漸くに上谷の里に近づけば怪しく聞ゆる野狐の啼き声
堂山を下れば四方春蔵の墓標は月と雪にはえをり
『野崎』春蔵の幽霊今夜は先生の生首抜くというてゐました
『野崎』それそこに春蔵の幽霊が現はれた蒼い顔してにらんでゐますよ
『上田』春蔵の幽霊こはくて世の中に生きてをれるか馬鹿をほざくな
ああこはい墓から青い火が出るとふるひ戦く狂者のをかしさ
火の玉も幽霊も出ぬ新墓の前にたたづみ祝詞のりたり
それそこに幽霊がゐるといふ野崎あまりに心持はよからず
折もあれちらちらと降る粉雪はわが首のべにひやりと落ち来る
とんきような野崎の声に何となくわれも首すぢぞくぞくとする
わが魂は臆病神におそはれて足もとわなわなふるへ出したり
気の弱きわれにあらねど新墓の前にしたちておぢけ催す
決心の臍を固めて高らかに宣る神言もふるへゐたりき
大空に雪雲わきて中天の月をつつめばあたり小暗し
月読は雲に姿をかくせども積む白雪にほの明き墓地
いざさらば綾部に帰りやすまんと杖を握りて立ち上りけり
この野崎わが袂をば握りしめああうらめしやと幽霊の真似する
春さんの幽霊が私に憑きました去なしはせぬと野崎が袖ひく
握りたる袂を強くふり放し一目散にわれかけ出しぬ
この野崎かまきりのやうな手つきしてほういほういといひつつ追ひ来る
余りにもいやらしきまま六尺の褌はづしてひきずり帰る
六尺のまはしに驚き野崎らは四五間遅れて従ひきたる