[#82~87頁は省略。88頁以降]
東京のやまと新聞本日発行紙上にも、左の記事が載つて居つたから序に発表しておかう。
最近或る政客が例の大本教の正体を見届けるとて所謂教理なるものを取寄せて探究した際『紙剪り宣伝』なるものを覚えて一枚の白紙を夫々の方式に切り分けて先づ外交関係から国家の将来を占断つて見た所が、世界に傍若無人の振舞をしてゐる米国の勢力が剃ぎかかると十字架が中から現はれて夫が終ひ迄害をするそこで之に対抗するものはと見ると神サマと出る何の神かと見ると坤とあつて即ち綾部の方向を指す、扨て此二大勢力が衝突するのは何時かと見ると明かに大正十年九月二十日午後一時と出る、それでは時の内閣は誰かと見るとこはそも如何に原では厂のノが短くて字にならぬ後藤の字も現はれないので若しやと仮りに作つて見ると最初の十字架がある為めに却て明かに加藤と現はれたので、其政客膝を打つて『ナール程片岡(直温)の熱心な訳ダ』紙切宣伝に就てはこの記事では未だ未だ要領を尽して居らぬ。例の方法で切つて見ると第一に不思議なのは大日本。丹波。大本。本宮。出口直。王仁。直日。其他大本に関し、種々の文字が現はれて来ることを付記しておく。
大正日日新聞社の皇道大本宣伝隊は、社長以下大車輪の活動振り、私も座視するに忍びず、筧、河津両氏の跡を追ふて和歌山市へ出張、岡東館で同地の名士七八名に対し、鎮魂を施して見たが、何れも相当の御魂の持主であつた。東京方面の信者も、追々活動を開始し、大本の出張所たる大道場も、近い内に何等かの形式を以て現はれる事と、今から期待して居るのである。大正十年は丹波の王仁も一奮発せなくては成るまいと思ふ。大本の隠忍期も弥々幕明きとなるのは、大正十年の節分後であろうと思ふ。