『神は万物普遍の霊にして
人は天地経綸の司宰者也
神人合一して茲に無限の権力を発揮す』
大本教旨は右の如く極めて簡単であつて、一見明瞭な要領よき文句でありますが、内容は非常に重要深遠な意義を含んでゐますから、之を詳解することは容易なことではないのであります。
それで大本教旨は、(一)神に関する一切の闡明 (二)人に於ける一切の解説 (三)神と人との関係 を神示されたものでありまして、惟神の大道(皇道)の真髄といふべきであります。以下概要を述ぶることと致します。
神は万物普遍の霊
これは神に対する確固たる定義を与へたものであつて、之によつて左の要項が分明するのであります。
一、神は万物に普く遍在し給ふこと。
二、神は霊にましますから肉眼では視えないこと。
三、神は本来一神なれども、顕現の順序(縦)と分掌的活動(横)によつて八百万の多神となること。
四、神には超人格的の神と、人格的の神との区別あること。
小天地たる人間の精神肉体両方面の力即ち人格的活力が、人身構成の単位たる細胞一つ一つに遍在してゐると同様、神格は万物に到らぬ隈なく普及して、万物の生成化育を営為し給ふのであります。それで万物を結成してゐる霊、力、体は、即ち神の分霊、分力、分体であるから、それで大本では『宇宙の本源は活動力にして即ち神也、万物は活動力の発現にして神の断片なり』と示してあるのであります。
この大活動力が宇宙の独一真神即ち大元震でありまして、我国では天之御中主大神と称へ、総ての宗教も真神を認むることは同じでありますが、御名については造物主、太極、真如、天帝、ゴッド又は単に神或は天などと称へてゐるのであります。
神の大原動は、一霊(直霊)、四魂(荒魂、和魂、奇魂、幸魂)、八力(動、静、解、凝、引、弛、合、分)三元(剛体、柔体、液体)として発揮されてゐるのでありまして、神典には一々之に神名が付してありますが、何れも神の顕現の第一段(幽の幽神)に属するものであつて、聖眼之を視るを得ず、賢口之を語るを得ずといふ超人格的の神でありますから、只大自然力と宇宙美観より思考してその力徳の一端を窺知し得るに過ぎないのであります。
神の第一段の御活動により、茲に天地剖判して日月地霊の出現となり、神の統制は基礎的(霊的)には一通り成立したのであります。之が神の第二段(幽の顕神)の顕現であつて、茲に偉大なる霊身を持つた超人格的の神々を地上に見ることとなつたのであります。
神の第二段の成立に次で海陸の完成、動植物の発生となり、茲に第三段、顕の顕神、即ち人の顕現となつたのであります。それで人は肉体を有つた神として、神のはたらきを分掌実行すべきが本来であるのであります。本分使命を果した人の死後は、第四段(顕の幽神)の神、即ち天使天人として霊的活動を続けることとなるのであります。
以上、神の四階段の顕現並に分掌的活動は、顕幽本末互に連絡して永久に活動を休止しないのであります。それで、神は、巻けば大元霊たる一神に帰し、開けば八百万の神々となるのであるから、一神論を強調するのも、多神論を強調するのも、何れも当を得たものではないのでありまして、一神にして多神、多神にして一神なりといふことが、正しき神成観であるのであります。一神なるが故に道、即ち真理は単一無雑であり、多神なるが故に森羅万象の実在となるのであります。
大本では『今迄は神が蔭から守護された時代であつたが、世が転つて今は神が表面活動を開始されたのであるから、より以上神を信じ、神を敬ひ、そして神に親まねば、何事も成就しない』と力説するのであります。読者は本章によつて神の概念を得らるることと思ひます。
人は天地経綸の司宰者
昔から人は小宇宙、天地の縮図等といはれてゐますが、人といふ文字を象形の上から見ても、天と地、陽と陰、自分と他人などの相対の結成を示してゐるのであります。之を言霊の上からいへば、ヒトは霊止であつて、神霊の止まり給ふ究極点といふことになるのであります。大本で『人は神の子、神の宮』というてゐるのも、このためであつて、人を結成してゐる霊力体を見ますと、真に万物の霊長として神と性情を同うする霊魂を享受してゐるから、当然神の代行者として活動し得る能力を蔵して居り、又肉体は何物にも勝つた霊妙巧緻麗美の構造であつて、神の道具たる資格を完備してゐるのであります。人の姿は神の理想の結晶であるから、取りもなほさず人の姿は神の姿であるのであります。
『人は天地経綸の司宰者也』と定義してあるのは、元来人の生れて来るといふことは、現界の基礎をなしてゐる世界即ち霊界に於て活動すべき天使天人を養成するためでありまして、肉体は天使天人の鋳型であり、現界は苗代といふべきであります。
先づ霊子といふものが人の胎内に宿り、胎児より生後へと発育をつづけて神の姿を完成し、霊魂も亦之に件うて発育を遂げ神に代るの力徳を得て、茲に天使天人の相応者となるのであります。これが人生本来の道程であり、目的でありますが、之についての必要条件は、神に帰依して心の修養即ち霊的生涯を完うすると同時に、世間的生涯を完うすることであるのであります。
世間的生涯を完うするといふことは、国家社会の一員として各々の職業を正しく勤むることであつて、之を外にしては決して天使天人の資格を得ることは出来ないのであります。職業を正しく勤むるには霊魂の正しき発育が原動力となるのであるから、修養と実行が両々相俟つて初めて人生の本分を完うすることが出来るのであります。斯うした場合が、現界即ち地上に於ける経綸の奉仕であります。
地上の経綸に奉仕した人は、死後直ちに天界に復活した天使天人として霊的(基礎的)経綸に奉仕し、茲に不老不死の生涯に入るのであります。
霊界と現界とは、物質の立場から見ると全く別な世界でありますが、霊的見地からいへば交通自在といふよりも、むしろ不可分の関係にあるから、達観すれば霊界も現界も同じ世界であるといつても差支ないのであります。
それで肉体では現界の事しか判らないが、霊魂は両界を通じてはたらくのであるから、人の使命は此の世の生活ばかりでなく、死後まで永遠無窮に一貫してゐるのであります。人は天地経綸の司宰者であるといふことが、これで一通り明かになつた訳であります。
之について左の事を知つておく必要があります。
現界に於て霊魂が完全なる発育を遂げなかつた場合には、神の代行者としての活動が出来ないばかりか、未完成乃至邪悪な霊魂として死後もその行動を続けるのであるから、天界へ復活することは容易のことではないのであります。それで人間はどうしても、天人の苗たる現界にゐる間に、常に神に向ひ道に住し、現界経綸奉仕の実を挙げねばならないのであります。人間の幸不幸等一切の解決点は只此の一事に係つてゐるのであります。
神人合一
人は神の子、神の生宮であるから、神人合一するのがむしろ当然であり、又神人合一の境地にならねばならぬ約束の下に生れて来て居るのであります。
神人合一と云ふのは、世間で普通云ふところの無念無想の境とか、或は無我の境とか云ふのではないのであります。神と人と和合し合体することであつて、完全に人が神の子として神の生宮として不離の境に到ることであります。
神人合一の境地に到るのには、常に神格を享受して霊魂の向上発達を努むるに在ります。神格を享受するには神への絶対信仰が最も必要であることは無論でありまして、その享受の様式を内流と云ふのであります。
内流とは、その人の霊魂が神の霊性と一致又は相似の状態となつた場合、神格が恰も水の低きに流るる如く流入して来るのを云ふのでありまして、電波の波長が一致した場合に時空を超越して通じ合ふのと一様であります。内流には、直ちに真神より来る場合(直接内流)と、天使天人や真人又は神書等を介して来る場合(間接内流)とがあるが、間接内流が普通であります。何れにせよ、神格がその人の霊魂に充たされると神人合一の境地となるのであります。
神人合一の境地には、神がかりと云うて帰神と神懸の二様式があります。
帰神は神がかりと訓じますが、不断の内流を受けて神の霊性と同一状態に向上した場合を云ふのでありますから、完全なる神人合一の境地であつて、見たところ常人と何等異るなき状態でありながら、思ふことも言ふことも行ふことも総て神の御意志に合致するのであります。
神懸とは天使天人によつて一時肉体を使役される場合を云ふのでありまして、此の場合、第一人格即ち本人は傍観の状態にあるのが帰神との相違点であります。
帰神も神懸も最も尊重すべき神的現象でありまして、そこに初めて本来の神の目的と人の目的とが相一致するのであるから、茲に霊界現界を通じて無限の権力を発揮することとなるのであります。霊魂が時間空間を超越して神の御意志を活現することは、即ち無限の権力を発揮する所以であつて、肉体に宿つて居る場合、即ち現界に於ても神に代つて超人間的の力徳を発揮し得るのであります。
之に関して左の事実に注意すべきであります。
肉体は一人前であつても霊魂が未完成乃至邪悪であつたならば、同程度の霊界即ち中有界乃至幽界(地獄)と感合して、迷ひと不安の境涯乃至虚偽罪悪を行ふ人間となるのであります。かかる場合には、低級霊又は悪霊に憑依されて肉体を使役され易いものであります。やはり之を神がかりと云うて居るのであるが、大本では神憑の文字を以て正しき神がかりと区別してあるのであります。目下の憂ふべき社会相は、此の種の霊的又は憑霊現象に外ならざることを深く反省すべきであります。
霊魂の神格観
霊魂(一名精霊)は発育の道程乃至状態より見て、左の三様の神格名がつけてあります。
一、本守護神
霊魂が完全の発育を遂げた場合を真霊、本霊又は天的精霊と云ひ、神格的に之を本守護神と称するのであります。善の為に善を行ひ真の為に真を行ふところの極善の人として、地上天人の生活をなすのであります。
二、正守護神
本守護神に次いだ善霊魂であります。霊魂がまだ本守護神の状態に完成されなくても、天界と現界の調和を計り、肉体欲即ち副守護神に対して監督指導をなし得る情態に在る場合を正守護神と云ふのであつて、良心の囁き、克己心、反省等は正守護神のはたらきであります。
三、副守護神
霊魂には又専ら肉体を守護愛撫するはたらき所謂肉体欲があつて、肉体は之によつて維持されて居るのであります。之を副守護神又は地的精霊と云ふのであります。霊魂が本守護神又は正守護神の情態にある場合には、副守護神は必ず之に隷属して正欲に止まるのであるが、副守護神の発育が強盛であつて欲望を貪るやうになれば、全霊魂も亦次第に自己愛、個人主義に傾き、遂には所謂良心の麻痺となつて、折角本守護神にまで向上すべき神性を有しながら、全霊魂は反対に悪霊に堕落するのであります。