぎたものなどは取り上げられないのであります。まことの短歌は、いつも真剣な態度で生活し、真剣な態度でものに接し、凝視し、表現しなければならないと思います。安易な態度からはまことの歌は湧いて来ません。いつもこの初心の気持を持ちつづけて、そしていつも童心の気持にかえって作ることがもっとも肝要であります。手慣れて安易に作ることは絶対に禁物です。……歌を作るということは真剣で素直になるということで、そうでないとよい歌は出来ないものであります。
また一九五三(昭和二八)年一一月号の「木の花」に、作歌は精神を向上させるための「みたま磨き」であり、鎮魂法でもあるとして、「作歌することによって、私たちの魂の資質を緻密にしてゆくことができ、私たちの人生に潤いを与えてくれます。そして作歌するということは、精神に反省力をつけ、統一力をつけ、精神を向上せしめるもの、魂の力となるものを把握せしめます。したがって鎮魂の法でもあるわけです。ことに作歌は人間として、天地の真象に素直に向わしめ、素直に観、素直に受けしめるものとなります点から申しましでも、私たちの信仰にとって大切なことであります」とのべている。作歌は決して信仰と無縁なものでなく、むしろ信仰を向上させるために大切なものであることがおしえられているが、信仰に直結した作歌こそ、「明光」歌壇から「木の花」歌壇へ一貫する大本歌道の特質であった。
三代教主の第二次大本事件前および事件中の歌歴については、五編四章(二五八頁)・六編ですでにのべたとおりであるが、終戦後はアララギ派の夏山茂樹が主宰する短歌結社「はにつち」の同人になった。夏山茂樹は一九五三(昭和二八)年二月号の「木の花」に「短歌作品から見た直日さん」と題する一文をよせているが、その文には、「〝あきたらぬ思ひ父母に抱きつつ我の一生も大方過ぎぬ〟(直日詠)の歌は、直日さんの精神生活を知るために、欠くべからざる一首といへよう。この頃までの直日さんは、教団の一員としてよりも、むしろ、一人の人間として、芸術に生きる一人の人間として生活して来られたと見てよからう。さういふ人間性と宗教生活との食違ひ、父母との気持の食違ひへの嘆きが、偽ることなくこの一首には歌はれてある。宗団の中にあって、やがて後継者となるべき地位にありつつ、生き方を飽くまでも個の人間の上に置く直日さんの苦悩が、この一首にはありありと現れてゐるといってよからう。通常人の常識からいへば、直日さんは親不幸者といふことになるかも知れないが、自己の抱懐する気持を偽らず詠むことが唯一の道である歌作りとして、直日さんは世間の声や非難などに顧慮せず、自己を偽らず、一人の人間の背負ってゐる苦悩を、かう詠んでゐられるのであり、私はここに直日さんの人間を発見し、且つ親しさを覚ゆるのである。この系列の歌はまだ外にもある筈で、詩歌を理解できない道学者流ならば、眉をひそめるかも知れないが、私はここにこそ直日さんの人間的な錬磨の道があり、正直で虚飾なき生きた人間性を感じさせられるのである」として歌人直日の面目が生き生きとのべられている。
三代教主の第一歌集には、一九五三(昭和二八)年八月に発行された『ちり塚』がある。その自序には、「少女の頃、明治維新の志士烈伝を読み、そこに挿入されてゐた幾首かの歌に、伝記から受けた以上の深い感銘を覚えたことが、私の歌の道に関心を抱いた始まりのやうです。それ以来、若いころは、わりにきほつた心持で歌にはげみ、一生に度は歌集を出してみたいと思ったことがありましたが、長ずるにしたがひ、私には歌集にのこすやうな歌はないと思ふやうになりました。
それが、ふとしたはずみに、どうしたことか人のすすめに乗り、歌集出版の運びとなってしまひました……いま、集稿された自分の歌をみますと、もう忘れているものもあり、歌は下手でも、あの時はこんな思ひでゐたのかと、私の心の歴史を辿るやうで、懐しさの湧き上ってくるのを禁じ得ないものがあります。さうなると歌集の出ることがうれしくなつてくる私です。……これを機に、こののちは真面目に、ほんとうに心から努力し作歌してゆきたいと思ってゐます」とのべられている。
その序文にもあるように、みずからすすんで自分の歌集を出す意向はなかったが、当時大本審議会議長で北国新聞社社長だった嵯峨保二のつよいすすめによって、「直日先生歌集刊行会」から発行されたものである。収録された歌は一九二〇(大正九)年から一九四一(昭和二八)年まで、一八才から三九才までの間に詠まれた歌からえらばれている。そのなかには若山牧水主宰の「創作」や、中河幹子主宰の「ごぎやう」に投稿したものがおおく、第一次大本事件から第二次大本事件にわたる年月を背景として、純粋をもとめて真実に生きぬかんとした三代教主半生の人生記録でもある。
その翌年の一九五四(昭和二九)年三月には、第二歌集『雲珠桜』が発刊された。おさめられた歌は、一九四三(昭和一八)年から一九五三(昭和二八)年までの一〇年間にわたるもので、著者直日がアララギの歌風にまなんだ時代の作品を集録した。
楽天社では一九四六(昭和二一)年以来、夏山茂樹をまねいて月例の歌会をもよおし、「木の花」「おほもと」誌には「木の花歌壇(木の花抄・花明山集・松風集・毎月集)」をひらいて通信添削をおこない、短歌の一指導と普及に力をいれた。毎月の「木の花歌壇」には、国内をはじめブラジル、メキシコなどから二〇〇~三〇〇人の信徒が投歌し、また毎年の歌祭りにも四〇〇~五〇〇人の信徒から出詠があり、自己の職業や生活のなかからにじみでた着実な気風の作品でみたされるようになった。夏山の主宰するアララギの「はにつち」の同人も五〇余人にたっしている。
歌にたいする大本の重視は、歌祭りの伝統にもみいだすことができる。本部では一九五〇(昭和二五)年以来、毎年歌祭りがおこなわれているが、地方でもひきつづき、一九五三(昭和二八)年五月二日に金沢の加賀宝生能楽堂で金沢分社主催の歌祭り、翌年の五月八日には松江の島根別院赤山山上での歌祭り、さらに、一九五五(昭和三〇)年五月八日には新潟日報ホールで新潟主会が主催して第一回の歌祭りが、三代教主をむかえてそれぞれもよおされている。ついでその年の五月二九日には、東京の水道橋宝生能楽堂で第一回関東歌祭りが開催された。臨席された教主によって、「一社一派を飾る上手の歌ではないが、世界平和への理想にもえて、美の祖神に捧げるまごころと愛情の歌である」とかたられ、そのときの実況はNHKテレビでひろく紹介された。
短歌とともに、大衆文芸として伝統もあり、その普及に尽力してきた冠沓句にも力がそそがれた。一九四六(昭和二一)年一二月以来、毎月「愛善苑」誌に掲載されていた「誌上冠句」は、一九五六(昭和三一)年三月に五九回で中絶されたが、秋の全国支社冠句大会(昭和25・8月復活)と節分献灯冠句開巻(昭和26・2月開始)は大祭行事の一つとして毎年継続され、毎回二〇〇人前後の信徒が投句している。
なお大本の文芸活動として俳句のあったこともつけくわえておこう。一時は機関誌に俳壇がもうけられ、同好者の投句があった。とくに出口日出麿師の「へちま」「〓」などの雅号による句作はかなりの数量にのぼり、その一部は「山懐集」として「木の花」誌に発表された。三代教主は、「そこには早春の日向をおもわせる長閑な温い明るさが洋々と漂っています。けれどもその内淵をじっとみつめますと、……先生の越えられたいたいたしい苦難が哀しくも録されています。……はるかな神仙の境にあってのご作吟です」とのべているが、その作品は、きびしい現実の観照とちかよりがたい独自の境地につらぬかれている。
〔写真〕
○出口直日筆 p1232
○木の花短歌は信徒のあいだに根をおろししだいに実を結んでいった 月例歌会 正面右 出口虎雄楽天社社長 p1234
○地方での歌祭り 上から新潟主会 石川主会 島根別院 p1235