世人の多くは現代の世相を讃美して、文明極致の世界と誇つている。しかしひるがえつて考うるときは、すべての科学、宗教、政治、教育、芸術その他いつさいは、いずれも偽文明の経路をたどつてきているのだ。いまだ真の文明なるものは、吾人は見聞したことがない。それかあらぬか、このころしきりに文化々々という声が聞こえてきた。いわく文化生活、いわく文化式建築、いわく文化床、いわく文化あめと、むやみに文化をさけび、かつ文化という語は、文明の向上したもののように思つている人士が、ずいぶん多数あるらしい。
しかし、文化は文明の産物ではなくて、文化は世のいつさいを真の文明に導く道程である。宗教に、政治に、商業に、教育に、芸術に、すべてのものはいまだ文明の域に達していない。めつきの文明、仮装的文明である。それゆえ社会一般の事物は、一として完全な、そして鎮静したものはなく、つねに紛擾たえまなき状態である。文化運動は、世を真の文明に導く先駆であらねはならぬ。文化運動なるものをもつて、文明の、そういつそう発達したものと思うのは誤謬である。よろしく現代をして生命ある真の文明世界に到達せしむる活動が、文化運動の骨髄であらねはならぬ。
三文文士や、職業博士や職業政治家の唱うる文化は、あたかも盛夏の泥溝にわいた蚊の泣き声にひとしいものである。現代人はよろしく神の天啓に眼をさまし、一日も早く文明世界、すなわち黄金世界出現のために努力せられたいものである。政治、宗教、教育、芸術その他いつさいの事物は、まず宇宙創造神の天啓にまつよりほかに途はあるまいと思う。
(「瑞祥新聞」大正14年2月1日)