合わせ鏡は引掛戻しのところでちょっと述べておきましたが、重要の意義を有しておりますから、あらためてお取次するのであります。
これは神諭中によくある言葉であって、何事に拘らずその相対的の関係を明らかにし、これを正しく真釣り合わせ(祭)することであります。即ち正しき神人合一、祭政一致、霊肉一致、自他和合等はみなこの合わせ鏡の完成であります。(三位一体の完備は合わせ鏡の正しき帰結なり)
一、個人における合わせ鏡
人はそれ自身が霊魂と肉体との相対的和合より成り立っているから、これを正しく合わせ鏡(霊肉の調和)することによって初めて肉体的には無病強健の人となり、精神的には神心の持ち主となるのであります。即ち霊肉一致であって立派なる人格者(神格者)であります。それにはその環境即ち霊界と現界との関係を会得し、これを正しく合わせ鏡することによって完成するのであって、ここに初めて天地経綸の司宰者として真生活を果たすことが出来るのであります。
[#図 個人における合わせ鏡]
図の如く我々は、神界の公的内護に対して捧ぐる感謝祈願の赤誠を移し、もって社会奉仕たる公的交際を完うし、祖霊より来る私的内護に対する真情を移して、家庭並びに周囲における私的交際を勤めねばなりませぬ。即ちれもに説示してある内的生涯と外的生涯との合わせ鏡(和合)であります。公的内護とは仁慈無限の大神のご神格中に安住し神真の光り神善の徳に浴し、国魂神、産土神その他八百万の神々の順序的ご加護を云うのであって、私的内護とは、遠津御祖の神、代々の祖等、家族親族の祖霊よりの守護を云うのであります。公的交際とは、いわゆる君恩、師恩、親恩、衆生恩に対する報恩的奉仕であり、私的交際とは、家庭はもちろん、親戚、知己、朋友、近隣に対する親和的行動であります。
かく相応の理により合わせ鏡を努むることが身魂みがきであって、その完成が即ち地上の天人であり、現界の生神であります。この域に到達せし人は、随時神々の精霊とそれぞれ相連絡提携(神がかり)して、偉大なる能率を発揮することが出来るのであります。これが真の神人合一であるから、正しき神がかりが容易に在るものでないことが、明瞭に会得反省さるる次第であります。
一、信仰上の合わせ鏡
吾々の信仰上の意義、修養、責務、帰結については、すでに明確に教示を受けておるところであります。
至仁至愛なる大神(上帝または主神)のご大命を奉戴し、天地八百万の天使のお取次として、また統治神として、厳の御魂、瑞の御魂の両大神が顕現され、変性男子、変性女子の肉の宮に鎮まり玉うことは重ねて申すまでもありませぬが、ココに開祖様のご上天についてお取次しておかねばならぬことがあります。
三界に亘る一切の精霊の調査、いわゆる霊魂の立て分けが全部完結し、また御経綸が水も漏らさぬ底に隈なく布き施され、開祖様の主要なる現界的お役目が終了しましたので御神業の促進は第二の御経綸に移らるることとなり、ついに八十三歳をもってご上天のやむなきに至ったのであります。
第二の御経綸とは全霊界の統御及び大本天国の樹立であって、即ち開祖様は大出口神としてここに初めて最奥天国を新設して、個々分立疎隔しているところの各天国団体を統一すべき御神業に奉仕さるる重職にお就きになったのであります。これが「出口の神と表れて艮を刺さねばならん時節が参りて来たぞよ」との御神諭の実現であります(明治四十三年旧九月十日神諭、索引参照)開祖様のご昇天については明治四十三年旧四月十五日の御神諭(索引参照)に、左の如く予告してあってそれが的中したのであります。
「……明治二十五年に天の神様地へ降りて、世界の御守護遊ばすぞよ。地の神天へ上りて守護を致すぞよと申して、口と手とで知らしてありた事の実地が近寄りて来たぞよ。地の底に埋めてありた稚日女君命は天の御守護をなさるなり、国常立尊は天も地も守護を致すなり、天の御三体の大神様は、地の高天原竜宮館の宮屋敷に御鎮まりなされて、結構な世の立替立直しの御守護遊ばすぞよと申した事は、後十年の夢が覚めたら解りて来るぞよ。世界の大戦争を一寸止めさして、次の経綸に掛るから、地の神は一旦は天で守護をいたすようになるが、これが天地へ覆へると申すのであるぞよ。十年先になりたら、脚下から鳥がたちて、吃驚をいたさなならんから、そこになりた折りに狼狽ぬように、身魂を充分に研いて、腹帯を締めておりて下されよと、毎度筆先に知らしてあるぞよ。時節ほど恐いものの結構なものはないぞよ。後は二代三代は申すに及ばず、海潮(聖師様)どのがよほど骨が折れるから、今のうちに十分の覚悟を致しておりて下されよ。これからは何につけても海潮どのが御苦労であれど、この御用天晴勤め上げたなれば、三千世界にまたとない結構な御方と致して、末代名を残さして、御礼を申すのであるぞよ……」
とありまして、今から考えるとご昇天も第二の御経綸も明確に説示してあったのでありまして、しかもご昇天の日は欧洲大戦乱休戦の当日大正七年十一月六日(旧十月三日)でありました。
現界において比較的正しき生涯を送りたる人類は、各所主の愛によりて死後それぞれ相応の天人団体を造るのであるから、平面的には非常に沢山の団体があるのであります。しかし個々独立であるのみならず天人自身も自己団体以外に天国あるを知らず、真に徹底した鎖国状態であったのであります。相応の理により地の世界もこの通りになっているのであります。これを打って一丸となし、各天国団体をして高天原の所属一団体となし、脈絡縱橫、機能整然、本末内外相融和しなくては神政は成就しないのであります。
霊界物語舎身活躍戌の巻(四十七巻)間接内流の章下に
「……天国の組織は最高天国が上中下三段に区画され、中間天国がまた上中下三段に区画され、最下層の天国また三段に区画されてある。各段の天国は個々の団体をもって構成され、愛善の徳と智慧証覚の度合の如何によりて幾百ともなく個々分立し、とうていこれを明瞭に計算する事は出来ないのである。また霊国も同様に区画され信と智の善徳や智慧証覚の度合によって霊国が三段に大別され、また個々分立して数え尽せないほどの団体が作られている。云々」
同上化相神
「……天国の団体は大なるものに至っては十万も集まっており、少ないのは五六十人の団体もある。これは愛と信より来る想念の情動如何によって相似相応の理により団体を形成するからである」
と説示してあります。
そこで開祖様は、最奥天国に上りまして大本の霊界を直轄し、宣伝使を派遣して間接に各天国団体を教化し、もって統一を計らるる主宰神となり給うたのであります(幽界の救済ももちろんのこと)。これが第二の御経綸であります。教祖様の現界における残務は聖師様が伊都能売御魂としてこれを兼ね行わるることは前にも述べておきましたが、独り現界のみならず現界霊界に亘りて関与さるるのでありまして、舎身活躍戌の巻第九章に左の如く説示してあります。これは聖師様のご神格についての大切なるご神示であります。
「真の神は月の国(霊国)においては瑞の御霊の大神と現れ給い、日の国(天国)においては厳の御霊の大神と現れ給う。そうして厳の御霊の大神のみを認めて瑞の御霊の大神を否むが如き信条の上に安心立命を得んとするものは、残らず高天原の圏外に放り出されるものである。かくの如き人間は高天原よりかつて何らの内流なき故に次第に思索力を失い、何事につけても正当なる思念を有し得ざるに立ち至り、ついには精神衰弱して唖の如くなり、或いはその云うところは痴呆の如くになって歩々進まず、その手は垂れてしきりに慄い戦き、四肢関節は全く力を失い、餓鬼幽霊の如くなってしまうものである。また瑞の御霊の神格を無視し、その人格のみを認むるものも同様である。天地の統御神たる日の国にまします厳の御霊に属する一切の事物は残らず瑞の御霊の大神の支配権に属しているのである。故に瑞の御霊の大神は大国常立大神を初め、日の大神、月の大神その外一切の神権を一身にあつめて宇宙に神臨したまうのである。この大神は天上を統御したまうと共に、中有界、現界、地獄をも統御したまうは当然の理である事を思わねばならぬ。そうして厳の御霊の大神は万物の父であり、瑞の御霊の大神は万物の母である。総て高天原はこの神々の神格によって形成せられているものである。故に瑞の御霊の聖言にも『我を信ずるものは無窮の生命を得、信ぜざるものはその生命を見ず』と示されている。また『我は復活なり、生命なり、愛なり、道なり』と示されてある。しかるに不信仰の輩は高天原における幸福とは、ただ自己の幸福と威力にありとのみ思うものである。瑞の御霊の大神は、総ての神々の御神格を一身に集注したまうが故に、その神より起こり来るところの御神格によって高天原の全体は成就し、また個々の分体が成就しているのである。人間の霊体、肉体もこの神の神格によって成就しているのは無論のことである。そうして瑞の御霊の大神より起こり来るところの神格とは即ち愛の善と信の真とである。高天原に住める天人は、総てこの神の善と真とを完全に摂受して生命を永遠に保存しているのである。そうして高天原はこの神々によって完全に円満に構成せらるるのである。云々」
瑞とは御稜威であって、伊都能売御霊のはたらきであります。即ち厳の御霊と瑞の御霊との御はたらきの合同完美せる意義であると説示されておりますから、あたかも左右の手が別々に働く時は厳の御霊、瑞の御霊の御はたらきであり、その人全体としての働きは伊都能売御霊の御はたらき即ち瑞の御霊の大神のご神格に相当するのであります。神様のことは吾々人間に判るものではないが、この辺までは覚らせていただくことが出来るのであります。
また前項に開祖様が……宣伝使を派遣して間接に各天国団体を教化し云々……と申しましたが、神的順序の上からして開祖様は、聖師様から宣伝使を任命さるるのをお待ちになっていたのであります。大正十三年旧十二月から信教宣伝使が新任さるるようになった理由、また宣霊社を造りて贈宣伝使の霊をお祭りになったのも、みな意義深き神事であって、この一事によりても聖師様のご神格の一端が覗い知らるるのであります。かかる次第であるから、綾部の大本は神と人との世界の大橋であって、全世界に先だちて霊界と現界とが最も完全に合わせ鏡されつつある中央霊府であります。そして開祖様は天の鏡となりて霊界より、また聖師様は地の鏡となりて現界より両々相照応して、直接我が大本聖団を指導開発されつつあるのでありますから、吾々においては信仰上何の迷うところはないのであります。ヤガテこの両鏡を世界の人々が是認する時が、即ち思想界の統一(道義的世界統一)であります。吾々大本信者としては、開祖様の神格に対しては、誰でも絶対服従の信念が築かれていないものはないと信ずるのであります。かくの如くにして一方聖師様にも心服することが、即ち天地両鏡を正しく合わせ鏡したのであります。「出来得れば絶対服従をして貰いたい」との聖師様のご希望が、当然であることがますます会得さるるわけであります。一家庭にしても、子として両親の軽重を比較云為する道理はないのであって、父親に対する愛と信はそのまま、また母親に捧げ、合わせ鏡を完うせねばならないのと同一理であります。従ってこの天地の合わせ鏡に注意してさえおれば、たとえマダ衷心より服従が出来ぬ人であっても、それは黙って見ておれば無難であるから、これは先ず別として、近来つぎつぎに現れ来る、かの大本の向こうを張る方面よりの引掛戻しが、いかに巧妙に襲うて来ても、信仰上にすこしの動ぎも来るはずはないのであります。
[#図 信仰上の合わせ鏡]