出口王仁三郎
室伏高信
大本教への手入れがどのやうな法律的根拠からなされたかは私のまだ詳かにしないことである。もしも新聞紙の伝ふる如くに不敬の疑ひもしくは証拠が挙げられたとしたなら、人はここに現代日本風景の最も基本的な特徴を見るべきである。
大本教が皇道主義を標榜する一宗教或ひは一邪教であることは人のよく知つてゐることである。そしてこのことはひとり大本教に限らない。ひとの道、金光、天理、即ち現代に流行する諸宗教乃至諸邪教、みな一つとして皇道主義に立脚すると称しないものはない。
そして又このことがひとり宗教乃至邪教に限られたことでないことも忘れられてはならない。即ち非常時の烽火があげられてから、いはゆる皇道主義の旗印が日本の各方面に林立したことを。
われわれはこの現象を買い被りもしないが非難もしない。なぜなら国民主義は血の覚醒でもあり、伝統の再評価でもあり、資本主義から社会主義までの、盲目的な西洋崇拝の後におゐて、日本への自覚、国民的自己覚醒の呼び求められることくらゐ自然なことはないからだ。
国体明徴もよく、大本教、ひとの道、金光、天理、或ひは「生命の実相」もよい。あらゆる日本的なものが高調されるのがよく、また再発見されるのがよい。日本は日本の道をもつてゐる筈であり、又もつてゐなければならないのである。
もちろん国体の基礎は嘗て揺いだこともなく、これは万古に渝るところはない。今更ら特別に皇道主義を叫ぶほどの必要がどこにあるかといへばそれ迄でもあるが、出口王仁三郎、山本悌二郎、いはゆる忠君愛国の士続出して、われわれは一層に意を安んずることができるともいへたのである。
だが、巧言令色少ないかな。宗教の隣りに邪教が巣食ひ、愛国者の隣りに愛国モンガアが住む。本居宣長の一つの結論として出口王仁三郎あらはる。──王仁三郎はたつた一人であらうか。