霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第五回公判調書(1)

インフォメーション
題名:第五回公判調書(1) 著者:
ページ:506
概要:被告人・井上留五郎の医師としての背景と大本入信の経緯が語られている。井上は医師として成功を収めながらも、医学の限界や当時の国民思想の悪化に不安を抱いていた。そのような中で大本の存在を知り、大正7年に出口王仁三郎と対面する。彼は王仁三郎による教育勅語の講話や病気療法の深い知識に感銘を受け、父の遺訓である「人のためになる仕事」を実践するため、私財を投じて奉仕生活に入ることを決意した。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2026-06-17 09:04:24 文字数:3740 OBC :B195503c220331
井上留五郎公判調書
 
第五回公判調書
 
〔公訴事実、被告人は第三回公判調書と同じに付省略〕
 
   弁護人 富沢効    田代三郎
       林逸郎    小山昇
       ふ山美登四  赤塚源二郎
       前田亀千代  清瀬一郎
       鍋島徳太郎  竹山三郎
       竹川兼栄   三木善建
       今井嘉幸    各出頭
   其の余の弁護人    各不出頭
裁判長は、
   京都憲兵隊本部
      軍曹  上田辰次郎
      同   中川繁三郎
を特別傍聴人として在廷を許可したり
 裁判長は前回に引続き審理すと宣し、
 被告人井上留五郎に対し検事陳述通りの被告事件を告知し此事件に付弁解すべきことありやを問ひたるに、
 被告人井上留五郎は、
  公訴事実に対する弁解は公判準備手続の際弁解しました通り大体間違ひありませぬ。
  私は公判が開廷せられて以来各相被告人が自由に供述させて戴いて居ります事を非常に喜んで居ります。
  私も偽りは申さず誠心誠意真実を申上げます事を御誓ひ申上ます。私は警察で御取調を受けて居つた時から其の覚悟で居つたのでありますから、止を得ぬ事情があつて意思に反した事を申上げ其の旨の聴取書調書が作成せられて居るのでありまして、私は此の点に関し甚だ遺憾に思つて居ります。
と述べたり。
 裁判長は、
 被告人井上留五郎に対〔し〕、
  前科なきや。
  前科はありませぬ。
  被告人の学歴経歴如何。
  予審で御取調を受けた際申上げた通りであります。
 裁判長は、
  被告人井上留五郎に対する予審第二回訊問調書第一問答を読み聞け、
  被告人は予審第二回訊問第一問答に於て学歴経歴に付斯様に供述し居るが此の通り間違ひなきや。
  其の通り相違ありませぬ、附加訂正すべき点はありませぬ。
  家族関係如何。
  私は前申しました通り渋谷文左衛門の三男にありましたので養父が死亡してから井上家へ養子に行き養母と共に暮して居りましたが養母は五年前に死亡致しました、現在の家族は私と妻と四男と六男の四人暮しであります、四男は只今活版所で働いて居り六男は病気をして居ります、尚其の外に子供が六人ありましたが長女は海軍々人の妻となつて居り五男は他家に養子に行き其の他の子供は何れも死亡しました。
  被告人の実家は如何にし居るや。
  私の実家は兄が相続して居りまして兄は学校の教員をして居り其の子供は医師となり開業して居ります。
  資産如何。
  私は医師をして居りましたので相当の収入を得て居りましたから五、六万円の資産を持つて居りましたが、大本に入信してから二万円位を神業奉仕に出し其の他は大本に関係して居つた間の生活費等に使つて仕舞ひましたから只今では資産は少しもありませぬ。
  収入は如何。
  収入は少しもありませぬ、大本では無一物になつたら生活費を貰へる事になつて居るのでありまして私も無産になつてから大本から生活費を貰つて居り最近では毎月六十五円乃至七十円を貰つて家族と共に生活して居つたのであります。
  大本入信の動機如何。
  私は七、八歳の頃にヂフテリアに罹つて居り殆んど死に瀕して居り其の頃血清療法がありませぬでしたので殆んど絶望であつたのに不思議に全快しました、私が全快したに付ては父が信仰家でありましたので神に願かけをして呉れましたので全快したとの事であります、其の後私が物心ついてからでありましたが父は私に右の事情を話し之れから職業を選ぶのであつたら人の為になる職業を選べと申されましたので私は医師になる事を決意したのであります、
 其の後私は医師となり開業しましたが、幸ひにも身分不相応に流行り最初の三、四年は何んな病気でも癒して遣ると思ふて居りましたが段々と日時の経過するにつれて医学の力の微弱である事を痛感しました、夫れで私は毎年東京の日本医学会に行き其の都度大学に行つて色々と研究して居りました、其の当時六百六号が発見せられた以外之と云ふ重大な発明はありませぬでした、其後友人の医師が私が東京に行つた際君は毎年研究に来て居るが何等得る処はないのではないか、動物人間は自然療能が直すのであると申しました、然し其の当時自然療能を説いて居る文献はなく、私は自然療能なるものの出所を知るのに苦しんで居りました、
 尚其の頃以来私は国民の思想が段々悪化して行く事を知りました、夫れと申しますのは私が患者へ往診に行きますと患家では医師に対しては家庭の内情を話しますので良く判つたのでありまして段々情宜の薄くなる事を感じました、それで私が最も恐ろしく感じたのは国家観念に於て恐るべき思想が起つて居る事を知つたことであります、確か明治時代であつたと思ふて居りますが、私が本郷の通りを歩いて居りました処道に写真が落ちて居りましたのを拾つて見ましたら其の写真は恐れ多くも明治天皇陛下の御写真であり夫れから二つに破つてありました、私は恐れ多い事と思ひましたので直ぐ之を拾つて家に持つて帰り今も家で御祀りをして居りますが、斯様な事がありましたので私は日本の将来に付て不安を感ずるに至りました、従つて私は医学思想両面に亘つて如何に打開すべきかを考へて居つたのであります。
 大正六年の末頃であつたと思ひますが、松江市で発行して居ります「彗星」「心霊界」の両雑誌を見ました処大本の事が書いてありましたので初めて私は大本の存在を知つたのであります、其の両雑誌には大本の記事が書いてあり鎮魂帰神や心霊現象の事が書いてありましたが私は鎮魂帰神とは催眠術の事だろう位に考へ其の時は余り興味を惹かれませぬでしたが翌大正七年四月頃右両誌に出口王仁三郎が出雲大社に参拝した事が書いてあり心霊界を発行して居つた松江市の木原鬼仏方に宿泊し多くの人を集めて種々霊的実験を行ひ国体に関する話をしたと云ふ記事が出ました、
 其の後聞く処によりますと王仁三郎の実験や話に感じた人が十数名あり王仁三郎が綾部に帰る時に従いて行き色々な話を聞いて帰つた結果同市に現在の皇道大本松江分所の前身に当る大本松江本部を設立した事が判りました、夫れが同年五月頃の事で当時同地方新聞に大本の最高幹部浅野和三郎が右松江本部を巡視旁々講話に来たと云ふ記事が出ましたので私は夜分右本部を訪れました処浅野和三郎が居りましたので同人と色々の話をし同人が其処に集つて居つた三十人位に鎮魂帰神をして居るのを見、次で毎日本部に行つて浅野と話等をして居る間に自然療能の否定出来ぬ事を知りました
 夫れで私は一度綾部の大本に行つて見る気になりましたので大正七年八月十六日頃綾部に行つて出口王仁三郎に会つて色々話をして見ました処私は大本は思つたよりえらいものである事を知りました、而して其の際夕方の八時頃から十二時頃迄大本の庭に在る池に船を浮べて王仁三郎と私と他に女一人の三人で船に乗り王仁三郎と対談しましたが其際王仁三郎は教育勅語の謹解をせられましたが私は其の奥義の深ひのに驚きました、
 又王仁三郎は神と御皇室との関係に付ても話しをして呉れ次で病気に付ての話もしましたが王仁三郎は九種伝染病の予防と療法をも話し尚癩病肺病慢性諸病の療法等に付ても話をしましたが其の内容は堂々たるものでありました、夫れで私は心を動されて大本に入信する決心をして、其の後数回往復し大正八年三月綾部に行つて愈々大本に入信し奉仕生活に入つたのであります、
 之れより先母が子供を連れて私より前に大本に参詣して居つたのであり、帰つてから都合をつけて一度大本に行つて来いと申しましたので母に勧められる儘大本に行つて見たのであり、其の後母は私に対し未だ医者をして居る積りが、今迄は相当医師として社会に貢献して居るであろう、父から人の為になる仕事をせよと云はれたと云ふて居つたが神に奉仕した方が医師をして居るより良いではないか、其の方が父も喜ぶであろうと云はれました。
 右の如く母から勧められますし私も行きたいと思ふて居つた際でありましたので母とも相談して前申しました如く大本に入信し奉仕生活に入つたのであります。
  皇道大本の発端沿革は〔第三回公判調書に同じに付省略〕。
  被告人は大本に入信後如何なる役職に就きたるや。
  之れも予審で御取調を受けた際申上た通りであります。
 裁判長は、
  被告人井上留五郎に対する予審第三回訊問調書中第四、五問答及被告人に対する検事聴取書第十二項を読み聞け、
  被告人は検事局及予審に於ては大本入信後の役職に付斯様に供述し居るが此の通り相違なきや。
  只今御読み聞けになりました通り相違ありませぬ。
  被告人は大本に入信後皇道大本に関する如何なる文献新聞雑誌等を読みたるや。
  私が入信した当時発行せられて居つた文献は全部一通りは読んで居ります、其の後発行せられたものも大体は読んで居ります。
 裁判長は、
  被告人井土留五郎に対する予審第三回訊問調書第六問答を読み聞け、
  予審第三回訊問第六問答に於ては大本入信後大本刊行物を斯様に飜読したる旨供述し居るが此の通り相違なきや。
  其の通り相違ありませぬ。
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